三話 -2
箱根の峠道は険しく、息が切れるものだった。
そうはいってもここのところ晴天に恵まれているお陰か雪も少なく、噂に聞くほどではないと感じた。
人の往来もわずかながらあり、確かに道は狭いが東海道よりも行き来は激しいのではないかとすら思えることもあった。
おこまを追って黄槇組の男衆が現われることも、それ以外の盗賊や暴漢に絡まれることもなく、旅は順調に進んだ。
峠の途中、北村よりは幾分か発展した集落に立ち寄り、桃太郎は団子を購入した。
どうにも今日は腹が空いてしまう。
まだ昼前だというのに、道中それをパクつきながらの歩みにおこまは微笑ましい光景でも見るかのように笑っていた。
そうして昼を少し回った頃、ようやく宿場町らしい町並みが見えてきて、二人はほっと肩で息をついた。
「よかった。これでようやくお昼にありつけますね!」
「はぁ? まだ食うのかい。太ったって知らないよ」
「そ、それは……いつもそんなに食べるわけではありません。まぁ、なんにせよ、あそこが東海道一の難所といわれる箱根の関ですね」
「いや。三島宿だよ」
「――は?」
箱根の関といえば、数ある関所の中でもくぐり抜けるための審査が厳しいと有名な難所である。
大概は治安維持の名目で、上方から江戸へと持ち込まれる品物に厳重な検査と、送付されている通行許可証の真偽を確かめられるのが主だが、江戸住まいの大名や武家が、税金逃れのため、妻子を江戸から地方へと身を移させる「出女」という不正が頻出しており、身分査証や男装を見破る「髪検め(人見女)」という女性の検分役が常駐していることでも有名であった。
つまり、武士に扮している桃太郎にとっては、言葉のとおりの難所になる、はずであった。
おこまの返答に目を瞬かせる桃太郎。
三島宿は、そんな箱根を越えた次の宿場町である。
「――箱根の関は?」
「箱根ならさっき越えてきたじゃないか。お武家様がお団子を買っていたあの……」
「え……っと、だって関所は!?」
「関所だって通り抜けて来ただろ。ああ、門番がいなかったから、気がつかなかったかい?」
今更なにを言っているのかといわんばりのかんばせであるおこまへ、続けて噛み付こうとした桃太郎はふいに、こんな遣り取りが以前にもあった気がした。
眉を吊り上げる。
「もしかして、知っててやってますね……?」
桃太郎の知らないことを、さも当然のように振舞いながら、そういう実はからかっている。
常識を笠に着た子供騙し。
絹月にやられていたからかいと同じだ。
「関所なんてモンは、戦乱なんかのときの備えが、いまだに取り払えず尾を引いてるだけなんだよ。
現に、嘗ての「織田」も「豊臣」も関所を撤廃しようとしていたし、今の幕府にだって関所廃止の動きはあるんだ。
それに、平民の生活は単純じゃないからね、たったひとつの規則でなんか測られちゃあお飯食い上げさぁ。
だからこういう脇街道には、ああやって、宿場ぐるみで関通しをさせてくれるような場所もあるんだよ」
おこまの常識と、桃太郎の、廓に出入りする町人やら武家やらから得ていた知識とは、一概に違っているとまではゆかないが、明確なズレがあるらしい。
桃太郎は街道を歩く他の人影を見渡し、声を潜めた。
「でも、それって違法なんじゃないですか?」
「そうね、合法ではない、ってところかな。どうせ、幕府がそれを知ったところで御咎を受けるのはあたい等じゃない」
おこまの言うとおりなのだとおもう。
桃太郎はそこまで生真面目な性格をしていない。吉原での作法や規則を身体に叩き込むのも苦労した方だ。
もちろん人に迷惑をかける規則違反はいけないとしても、日々の生活があるのなら、仕方がないことだということも判かる。
それでもどこか浮かない表情の桃太郎に、おこまはさらに言葉を続けた。
「まぁ、人にも法にも御優しいお武家様だから、こういった不正行為は気になるんでしょうけど、安全に箱根の関を抜けられる裏技があるんなら試してみたらどうだい。
でも、男装が直接罪にはならないけど、身分を偽っての関所破りは磔獄門だよ、それくらいは知っているだろう?」
「そ、そういう意味でいったんじゃありません!」
おこまの人を絵に描いたような言い方が勘に障り、桃太郎はツン、と遠いお山の方を向いてしまった。
おこまの言う裏技が、桃太郎にはあったのだ。
普通関所を抜けるためには大名や老中の判鑑が押された「通行手形」が、女性の場合は「女手形(御留守居証文)」という特別な手形が必要になる。
とはいえ女性は手形の発行審査が面倒であったため、桃太郎のような男装をして関所抜けをする者も多かった。
箱根関の「出女」検分を知っていた惣吉が、桃太郎のために用意した手形は「女手形」であった。
それも、「書替手形」と呼ばれる特別な手形であり、これは御伊勢参りを行う者に対し、幕府が直接発行する手形であり、持つ者は幕府があらかじめ看做を行ったとされ、手続きを省略されることになるのだ。
たった二日でこんなものを用意した惣吉の手腕は賞賛に値する。
陰で、決して少なくはない金額が動いていたことは想像に易いはずである。
惣吉さんの苦労が、無駄になってしまいんした。
これがあれば大丈夫だから! と肝煎りをしてくれた惣吉の顔を思い出し、心馳せ胸を痛める桃太郎であった。
三島宿では昼食に温かい蕎麦を啜り、二人は旅路を進めた。
まだまだこの旅の先は長い。
惣吉の心遣いが陽の目を見る機会もあるだろうと、桃太郎は用意していた手形を手荷物の奥へと押し込んだ。
旅すがら、歩きながら抓める団子を買っておくことも忘れなかった。
箱根峠を越え、日が昇っては落ちること二巡り。
桃太郎とおこまは駿河の国を歩いていた。駿河といえば、なにはなくともこれがなくては始まらない。
「ご覧よお武家様! 富士のお山が見えてきたよ!」
タイミングを見計らって、おこまが絶景かな! と叫んだ。
「み、見えてますよ……っ、いきなり大声出さないでください……」
屹然と聳える霊峰・富士。
云わずと知れた日本一の標高を誇る霊山である。
白諤々と雪降り積もるこの季節、天気のいい日であれば遠く江戸からでもその雄大な姿を望むことが出来、古来からこの国に住む全ての者の心を射止めてきた。
厳密には甲斐の国に跨る休火山であり、有名な富士五湖や樹海も甲斐の国側に分布しており駿河には裾野が少ししか被っていない。
それでも景色としての富士山を眺められるのは駿河であり、特に海と富士山を見渡せる伊豆の国からの海岸線は、絶好の景観を演出してくれている。
「人の目ってものがあるんですから、あまりはしゃがないでください」
「人の目ってなにさ! あたいの御目目だって人の目だよ! 感動したもの、綺麗なものに心動かされてなにがわるいのさ!?」
「そ、それは……心は動かされてもいいですけど、態度に示すのは、場所を考えた方がいいんじゃないですか、という話です!」
「人の目だとか場所だとか、辺り構わず団子食ってるお武家様には言われたくないね!」
「ぐ……っ!」
どうやら、今回は桃太郎の負けのようである。現に今も団子の串を抓んでいるのだから反論のしようがなかった。
おこまの機嫌は、しばらく前からあまりよろしくない。
原因は、三島を過ぎ、沼津宿で旅宿をとったときのことを引き摺っているからであろう。
桃太郎が、始めから一緒の部屋はとらないといってあった、と何度いっても聞く耳持たず、さっさと不貞寝を決め込んでしまっていたから始末に負えない。
それで、富士山が見えたことで持ち直したテンションを、桃太郎は思いがけず潰してしまった。
仕事のときは姉女郎を盛り立て、客にも愛想を振り撒ける桃太郎なのだが、おこまの前ではどうにも勝手が違ってしまうのだ。
その愛想が原因で、廓では太鼓持ちだのと罵られてきたはずなのに、おこまに対しては悔しいほどに一切出てこなかった。
桃太郎がちょうど団子をひとつ呑み込み、ふと眼をやると、一匹の山猿が、茂みから顔を覗かせているのが見えた。
桃太郎は基本動物が好きだ。
人間の前身といわれる猿も、その類にもれずである。
「おこまさん、あれ! あそこに猿がいますよ!」
「へー。そう。別に猿ごとき珍しくも――」
「あ! で、出てきた! 出てきましたよ、おこまさん!」
最初、おこまの気を引こうと指差した桃太郎は、猿に興奮するあまり当初の目的を失念。しらけるおこまを他所に、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「お武家様……ぜんぜん、人のこといえない」
そういや、人には見えない「犬神」の霊を相手に、夢中になってたこともあったっけ。
団子の前にそっちを指摘するべきだった、と後悔あとに立たず。
おこまは自分もこんな感じだったのかと思うと、少々複雑な気分で頭をふった。
猿は人になれているのか、どこか困ったようにみえる表情が微笑ましかった。
はしゃぐ桃太郎へと寄って来ると、陣羽織の隙間から腕を滑り込ませ、流れる動きで胸に手を置く。
………………………………。
「?」
「反省」のポーズであれば、手は相手の膝に置かれるはずである。
一連の動作があまりにも自然で、成熟途中なれど吉原の御女郎であるにも拘らず、桃太郎は猿による猥褻な行為を許してしまっていた。
笑顔のまま凍りついた表情が、猿の指先の動きで瞬時に解凍される。
「よしなんしっ!」
桃太郎が振るった平手は手にした団子の皿ごと猿の顔面を襲うが、猿は寸ででそれを躱した。
そこへ、示し合わせたかのように現われた二匹の猿は、飛び上がった団子を見事に空中てキャッチし、三匹の猿は皿に乗っていた団子ふた串と、桃太郎が食べかけていた団子ひと串を仲良く一本づつ手に持って、茂みの奥へと走り去っていったのである。
「――不覚っ!!」
「ええ!?」
桃太郎は茫然自失から地面へと突っ伏すと、治りかけの皸がまた開いてしまうのではないかという勢いで、握り拳を叩きつけた。
「お、お武家様ぁ……」
「こ、この桃太郎……猿公ごときに身体を弄ばれたあげく、よもやそれが団子を奪うためだったなんて……もはや生き恥!」
「そ、そんな大袈裟なぁ」
兢々として戦慄く桃太郎は、すぐ傍で手をぱたぱたさせるおこまの声も耳に届かず、その手を腰の太刀にかけた。
「腹を斬って死にまする! 止めてくれるな!」
「きゃあああああああああっ!?」
ぎらりと『色斬』を抜き放ち、逆手で持って自分の腹部へ切っ先を突きつける桃太郎。
この時代、自害、とくに自らの刀で腹を切り裂く死に様を「切腹」といい、帯刀を許されている武士が辱めを受けた場合、「切腹」はそのまま生き永らえるよりも法のお裁きを待つことなく潔し、むしろ美徳とされている部分があった。
しかし、桃太郎は武士ではなく、これは廓での幇間(座敷で芸を披露する男性芸人)が見せる演目芸の見過ぎである。
こんな大声で自害を宣言すれば止めに入る人がいて当たり前であり、桃太郎のちいさな身体は、いまやおこまの悲鳴を聞きつけて集まってきた道中の男に羽交い絞めにされ、『色斬』も取り上げられてしまっていた。
「はやまっちゃいけねぇ、ってお武家様!」
「お武家様落ち着こう! ね!」
「ええい! 放せ! 放せぇい! 死なせて! 邪魔するなぁあ……!?」
そんな、長閑な昼下がりのひと幕であった。