一話 【桃太郎の旅立ち】
「売られた者と、買った者の違いが分かるかい?
人間には、おぎゃあと産まれた時から持ってるモンの数が決まっているのさ。自分を売る、ってことはね、そういった「持ってるモン」を幾つか失うってことなんだよ。
商売は対価等価だなんて言うけどそうじゃない。売られた者は人間として授かった一部を失い、買った者は少なくともその相手より立場は上になる。
これは分かるだろ?
さて。問題はここからだよ。廓へ来た女はそれでも買われてしまった自分のモンを取り戻し、いつか人間としてここから出て行く日を夢見ている。でもね、一度人間から堕とされちまった女が、もう一度人間だと認めてもらうには並大抵の努力じゃ足りないのさ。
もちろん誰も手を貸しちゃあくれないよ。運がよければ身請けなんて話もあるかもしれないが、それだって、自分のモンが、また別の誰かに買われるということ。めでたく年季が明けたって、所詮身一つで放り出されるんだ。
だからその時までに、必死に、失った自分のモンを埋められるだけの力をつけておくんだ。誰にも助けてもらえなくても生きてゆけるだけの力を。そして、出来るなら、誰かを助けてやれるくらいの力を、ね」
お桃が初めて遊郭『灸なり』へと連れられてきた日のこと。
絹月の自室へと案内されたお桃は真剣な、そして神妙な面持ちで、開口一番訊ねた。「わたしは、売られて参ったのでしょうか」と。
それに対して絹月は、ここがどういう場所であるのか、明日からどのように生活をしてゆくのかを教える前に、まだ幼いお桃へとそう語りかけた。
廓詞という独特の話し方がある。廓とは遊郭の中を指し、あちこちから連れて来られる遊女たちの身分や出身訛りを隠すために用いられた、吉原遊女ならではの口調である。
よく耳にするのは語尾に「〜でありんす」などの女言葉を付ける俗にいう「ありんす詞」だが、遊郭や女郎部屋によって違っており明確な決まりが定められているわけではない。
まだ何も知らないお桃に、この廓詞を教える立場でありながら絹月が敢えて砕けた言葉を使用したのは、廓詞に馴染みのないお桃にでも理解がし易くするため。
それと、この吉原といういつ何が命を別つともしれない苦界にありて、せめて最初と最後があるのなら、その時は、花魁、遊女としてではなく人間として、誰かに接したいと心情を感懐していたからであった。
お桃はそんな絹月の思いやりある心根を幼心に感じ取り、この人の下で、決して恥ずかしくない生き方をしてゆこうと、その日誓ったのである。
それから、早くも八年の月日が流れた。
明暦三(1657)年。一月。松過ぎの頃。桃太郎が迎えた十五度目の冬。遊女の朝は早い。
通例であれば明朝大門が開けられる卯の刻(朝六時)には、前日「床入り」となった客が朝帰りの準備を始めるため、遊女達も見送りの仕度をしなければならず、それは一年前に御新造出しを終え、めでたく花魁絹月お付の振袖新造となった桃太郎も同じことであった。
しかしこの日はたまたま、絹月の馴染である廻船問屋・甲州屋三代目、奥村兵衛門が引け四つ(夜十時)には帰宅してしまっており、桃太郎は、普段よりゆっくりとした朝を迎えることになる、はずであった。
「これ、桃太郎。起きなんし」
掛けられた声はとても耳に心地よく、揺すられる肩が舟を漕ぎ、桃太郎を眠りの淵から岸へと引き寄せる。
ややあって、桃太郎が目を開けると、枕元には絹月が微笑んでいた。
「お、おいらん!? あ、あれ!? わたし、そんなに眠ってありんしたか!?」
「ああ、ご免なさいね。起こしてしまって。よく寝てありんしたなぁ」
花魁が、新造の寝室に顔を出すことなど滅多にないこと。夢現を通り越し、大慌てで蒲団から飛び起きた桃太郎に、絹月はたおやかな笑顔をみせた。
部屋には桃太郎と絹月の二人しかおらず、他の新造たちはまだ帰って来ていないことから、少なくとも辰の刻(朝八時)前であることは推測できる。それほど寝過ごしたというわけでもなさそうだ。
「おいらん、どうしなんしか? こんな早うから……」
にわかに舞い戻りつつある眠気に目元を擦りながら、桃太郎は訪ねた。
絹月には桃太郎以外にも数人の新造がついている。そんな彼女らの姿も今はなく、桃太郎は何事かあったのか、と首を傾げてしまった。
「桃太郎。旦那様がお呼びですよ。ついて来なんせ」
――旦那さまが? 桃太郎はさらに傾きそうになる首を立て直し、急ぎ蒲団から抜け出した。花魁が起こしに来るほどの店主からの用ともなれば、ただ事ではないと想像できたからだ。
「あ、あい! すぐに仕度いたします!」
桃太郎は蒲団をたたんで押入れへしまい、髪を整え、化粧はせず、小袖を羽織ると絹月について寝室から廊下へ出た。
絹月の様子からはそれほど急いてもなく、怒ってもなく、一体なにを言われるのか見当をつけようもない。それでも強いて上げるとしたなら、思い当たる事象がないではない、心中穏やかでない桃太郎であった。
元和三(1617)年、江戸幕府より、大衆遊郭敷設の許可が下り、市中で娼家を営んでいた大店の商人が中心となって始めた吉原遊郭も、元和四年の営業開始から彼此三十八年になる。
そんな折、昨年幕府よりのお達しが下り、吉原遊郭は本所での営業をやめ、浅草へと移転することが決定した。理由は、現在の日本橋周辺が、幕府の当初の予定よりも大きく発展してしまい、遊女小屋などは著しく外観を損ねるため、という相変わらずのご都合主義であったが、お取り壊しにならなかっただけマシだと、仕方なく遊郭側もこれに賛同する結果となった。
このタイミングでの重大そうな呼び出しとくれば、幼い頃から勤め上げてきた吉原のことである。桃太郎にもある程度の予想はついていた。
「おう。桃太郎、わざわざ朝早くから済まねぇな」
利兵衛は奥座敷で火鉢に当たりながら、絹月に連れられてきた桃太郎を出迎えた。「おう」から始まる話し方と、桃太郎に対してだけ、僅かに綻ぶ剣呑な顔つきは、八年前からまるで変わっていない。
「実はな、わざわざ来てもらったのは、他でもねぇ、お前の「突出し」についてだ。前々から絹月とも話してはいたんだが、俺は、お前にはまだ早いとおもうんだ。それでも絹月は大丈夫だと推すもんでな、どーしたもんかと悩んじまってなぁ……」
そらきた。と、桃太郎は内心ほくそ笑んだ。
振袖新造は花魁の傍につき添い、多忙な花魁に代わって御噺、酌、舞や芸を披露することはあっても、自分で客を取ることはない。
「突出し」とは、本来客を取れない振袖新造に、客の相手をさせることである。それはもちろん「床入り」のことをいう。
「床入り」とは相手の男性客と遊女がひとつの蒲団で一夜を共にすることであり、つまりは、まぁ、そういうことだ。
「突出し」はだいたい十六、七の振袖新造が行うのが通例で、これをもって新造は、花魁として大々的に売り出す前段階とすることが多い。「突出し」をしたから花魁になれるわけではないとはいえ、齢十五の桃太郎をさして、まだ早いという利兵衛の心配も尤もであった。
桃太郎は絹月を振り返った。
「突出し」は一人前の遊女となるには不可欠な通過儀礼であるものの、遊郭は商売であるため、たとえ姉女郎が推薦したとしても、店主が独断するわけにはゆかなかった。客に対して粗相が起きないよう、本人の同意が最終的な決定となるのである。
それでもことが巧くできなかったり、客が不満を漏らした時には、多くの場合、その晩の代金や始末金などを新造の姉女郎が肩代わりさせられることとなる。
絹月は何も言わず、やさしく微笑んだままで、桃太郎と視線を交わした。
桃太郎は七つで禿となってから今日まで、絹月のすることをずっと見て来た。
姉女郎が「床入り」をする際、間違いが起こらないよう部屋の外で寝ずの見張りを行う「番」という業務があるため、「床入り」がどういう行為であるのかももう知っている。姉女郎の目を盗んで客の相手をしたという振新の話なども耳にし、知識だけなら充二分にそろっていた。
あとは覚悟の問題であり、その覚悟は、なにより先に、絹月と出会った八年前に、もう出来上がっていた。
この人に恥ずかしくない生き方をする。敬愛する絹月が推薦してくれているのなら、桃太郎に迷う理由はなかった。
「旦那さま。桃太郎は大丈夫にありんす!」
「そうかい? 桃太郎がそう言うんなら一丁やってみるかい。いやな、うちも例の移転を控えてっからよ、店の顔になる花魁がひとりでも欲しいのは事実なんだよな」
少しだけ険しい顔つきになり、あご先に手をやって悩みを顕にする利兵衛。桃太郎の若さを心配する気持ちは本当であろう。それでも、已むに已まれぬ事情というものはやはり胸中にあったようである。
「その点お前は器量よし、才覚よし、おまけに芸も立つときてやがる。流石は今を時めく花魁・絹月が推すだけのことはあるよな」
「しょ、精進するでありんす……」
「よし! 一年後、新生吉原『灸なり』の筆頭呼出しは花魁・桃太郎できまりだな!」
「――え?」
利兵衛は、この時を待っていた、と言わんばかりの勢いで、手にした扇子を火鉢の縁へと叩きつけた。それは純粋にそうだったのかもしれない。絹月が推すだけの、とは言ったものの、女衒の蟻助が幼い桃太郎を連れてきたその瞬間、蕾でしかなかった逸材を見抜き、売り出し真っ最中の絹月につけ、立派な花魁になれるよう育て上げさせたのは、他ならぬこの利兵衛なのだから。
それを謙遜と受け取って、桃太郎は絹月の手前、気重に苦笑した。
「嫌でありんす、旦那さま。『灸なり』の筆頭呼出しは、店が移ろうと変わらず絹月御女郎さんではありせんか」
しかし、それに片方の眉を跳ね上げた利兵衛は、いつもの剣呑な眼差しを、絹月へと向けた。
「おう。なんだ絹月。まだ話をしてなかったのか?」
「え……?」
釣られて桃太郎も再び振り返る。絹月は、如何にも白々しく流すような視線を利兵衛から桃太郎へと向ける。
「そういえば、まだ桃太郎には、話をしてありせんしたなぁ」
「――え?」
「ったく……おう桃太郎。絹月は今年で二十七だ。本当は去年で年季は明けたんだが、無理言って今日まで引き止めていたんだ。そこに来て、然る馴染の方より身請け話が来ちまってな」
「え? え?」
「絹月にも了承はしてもらっちまったし、これ以上引き止めるわけにもゆかねぇんだ」
桃太郎は何度も、何度も首を回して、絹月と、利兵衛を顧みた。そして何度見てみても、利兵衛は剣呑に話を進めていたし、絹月はやさしく微笑んだままだった。
話の内容は理解できている。正直パニックではありながら、利兵衛の言葉を反芻し、噛み締めている自分がいる。
それでもどうしても分からないことは、今まで、今日この時まで、絹月の傍から離れることなくついてきた自分が、そのことを知らなかったという事実。
「絹月は、明日で『灸なり』を去るからよ」
「あしたぁああああああああああああああああああああああああ!?」
場所も立場も関係なく、桃太郎の悲鳴が、早朝の廓内にこだました。