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                  一話 - 2



 桃太郎は泣いた。泣きながら、冷たい廊下を歩いた。


 前を行く絹月は奥座敷からここまで、眉を寄せ、もう十回は溜息をついた。それでも桃太郎にちゃんと話をしてやれなかったのも事実であり、なんといって声をかけるべきか、迷っていたのもまた事実である。



 十一回目の溜息をついたところで、廊下を駆けてくる雇われのとすれ違った。松良という風呂当番で、若い衆、とはいっても廓で働く男手は、老年になっても「若い衆」と呼ばれるため、絹月よりも年齢は遥かに上だ。




 「これは、おはようございます、花魁」




 「おや松良。これから風呂焚きにありんすか?」




 「ああいえ、風呂の火はもう入れてありやす。ちょっと手ぬぐいを忘れちまいやして……花魁も、あとでいらっしゃるんでやしょ?」




 「ええ。あとで参ります」




 花魁とこのように口を利けるのも、松良が廓でも顔の知れた風呂番頭であるからこそのもの。そんな若い衆との会話はこれで済んだはずだった。


 松良はあからさまな逡巡のあと、




 「……なにかあったんで?」




 しくしくと嗚咽をもらす桃太郎へと、気まずそうに視線を移している。




 「なんでもありんせん。お前には関係のないことにありんす」




 
若衆ごときが無粋な詮索だとばかりに、絹月はぴしゃりと言い放ったもので、松良は「へえ」とだけ頭を下げると、逃げるように廊下を去っていった。


 長年廓で勤めてきた働き手であっても、花魁に目をつけられては仕事を続けてはいられない。もちろん絹月にそんなつもりは毛頭なかったけれど、桃太郎のことを想い、少し気が立ってしまったようだった。




 「桃太郎、いい加減泣き止みなんし……ここから部屋まで、あと何人の
娼妓とすれ違うかと考えると、気が重うなってきなんした……」




 若い衆や他の遊女たちならまだしも、
の中年増などに見つかれば、桃太郎の「突出し」すら危ういと、絹月は危惧した。それでも強く叱ることをしないのは、桃太郎の一風変わった雰囲気からだった。



 桃太郎は変わったお女郎だった。


 吉原という場所は「苦界」「地獄」などとも名打たれる、売られた女たちにとって日々を過ごすことが辛く、過酷な世界であった。遊女同士も煌びやかな外観とは程遠い、その日の食事が取れるかどうかのギリギリの生活を送っていたのである。


 「
」などでたまたま上客に当たればり(ご祝儀)もいいし食事にだってありつけるが、客がいまいちであった場合、相手をさせられた挙げ句たいした食事もいただけない、なんてことにもなるので、遊女たちはあの手この手で上客を捕まえようと、他の遊女を蹴落としてでも、と、陥穽を張り巡らせているものなのだ。



 それは振袖新造であっても同じことである。他の新造は、自分が一人前になった時にひとりでも上客が
馴染になってもらえるよう、姉女郎の傍で執拗に自分を売るのである。


 その場合、本来は許されていない、身体の関係を迫ることだって珍しくないことであった。



 その点桃太郎は違っていた。絹月お付の
であり、まだ自分で客をとれる立場でないこともあったが、決して自分を売るようなことはせず、とはいえ絹月の評判を落とすような態度はとらず、常に絹月を盛り立てる役に徹した。


 おかげで他の新造と比べても身入りが少なく、花魁に
を売るらしいやつだと嫌味を言われ、食事が日にすり切り一杯のご飯しか分けてもらえなくても、文句のひとつも言わなかった。


 手厳しい利兵衛が
一目おいているのも頷ける。



 つまり、絹月は桃太郎が可愛いかったのである。



 とはいったものの、これから『灸なり』を引っ張ってゆく花魁になる桃太郎が、こんなことではいけないと、絹月は十二回目の溜息を吐いた。




 「いい加減にしなせんか、桃太郎。それともお前は、この絹月が先に
きするのを、恨んでいるのでありんすか?」




 桃太郎も、流石にこれにははっとして、涙で赤く腫れ上がった顔を上げた。




 「そ、そんなことはありんせん……っ! 桃太郎はただ――」



 「
き」は遊女の年季が明けること。泡沫の世界から俗世へと移り住むことをいう。


 泣いているうちに、絹月の年明きが、明日に迫っていたことを前日に知らされたショックは、どこかに行ってしまっていた。


 もともと恨んでなどはいないし、不思議と悔しくもなかった。姉女郎が黙っていたには、黙っていたなりの理由があるのだろうと、
ったからである。いまはただ――




 「――桃太郎は、いつかおいらんと二人で道中をしたいと、夢がござんした……」




 道中とは「
花魁道中」のことである。


 「花魁道中」は
妓楼見世を行わない「散茶」「昼三」「座敷持ち」などの花魁階級の女郎が、お付の新造、禿、若い衆などを伴って、引手茶屋までねり歩くことをいった。時代が進み、吉原の大衆化によって花魁階級が姿を消すと、文化としての「花魁道中」がお祭りごとのように行われるようになるが、この頃はまだ、煌びやかに花のある「花魁道中」が、毎夜のように吉原では見ることができた。


 当然、絹月もそんな道中を行う花魁であり、桃太郎も幾度となく「花魁道中」のお供をした。



 絹月もそこまで考えて、




 「それは……絹月も見てみとうありんしたなぁ」




 と目を細めた。



 桃太郎の言う二人で道中を、とは、自分も花魁となって、絹月と一緒に歩きたかった、ということだった。


 それは「二人花魁道中」とも言うべきか。

 如何なお大臣様とはいえ、一度に二人の花魁を揚げることは考えられないながら、同じ引手茶屋で客をとることくらいはあるだろう。「突出し」の話が来たとき、その夢に少しでも近づけた気がして、喜んだ。しかしそんな夢が、とうに終わっていたことを知り、桃太郎は泣いたのであった。




 「おいらん。どうして、おいらんは身請け話を受けることにしたのでありんすか?」




 絹月は日ごろから、身請けとはまた別の誰かに買われる行為だ、といっていたので、身請けに対していい印象を持っていないと感じていた。それが、年季明けを経ての身請け話を承諾するとは、桃太郎にはどこか不思議だったのだ。




 「ついてきなんし」




 絹月は答えず、ようやっと泣き止んだ桃太郎に同行を促し、歩き出した。誰が通るともしれない冷たい廊下で話をするのも
られると思ったのだろう。



 『苦界十年』。遊女の寿命は約十年という意味である。


 これは、身売り奉公として売られた遊女が年季を明ける(自分の借金を返しきる)のに掛かるであろう年月を指し、また、遊女として客を取り続けられる歳月を指す。そしてもちろん、十年経てば吉原から抜けられる、という意味ではない。


 絹月のように名の知れた花魁が、年季を明けても妓楼に残ることは珍しくなかった。それは概ね、年季明け後のご祝儀は、借金の返済にあてずに自らの懐へ入るからである。



 逆に、遊女として客をとれなくなってもなお、自身の借金を返しきれない者もいた。吉原にはそのような者を「
番頭」「太鼓」「」などとして再雇用するシステムも充実しており、一介の風俗長屋以上の発展をみせるに至ったのである。



 絹月につれられて、桃太郎は花魁に割り当てられた自室の座敷へとやってきた。部屋の中には猫足の火鉢が
いたままにされていて、空気がほのかに暖かかった。


 広さは桃太郎たち新造が寝起きしている部屋と同じ八畳である。けれども新造の寝室が五、六人で一部屋に対し、花魁はこの広さを一人で使えるのだから、待遇の違いは明白だ。




 「座りなんし」




 絹月は座布団を差し出し、自身も向かい合う容で腰を下ろす。その際、かなり大きな、三尺(約1メートル)はある長細い桐の箱を
膝元へと引き寄せた。




 「さて。この絹月が、なぜ
け話を呑んだか、でありんしたなぁ」




 そう改めて口にされると緊張してしまう。桃太郎はちいさくのどを鳴らし、座布団の上で背筋を伸ばすようにした。




 「まず、この度絹月を囲いなさるお人は、
保土ヶ谷誠次郎様にありんす」




 「保土ヶ谷様……確か、
遠江のお武家様?」




 名前を聞き、すぐに思い当たった端正な顔立ちの若い侍。


 今や名誉よりも実質的な財力がものをいう時代。保土ヶ谷誠次郎も
上方より江戸へと下った際、足しげく『灸なり』へと通い、絹月の馴染となったのが一昨昨年の梅雨の頃。


 こういってはなんだが、それなりの
えは残してあるのだとしても武家は武家。年季が明けたといっても『灸なり』の筆頭呼出し花魁・絹月を身請けするだけの納金を用意出来るとは到底思えなかった。


 武家屋敷を売り払い、絹月と身一つで田舎暮らしでも始めようというのだろうか。


 絹月は、例えそれでも構わない、というかもしれない。むしろそれくらいの覚悟でもなければ、絹月を振り向かせることはできないだろう。しかし命よりも格式、プライドを重んじる武家が、遊女ひとりを迎え入れるために、そこまで身を切るだろうか。やっぱり桃太郎はしっくり来なかった。




 「おいらんを身請けされるなら、さぞ名家の旦那様だろうと思うてありんした」




 「桃太郎。人の幸せは、積まれた金子の量ではござりんせんよ」




 桃太郎のいうことはもっともながら、桃太郎の口からそんな当たり前の言葉が出てくるのがおかしく、絹月はくすくすと声を上げて笑った。




 「そうはいっても絹月は、腐っても花魁にありんす。自分を安売りはいたしんせん。今回の身請けは、店主、内儀さんたちへの恩返しでありんす」




 「恩返し……」




 「私は、身寄りのなかった絹月を今日まで育ててくれた『灸なり』に感謝しているのでありんす。辛く苦しんだ時期もありんしたが、それでも絹月は今が幸せでありんす。年季が明け、俗世の女として
吉原を去るよりも、花魁・絹月として、花を残してゆきたいと思ったのでありんす」



 「
け」とは「根引き」ともいい、馴染客が(その遊女の身代金や、これからの見込まれる稼ぎ)を負担し、から名前を削除してもらうことをいう。


 
太夫、花魁は類にもれず、そのような不確定な代金まで加算されるため、一般の遊女を身請けするだけでも、相当の金額が必要になったのは言うまでもない。


 そうした遊女は馴染のもとで
妻妾として迎えられることが多かったため、遊女としては最大の夢であったことだろう。


 絹月は自らの努力で年季を明け、さらに身請け話を受けることで、利兵衛たち、世話になった妓楼への手向けとしたのである。



 ちなみに、遊女の肉親が身請けをする場合は「親元受け」といい、借金分を返済すれば済む話であったため、それほどの代金は必要ではなかったようだ。しかし身寄りのない絹月にしてみれば、到底縁のない話である。


 ただし、さらに付け加えるならば、身請けの相手を選べるのも絹月クラスの花魁だからであって、それ以外の遊女では、望まぬ身請け話でも妓楼側に利益があるとなれば勝手に決められてしまうことも存分に在り得ることだった。




 「もしかしておいらんはこの一年、保土ヶ谷様が身請け話を持ってくるのを待っておらしたか?」




 「よく分かりなんしたな。桃太郎、これを見なんし」




 そういって絹月が桐の箱から取り出したのは、一振りの太刀であった。長布に巻かれているものの、それが太刀であることはよく分かる。




 「無銘なれど、
正宗という刀匠が打った業物だそうです。誠次郎様は御自分の魂を預けるといって、これを置いてゆきなんした。そして今一度これを取りに来ることがあったなら、この刀に『』との銘を入れようと」



 『色斬』、つまりは
色情を切る。吉原夫婦を辞め、本当の夫婦となろう、という言霊。いかにも気概のしっかりした武家らしい口説き文句ではないだろうか。


 しかし天下が平定され、
もなくなり名誉では食ってゆけないこの時代、何度も言うようだが花魁の身請け金を用意するのは並の努力ではないはずだ。


 絹月は保土ヶ谷誠次郎を試したのだろうか。


 それとも、本当に愛し、信じて待っていたのだろうか。


 どちらにせよ、保土ヶ谷誠次郎はふたたび現われた。そして絹月も身請けを
く承諾した。そういった事情があったのであれば、桃太郎もついには納得して、姉女郎の出立を、べる気分にもなってきたのだった。




 「おいらん。おいらんが幸せそうで、桃太郎は嬉しくありんす」




 「そう? でも少しは軽蔑したんじゃありせんか?」




 絹月は太刀を桐箱へと戻しながら、そんなことをしれっといった。桃太郎は一瞬意味が分からずにきょとんとして、それから慌てて首を振る。




 「な、なぜにありんすか……おいらんを軽蔑するだなんて、そんなことあるはずがござんせん!?」




 「そう? 私はお前に散々語ってきた言葉を違えてしまったのだけれど、それでも軽蔑していないと、言えるのでありんすか?」




 「あい。それに、おいらんは言葉を違えてなどありんせん。おいらんは、幸せになるための力をつけるよういつも言ってありんした。そして誰かを助けられるくらいの力をつけるようにも、言ってありんした。それは、身請けがいけないことだというだけの意味ではなかったのだと、桃太郎は受け取ってありんす」




 「お前は、曲がりせんなぁ……」




 「?」




 その感情を、安心といわずになんと言おう。



 絹月が浮かべた表情は泣き出しそうにやさしくて、桃太郎はどきっと息をのんだ。



 絹月はそのあと、自分が身を引いたあとのことについてひとつずつ、丁寧に説明をした。


 姉女郎を失った桃太郎やお付の新造たちはこれから何人かの禿を振り分けられることもあり、その場合、「突出し」を待たずに客を取れるようになること。しかしそれだけ、これまでのような「甘え」が許されなくなること。


 「突出し」前で客を取るということは、花魁となった時の値打ちを下げてしまうばかりか、張り見世どまりで花魁になれなくなってしまう危険性があることも忠告した。


 これからここで生きてゆくためには、どこで折り合いをつけるかが重要であると。



 話の
桃太郎は、頷いてはいながらもふとした瞬間に過ぎる絹月の、直前の表情が気になってしまい、真剣な耳の片隅で、どこか上の空になっている自分を叱責しながら、おそらく姉女郎から教わる最後の言葉に食いついていた。




 「さて。それでは桃太郎、その真っ赤っ赤な顔を洗ってきなんせ。昼見世にそのまま出るつもりにありんすか?」




 「そ、そんな意地悪はなしにありんす……あ、でもお先においらんが」




 「私はあとで構いんせんよ、桃太郎が上がりなんしたら、呼びにきておくれ」




 花魁にそういわれては仕方がなく、このまま泣き顔を晒すのも、考えてみれば恥ずかしくなってきたので、桃太郎はいそいそと立ち上がった。




 「――あ、桃太郎」




 部屋の襖を開け、半身を出したところで声を掛けられ、一度引き返す。




 「明日は、お前も見送ってくれなんし」




 「なにを改めて。もちろんではありせんか」




 桃太郎は絹月と笑顔を交わし、部屋を出た。桃太郎も変わったお女郎ではあったが、その姉女郎である絹月もまた、変わった花魁であったのだ。


 桃太郎は襖の隙間を閉じる前に絹月を見た。部屋の中で絹月は、火鉢の炭を転がしていた。どこか、今日の絹月の様子はおかしいような気もしたのだけれど、年明きを明日に控えてナーバスになっている部分もあるのかもしれないと、
落莫を引き摺りながら、桃太郎は部屋をあとにすることにする。