三話 -3
駿河の国、東海道十四番目の宿場、吉原宿。
富士吉原とも呼ばれ、嘗てこの地にあった遊里・色町が移され、江戸吉原の原型となった、という説もあるが、定かではない。
当然桃太郎もそんな謂れは知る由もなく、似たような地名があるものだとしか観じていなかった。
今は、そんなことより、猿から受けた屈辱から立ち直れぬまま、たまたま道中知り合った与七という男が営む飯処の席に顔を埋め、悲壮に暮れているところである。
「お武家様、いい加減元気だしなって……」
「……どうせわたしの気持ちは分かりんせん。ほっといてくれなんし……」
結局、自刃は思い留まり『色斬』は返してもらえたものの、気持ちが治まりきらず、さっきからこうしている始末。
「あ、ほら、与七さんが来るよ、お武家様!」
おこまが耳元で強く囁いた。さり気無く、自暴自棄にぶー垂れている桃太郎の廓詞を注意してくれる。
「まぁあれだな、お武家様も災難だっけどよ、団子を取られたくらいで死ぬ気になっちゃあいけねぇって」
飯屋の与七は大柄で、立派な顎が目立つ男だった。
体格的には飯屋らしくもないながら、笑うと愛嬌があり、人の良さは、騒ぎを聞きつけ桃太郎を一番に抑えたことからも窺える。
「さあ、こいつでも食って元気になってくれ!」
与七はどんどん、と二人の前にどんぶりを置いた。与七の手にある内は普通にみえたどんぶりが、目の前に来るとたいそうな規模だった。
「これは……穴子かい?」
「おうよ! 今朝上がったばかりの意気がいいやつさ。っていっても、まだのどは通らないか……」
「あ、いや……」
どんぶりからはみ出すほどの天婦羅に、容赦なく齧り付いている桃太郎を横目に覗き込み、おこまは冷や汗を鬢に伝わせた。
「おお! くよくよしてたと思ったら、流石は男だ! いい食いっぷりだねぇ!」
「そ、そりゃどうも……」
与七が絶賛するくらいの桃太郎に気後れし、おこまは代わりに頭を下げた。
なるべく、御淑やかに穴子をかじるおこま。「穴子は江戸前なんていうけれど、駿河の穴子も絶品だね」とお世辞めいた褒め言葉も忘れない。
桃太郎にしてみても、別に穴子の天丼で気分が持ち上がったわけではなく、漏れ出す苦渋を食欲に訴え解消しようとしているに過ぎなかったのだ。
それに、お世辞を抜きにしても確かに与七の天丼は美味しかった。
「そ、そういえば、あの、さっきの――猿は、ああいう悪さをよくしてんのかい? んああ……こんな季節だから山で餌が採れない、っていう理由じゃないよね?
だって、ありゃ、金糸猴(きんしこう)だろ?」
おこまは食事の端に訊ねた。昼時を過ぎている所為か、店に二人以外の客がいないから、与七ものんびりとカウンターに腰を下ろしていたので声を掛けやすかった。
猿という単語を発する瞬間、横目で桃太郎と視線が交差したが、桃太郎は何も言わずにどんぶりの中身を掻き込む作業を続行した。
そしておこまは街道で、最初に猿を目撃した瞬間から懐いていた疑問を口にしてみる。
その聞きなれない単語に、桃太郎も租借を続けながら耳を傾けた。
「へー、よく知ってんな。俺もたまたま耳にするまでは知らなかったんだけどよ、確かにニホンザルじゃねぇし、姉さんのいうように舶来の猿らしいな。
どうにもどっかの港から積荷が落ちて、そのひとつが偶然、この先の江尻浜に流れ着いたらしいんだってな」
もくもくと食べ続けた桃太郎は話を聞き流しながら、早くも最後ひと箸を口に運び終え、お茶を一口。
呑み込んだその表情は少しだけ落ち着いたようにおもえた。
「そいつは、随分と運のいい猿だねぇ……」
「ああ。けどそっからが大変だったんだよな。最初、浜辺の荷を開けた猟師の男の話に由っちゃ、木箱から跳び出してきたのは、痩せこけた猿が一匹だったんだとよ」
「一匹……?」
おこまは首をかしげながら、自分のどんぶりを桃太郎の方へと移動させた。
隣からのもの欲しそうな視線がさっきから気になって仕方なかったのだ。
「ちょっと待ちなよ。その話はいつのことだい? まさか二年も三年も前のことじゃないんだろ?」
「おおう。江尻浜に荷が流れ着いたついたのだってひと月くらい前の話さ。おかしな話だろ? 子供をこさえるにしたって一匹じゃナニのしようもないし、他の山猿とナニをしたとしても、あんな同じような猿に成長するには早過ぎる」
「――食事中だよ」
歯に衣着せた言い方が気に障り、おこまはむっと机に肩肘をついた。
気を遣ってもらった桃太郎。これで安心して食事を続けられるというものだ。
「おっと、こいつぁ失礼しやした。まぁ、そんなわけで、あれは妖怪の類なんじゃないかって話まで出てきちまってさ。なんでもその江尻の方じゃ、もううじゃうじゃいるらしいってよ」
「うじゃうじゃ……って。それじゃあ被害は団子じゃ済まなそうだね……」
「いや、それが、被害は言うほど出てないってよ。それがかえって不気味で、俺達はもう、あの猿を見かけたら寄らず触らずさ」
与七はお手上げとばかりに両手でなにかを投げる思草をした。
と、そこにやってきた町人風の男が二人。
「へいらっしゃい」
気持ちのいいくらいの掛け声で客のもてなしに向かう与七を眺め、おこまは最後に視線を隣の大喰らいへと置いた。
「では、どうなさいますか? お武家様」
「当然っ!」
情報は充分に収集した。旅の方向を決定する役目はおこまじゃない。
ニヤニヤと楽しそうなおこまの期待のとおり、すっからかんになったふたつ目のどんぶりを叩きつけ、桃太郎は口の周りをぺろりとした。
「揚げ代はしっかりと頂戴します!」
「あ、揚げ代って……まぁ、いいけど」
お武家様はお武家様。桃太郎は桃太郎なのだ。
ついた肘から頭を落としそうになっているおこまを他所に、桃太郎は猿への仕置きへと闘志を滾らせるのであった。
ちなみに「揚げ代」は、遊郭で遊女を指名することを「座敷へ揚げる」といい、そこから、宴会から床入りまで、一晩で遊んだ代金のことを差す言葉である。
また「仕置き」は、「揚げ代」を払えなかった客や、馴染の花魁の他に手を出した色客などに行われる折檻を意味していることを、補足までに。
困ったときにはお互い様だ、といって天丼の代金を受け取ろうとしない与七へ、強引に支払いを済まし、吉原宿を発ってその日の夕方、桃太郎とおこまは与七の話にあった江尻漁村へと到着した。
富士吉原から江尻までは四里ほどなので、少し急ぎ足であった。
なぜかというと、桃太郎の闘志が納まりつかなかったから、という理由の他に、おこまがしたこんな話に起因する。
「お武家様……あの、ちょっといいかい?」
与七の店を出て間もなく、辺りの人通りを気にかけながら、おこまが声をかけた。
「?」
男子たるもの女子の三歩前を歩くべし、ということでおこまの少し前にいた桃太郎は速度を落とし、横に並ぶ。
「あの、お武家様って、もともとそんなに食べるお人だったのかい?」
「ぐ……っ。またそこをいいますか? さっきのは、わたしなにも言ってませんですからね!」
「いや、そういう意味で訊いてるんじゃないよ。ということは、そんなに大食漢じゃないんだね?」
「当たり前です。吉原に、大食漢なんていませんよ……」
「だとしたら、やっぱり……それは「犬神」の飢えがお武家様に乗り移っているのかもしれない、です……」
おこまは、さも言い難そうに頭を掻いた。
「犬神」は封印されずに存在している。供物を与えられていない「犬神」が陰陽師を祟るのは、自らの飢えを知らせるためであり、使役者から存在するための精気を摂取するためなのだ。
ところが、現在の使役者であるおこまには、なんの空腹も渇きも感じていない。
つまり、「犬神」との等価契約を結んだ桃太郎にその影響が出ているのではないかと推測したのである。
本来ならば自分が負わなければならない代償を、桃太郎に背負わせているのだとしたら――そうして身体をちぢめているおこまに、桃太郎は笑顔でこくりと頷いた。
「あい。たぶんそうだとおもっていました」
「そうだとおもっていたって、お武家様!」
「だって、いくら慣れない旅の空とはいえ、わたしがこんなに食べるのはおかしいですし、おこまさんから「犬神」の説明は受けていましたからね。
わたしがいっぱい食べることでワンちゃんが落ち着いてくれるなら、今しばらくの辛抱ですよ」
桃太郎の言葉を聞いて、おこまはさらに頭を抱えた。
これは、「飢餓」を象徴する魔物に憑かれた者がしてしまう典型的な勘違いである。
飢え苦しんだ霊魂は救いを求めているため、心のやさしい人間に取り憑いたり、ときに憑依したりする。依り代となった人間は飢えから解放すれば霊魂は浮かばれると思い、異常な食物を取り入れようとするが、それだけでは駄目なのだ。
「いいかい、お武家様、ようっくと聴いておくれよ」
おこまは鬼哭啾啾、桃太郎にとんでもない真実を告げた。
「お武家様のそれは「犬神」の影響による飢餓で間違いないとおもう。
でもね、あたいがこんなことをいうのも何様だ、って話なんだけど、重要なことだからよく聴いて!
「犬神」はお武家様から自分が存在しているための力を得ているから、お武家様はお腹が空いてしまう。
でも「犬神」がお武家様から吸い取っているのは、お武家様が食べた食物とか、その食物の栄養分とかじゃなくて、お武家様自身の精気なんだよ!」
「?」
「だから、すごく単純にいうと、このまま食べ続けたらお武家様は肥る!」
「ええええっ!?」
さらに追い討ち。
「でもお腹は空く! で食べるからまた肥える!」
「えええええええええええぇぇ!?」
そこに来てどとめの一撃。
「だからって、精気は吸い取られ続けるから、食べないと死んじゃう……」
「……っど、どうすればいいの!?」
動物は好きだ。
そうはいっても、とり殺されるまでは享受できない。
だからといって体型が変わるのも嫌だ。
複雑な乙女心というやつだ。桃太郎はことの重大さに早い段階で気づけたことにほっとしつつ、解決策をエキスパートであるおこまに求めた。
そう。霊魂は飽くまで霊魂。物理的に食べ物を取り込むわけではないのである。
「まぁ、一番手っ取り早いのは「犬神」を祓うか封印するのがいいんだけど、お武家様の場合、仮にも契約を結んでいるわけだから、強引に引き剥がしたりしたら、それこそお武家様の命まで危なくなると予想できる」
「な、なら!?」
桃太郎は縋りつくような視線で両手を握り締めた。
「なら、対処療法はひとつしかないわ。精気っていうのは謂わば生きるための力。食事をすればそりゃあ精気は増えるけど、精気を吸われたって食べたモンの栄養が消えるわけじゃない。
つまり、よく食べたあとにはよく運動! これね! あと、精気残量を減らさない程度の食事制限も必要だわね!」
「しょ、精進するでありんすっ!」
斯くして、富士山麓を背景にしての、駿河湾岸冬季マラソン大会が催されることと相成ったわけだが、ほんの数日前まで囲われた吉原の中しか知らなかった桃太郎である。
ようやっと陣羽織の重さにも慣れてきたかな、という今日この頃、そんなに走り続けられるはずもなく、普通に歩いたなら日暮れと同時頃に到着するような距離を、江尻漁村の明かりを見つけたときには日暮れ手前、といった感じの時間で移動することができた。
そのくせ、妙に息だけは切らした桃太郎の目の前に、件の猿が現われたのだが、すでに半分目を回している桃太郎はいきなり『色斬』を抜剣、
「おにょれ、出たな妖怪! 積年のうりゃみ、晴らさでおくべきかぁ!」
ぐるぐる回る視界に反して、果敢に述べる口上も、まるで呂律が回っていない。
桃太郎は、そそくさと逃げてゆく猿のあとを、よたよたついてゆくことすら儘ならない有様であった。
「駄目だこりゃ……」
突っ込みどころが多すぎて、いちいち指摘するのも面倒臭くなったおこまは、そんな、健気で純情な若武者の後ろ姿を、愛らしい気分で見守ることにした。
と、そこに、桃太郎が追いかけていたものとは別の猿がやってきた。
おこまが、確かにこの辺りは猿が多そうだ、なんて観じていたのも束の間。おこまはなにも食料を持っていないのにも拘らず、猿は真っ向から向かってきたのだ。
しかもその目に宿るのは、紛うことなき殺気。
「なに!? あ、御免……っ!」
牙を剥き、鋭い両手の爪を突き立てんと襲い来る猿に、条件反射で繰り出されたおこまの回し蹴りがぶち当たる。
********ッ!
おこまの蹴りは、弾力のある抵抗ののち、猿の胴体を貫いていた。