三話 【桃太郎 猿と出会う】
朝。
廓での生活習慣が抜けきっていないのか、旅枕が身体に馴染んでいないのか、桃太郎は卯の刻前には起床した。
疲れは酷く肩やら腕やら脚やらに圧し掛かっているが、頭だけはすっかり目覚めてしまったのだ。
「あっつ……」
仕方なく蒲団を退けて上体を起こす。
痛んだのは主に首だ。
噛み傷はこの際おいておき、打身に効くという薬を、昨晩の暴露より以前おこまから分けてもらっていた。
それを寝る前に発布し、包帯で固定はしてある。
一晩床をとっても、あまりよくなっている感じはしなかった。
それでも快適な睡眠を邪魔されてはいなかったし、目が覚めたのも痛みの所為ではなかったのは幸いだ。
「お腹が空きなんした……」
朝起きて、まず空腹に意識が向くことなんて今までになかったながら、山を歩き回ったり川で溺れかけたり、黄槇組や鬼の相手をしたりで体力を使った所為だろうと、まだ暗い部屋で行灯の灯を入れた。
時刻的には早くても、宿の誰かは起きているだろう。
桃太郎はなにか握り飯でも作ってもらえないかと襖に手をかけ、このままではまずいかと、引き返して鏡台へと向かった。
「お〜な〜か〜〜〜が〜〜〜あ〜〜〜」
寝ている間に絡まった長い髪を梳り、手早く髷を結う。
「空き」
右の眉に墨を引く。
「なんした」
左の眉に墨を引く。男装完了である。
男とはなんて簡単な身支度で済むのでありんしょう、と幾度目かの感動を胸に、その胸を隠すためにさらしを巻き、陣羽織を羽織った。
「――!?」
そうして襖を開けた桃太郎は冷たい床板を想像して踏み出した足の裏が、冷たくはあっても柔らかい何かを踏みつけ絶句する。
悲鳴を口の中だけで消化し、呼吸を整え視線を降ろせば、それは、丁寧に敷かれた蒲団である。
しかも膨らみ具合から、中で誰かが横になっているようだ。
廊下はそうとう冷え込んだのだろう。頭から蒲団を被っているため今のままでは判らないが、こんな常識を逸脱した行動を取るような人物は、桃太郎が知る限りひとりしか思い浮かばなかった。
「……おこまさん?」
そっと蒲団の裾を持ち上げてみる。
顔を確認する必要はない。中身が、最低限女性であればいいのだ。
そしてそこに寝ていたのは案の定。
「おこまさん! ちょっと、なにしてるんですか!?」
桃太郎は声を上げてしまい、まだ早朝であることを思い出し、自分で自分の口を塞いだ。
その声に目を覚ましたおこまが蒲団の中で身を捩ると、桃太郎へ向かってにたりと唇を曲げた。
「ふっふっふ……こうなるんじゃないかと思っていたのよ。お武家様。あたいを置いて旅立とうなんざ、そうは問屋が卸さないってなもんさ……ぐー」
「お、おこまさん?」
桃太郎は小首をかしげるふうにした。痛みがあるのであまり角度は変えられない。
おこまは今の台詞を流暢にしゃべると、ふたたびの睡眠へ潜り込んでいった。
というか、今の一言ですら、完全に意識があったかも疑わしいくらいだ。
きっと、朝まっさきに口をつくように、何度も頭の中で反復しながら眠りに就いたのだろう。
「……まったく」
桃太郎は肩で溜息をこぼし、自分の座敷の襖を大きく開けた。
そうしておこまの横になったままの敷布団を掴み、部屋の中へと引き摺り入れる。
手のひらの皸は少し痛んだが、重量としてはなんてことはない。
こう見えて、遊女の体力を舐められては困る。
いっそのこと叩き起こそうか、とか頭を過ぎったものの、おこまの寝顔があんまりにも気持ちよさそうだったので、このまま廊下に放り出しておくわけにもゆかずの行動だ。
それに、おこまがどうしてこんな場所で寝ていたのかは、今の寝言で充分理解した。
桃太郎はおこまを完全に部屋へ寝かせると、そっと襖を閉め、一階の台所へ、朝食の催促を頼みにいった。
「こうなるんじゃないかと思っていたのよ。お武家様。あたいを置いて旅立とうなんざ、そうは問屋が卸さない……ってあれ?」
「おはようございます。おこまさん。よく眠れました?」
日が昇り、しばらくして、桃太郎が行灯の灯やら火鉢の炭やらを始末していると、その気配を察したのか、おこまが起き出してきた。
起き抜けに例の台詞を口走り、予想と違う光景にきょとんとしている。
「朝ご飯です。おこまさんもどうぞ」
「あ、はい。ありがとう……」
桃太郎はちいさなお盆から握り飯と御新香が乗った皿を差し出し、土瓶から熱いお茶を注ぐ。
その思草があまりにも様になっていて、おこまは大変恐縮してしまった。
差し出されたはいいが、手を伸ばす気にはなれなかった。
「その……お武家様は、あたいを置いて先に宿を発つつもりじゃ、なかったのかい?」
おこまは蒲団から上半身だけを捻るようにして問いかけた。
こうして桃太郎と同じ部屋に寝ていた過程は分からないが、桃太郎が部屋に入れてくれたのだろう。
でもそれが、単なる同情であったなら、とても安心はできそうにない。
確認をしておきたかったのだ。桃太郎が、ちゃんと待っていてくれた理由を。
「どうしてそうなるんですか? おこまさんをおいてゆくつもりなら、わざわざ自分の正体なんて明かしませんよ」
それは、わたしが心配していたことにありんす。
桃太郎は平然を装って御新香をひとつ口に放り入れた。ぼりぼりと、緊張感のない音色が軽く頬を赤らめる。
「いや、だってあれは、あたいを安心させる口実かな、って。あたい、日本人じゃないし、知り合いあんなのだし、性格もこんなだし、お武家様にだって、愛想よくされたことなかったし……」
「そ、そんなことを気にしてたんですか? おこまさんのくせに……」
「なにそれ。どーいう意味?」
「いえ。なんでも……」
桃太郎は失言を、もごもごと御新香を呑み込むことで誤魔化した。
「兎に角、おこまさんの過去がどうあれ、わたしにとっておこまさんはおこまさんですよ。だからこれからは、ちゃんと部屋で寝てくださいね」
おこまの不安要素の内、桃太郎にとって気になったのは、「知り合いも」の部分だけである。
それも巽は今回の騒ぎでしばらくは安静にしているだろうし、また組の大人数を動員するのだって、反感があるはずだ。
「愛想よく」に関しては保障出来かねるも、桃太郎がこれまでのように疎ましく思っていないことには、おこまも気づいているだろう。
「じゃあ、今夜から一緒に寝ても――」
「それは駄目」
「なんでえ!?」
桃太郎とおこまは女同士であり、昨晩のあの態度は、おこま為りに不安を茶化した結果だったのだ。
ならば桃太郎がどこかの反物屋で着物を購入し着替えれば、世間的には同室もおかしくはなくなる。
けれど、桃太郎はこの旅をこの姿のままで続けようと思っていた。
それは女としての身が世間ではどのように見られるのか、惣吉に危惧された意味を少し判って来たからだ。
たとえ、腕の立つおこまと二人になったからといって変わらない。
桃太郎が男装でいるだけでも、旅の安全性は向上するはずである。
それと、密かに、この格好が気に入っていることは説明をすることでもない。
だから、若い男女が同室の宿をとるような野暮天は粋ではない。
「そんなことより、おこまさんこそ、わたしに同行してもらっていいんですか? なにか旅の目的は他にあったんじゃ……」
昨日おこまの言っていた、吉原に行きたい、なんて話は冗談だとしても、と言葉の陰に訊ねた。
「本当は、お武家様の事情がなくても、いつかは「犬神」の御神体を見つけなきゃとは思っていたんだ。日ノ本に来たのもそのためではあったし。だからお武家様が上方に向かうなら全然OKだよ!」
いつかは……?
御神体、「犬神」の即身成仏を探す他に、優先事項はあったという意味だろうか。
おこまのあっけらかんとした口ぶりからはなにかを我慢しているような感じは受けなかったので、桃太郎は同行の意思を素直に受け取ることにした。
「それじゃあ、握り飯を食べたら早速出発しましょう。急ぎの旅ではありませんが、人を、待たせていますので」
桃太郎の旅を待っている人、とは保土ヶ谷誠次郎のことであることは云うまでもなく、また、『色斬』に宿る絹月の遺志を差していた。
このことも、道々おこまには話しておかなければならない。
おこまがようやく握り飯へと手を伸ばしたので、安心した桃太郎は立ち上がり障子窓を開けた。
今日も寒く、天気は良さそうだ。
見知らぬ農村。
故郷の、お爺さん、お婆さんは元気にしているだろうか。
というか、桃太郎の記憶にある二人は、すでにかなりの老齢で、もしかしたら、もうこの世にはいないかもしれない。
あれから八年、便りはなく、桃太郎から手紙を出すことも出来ずに、せめて、自分の身を売ったお金で、裕福な生活ができていたならと願うばかりである。
雪に反射するお天道様がきらりと射し込み眩しくて、桃太郎は冷たい空気に目を細くした。
――――――――――
桃太郎とおこまは旅宿をでると、まずは北村の村長の家を訪ねた。
鞍右洲のことを頼みにゆくつもりだ。
桃太郎は鞍右洲が黄槇組という無法者であったこと、今はその身を追われ、病に臥せっていることなどを隠さず話し聞かせた。
言葉は片言ながらちゃんと話も出来るし、性格は真面目で純粋であるとおこまが保障をつけ加える。
村長は鞍右洲が異国の者であることよりも、黄槇組の縁者であることを最後まで気にしていたが、桃太郎達からの再三の頼みに、もう追っ手が掛からないのなら、ということで頷いてくれた。
桃太郎が手付金として差し出した小判、五両の功績が大きかったからかもしれない。
小判などというものは、農民の身においては一生かけても手にすることなど出来ない代物であり、五両ともなれば、使い方を間違わなければかなりの贅沢をしてでも丸一年は遊んで暮らせるだけの金額だ。
ちなみに桃太郎、自分の身売り金は、十両からせいぜい十五両であったと推測している。
即戦力にならず、養育費が掛かる幼子は、この程度が妥当だろうと。
村長へ、桃太郎は駄目押しとばかりにこう言いつけた。
「もし、わたしが次にこの村へ訪れたとき、鞍右洲の元気な姿を見ることができたなら、もう五両を差し上げましょう」
「じ、十両ぉ!?」
村長は泡を噴き、倒れそうになる身体を必死に支えながら、平に低頭した。
これで安心。
北村を出発した桃太郎は、おこまの薦めで中原街道をゆくことになった。
敢えて東海道を歩かなければならない理由はなかったし、この先で東海道とも合流しているというので、とくに心配もないと判断したからだ。
「お武家様。手付だとはいえ、なにも五両もの大金渡す必要はなかったんじゃないかい? 相手の機嫌をとるためとはいえ、気前が好過ぎるのもどうかとおもうけど」
歩き始めて間もなく、おこまは眉をひそめて訊ねた。
その顔が語るは続けた言葉で納得するも、桃太郎の金銭感覚を疑っている趣は確かにあった。
「そりゃあ、身内にここまでしてもらって、言えた立場じゃないけどさ」
「いいんですよ。お医者にかかるにはお金が掛かるものですし、情念を祓った責任もありますから」
「情念を……それが、いってた刀の力だったんだね? よかったら、少し教えてもらってもいいかな?」
「………………そうですね。いいですよ」
桃太郎は襟巻を下げ、白い息を吐き吐き言葉を紡ぎはじめた。
『色斬』についてを話す。それは桃太郎がここにいる全てを語るに等しい。
――――――――――
――作は正宗という刀匠。
『色斬』という銘は姉女郎さんの絹月が付けたもの。
この『色斬』にはおいらんの命と、誇りが込められています。
太刀の力を初めて知ったのは、五日前の吉原大火を起こした原因の鬼と相対したとき。
鬼は吉原の遊女でした。
わたしも、よく知る女性でした。
はじめは、自身を守るために手にした『色斬』でしたが、手にして分かりました。なぜか分かったんです。
『色斬』には、その者にとり巻いている情念を断つ力があるのだと。
そのときはもっと単純に絹月姉女郎さんが、刀とはいえ他の遊女を殺すはずがない、と勝手に想像していたのかもしれません。
わたしはためらわず、その鬼を斬りました。
そしてわたしは、絹月姉女郎さんより、この太刀を遠江のお武家である保土ヶ谷誠次郎様へとお届けする任を受け、旅をしているのです――
――――――――――
話を聞き終えた、おこまの表情は硬かった。
淡々と話す桃太郎の気概はおそらく、長い廓生活で身につけたものだろう。
恬然と動じない、惹きつけるが一線を引き踏み込ませない。
けれどそれが、どうしてか、桃太郎の、桃太郎という人間の一番弱い部分のように感じてならなかった。
「あのさ、詮索は趣味じゃないからこれ以上は聞かない。でも、ひとつだけは教えてくれる――? その、絹月って御女郎さんは……?」
ころころと表情を変えるのは苦手なおこまは、硬い顔のままで問いかけた。
「……………………」
桃太郎は前を向き、歩みは変わらず、それでも、口をひらいてから声が出て来るまでは、長くもなく短くはない間を必要とした。
おこまは話の中、桃太郎が敢えてそこには触れなかったのだという胸襟を快諾していたから、黙して待った。
「……………………」
「ご――」
が、待ちきれなかった。
胸が苦しくて、訊いてはいけなかったことだったのだと自分を制した。
おこまが堪らず口を開きかけた寸前、桃太郎は腰の『色斬』を鞘ごと引き抜く。
「――お姉さんは、ここにおざんす」
桃太郎は『色斬』を両手で抱きかかえるようにして、そう笑った。
おこまはその姿が、あの時、洒水の滝へと向かう途中、「犬神」の話をきき終えた桃太郎の様子とダブって見えた。
あのときも、こうして『色斬』を抱いていたんだと気がついた。
そしておそらく、吉原で絹月を亡くしたときも、こうしていたんだろうとおもう。
こうして、きっと桃太郎は泣くこともできずに、ひとりで吉原の鬼を斬った。
焼け落ちてゆく住み慣れた吉原と、姉女郎の死は、桃太郎の瞳になにを映したのか。
泣くことが許されない武士に身を窶し、桃太郎は旅にでた。
「やっぱり……あたいの見込んだとおり、お武家様は、お武家様だねぇ……」
「?」
桃太郎は言葉の意味が判らず困惑気味に『色斬』を腰帯に差しなおした。
おこまはなおも桃太郎のことを「お武家様」と呼ぶ。それが、今だ着慣れない男装に対し、無意識に桃太郎の気を引き締めてくれているということを、桃太郎自身気づいていない。
おこまは桃太郎の、見た目ほど広くない肩に腕を絡めると、
「ほんとに惚れちまいそうだよ」
隙をつき、桃太郎の頬へと唇を寄せた。
あっといって、桃太郎が文句の言葉を口にするより先、おこまはさっさと軽やかに街道を歩いて行ってしまった。
「だから、そういう趣味はないっていってありんす……」
気恥ずかしく、頬に残る感触に手を添えて、走り出し、桃太郎はおこまを数歩追い抜くと、男子らしく腕をふり、堂々とした背中を見せびらかすように歩いて見せた。