一話 - 4
泣きながら、笑顔で礼の言葉などを残し、惣吉が『灸なり』を去ったのは吉原でいう亥の刻(亥の刻は十時前後をいうが吉原では鐘の数を誤魔化していたため、実際には深夜零時)を少し前にしてのことだった。
その様子にどうしても苦笑を引き摺りながら、絹月の馴染である惣吉を大門まで見送った桃太郎。
寒空の下、見返り柳の行灯の照明が惣吉の姿を隠すまで、手を振った。
「ふぅ……」
ほっと白い息を衝き、自分の中で一日の締め括りとする。そして、これからのけじめを胸に、大門から引き返す桃太郎。
昨夜は予想外であったけど、今夜も絹月の下で夜を越すような無粋者はいないだろう。
兎に角は名代を終えたことを報告にゆかなければ。そうして足を踏み出した桃太郎の前に、ゆるく打ち掛けを羽織った着物姿が立ち止まった。
あと僅かな時間で大門は閉じられる。急ぎ足で吉原を去る者が居ないわけではないが、通りの喧騒はすでに失われている。
風は凪いで、連なる岐阜提灯の灯りに感覚を狂わされた烏がカーっ、と鳴いた。
「ごきげんなんし。桃太郎ちゃん」
そう。
名前を呼ばれたことで、桃太郎は視線を向けた。相手が自分に用があって、進行方向を遮ったのだと分かったからだ。
相手は、少し乱れた島田崩しにおざなりの簪、着物の襟元も歪みを大雑把に修正しただけの、務めを終えてきた遊女であるかのようないでたちであった。
「……あ。え……っと、蘿蔔(スズシロ)、ちゃん。ごきげんなんし――」
桃太郎が少しだけ言いよどんだことで、蘿蔔と呼ばれた遊女の表情がさっと険しくなる。
もともとの目尻が少しばかり上向きであり、口元が堅くなっただけで残念なほど鋭い印象になってしまう。
桃太郎がこうして顔を見合わせたのも、これまでに十回もないのではないだろうか。そのため妓籍に記された源氏名がつながらず、口篭ってしまったのだ。
幼き頃の、雪深い山里で、手を引いてくれた後ろ姿が視界の端で眩む。
桃太郎の中で、彼女はまだ、お鈴、なのである。
「偶然でありんすなぁ。今日は蘿蔔ちゃんも上がりにありんすか?」
こんな時間に大門の近くにいるということは、自分のように馴染客を見送りに来た帰りなのだろうと推測し、慌てて機嫌を取り繕おうとしたそれがよくなかった。
蘿蔔の険しい顔が、まさに般若の如く膨れ上がった。
蘿蔔は桃太郎とは違う。歳は二つしか違わないが、その容姿のため花魁への道が約束された振袖新造にはなれず、とはいえ若くから遊郭の仕事に携わってきたので、他の遊女のマネージャー的な役割をする立場にあった。
蘿蔔のような遊女は、器量は良くないが要領は心得ている「番頭新造」と呼ばれている。マネージャーなどといっても、雑務をこなして貰えるだけの賃金では自分の身代金を返しきれるはずもなく、番頭新造は客を取る。
けれど今日一日で、蘿蔔についてくれるお客はいなかった。仮にも吉原の御女郎としてあるまじきことながら、こうして茶屋が閉まる時間を目前にしてまで、客を誘っていたのであった。
「あんたは――ッ!」
蘿蔔は平手を振り上げた。
咄嗟に、桃太郎は舌を上あごに貼りつかせ、強く歯を噛んだ。
女の平手といえど、油断をすれば最悪歯が折れる。これは桃太郎の新造出しが決まる直前、絹月から教わった防御手段である。桃太郎はこうして何度も、仕方ない怒りとともに振り下ろされる平手を受けてきた。
「………………っ――」
堅く閉じたまぶたを薄く持ち上げる。
結んだ口の力はまだ緩めない。相手が力を抜いた瞬間を狙って、平手を待ち構えているかもしれないからだ。そんな桃太郎のぼやけた瞳に映ったのは、振り上げた手のひらを左の手で下ろすようにして、荒く呼吸を吐き出す蘿蔔だった。
「す、蘿蔔ちゃん!?」
「ご、ごめんね、桃太郎ちゃん……アタシ、どうかしてた……」
「ううん! いいよ! 大丈夫だよ!」
蘿蔔の肩から平手を振り上げた手首までが、カタカタと震えていた。桃太郎は躊躇わず彼女の震える肩を抱きしめた。
そうしている時間は幾許か。
二人の遊女を待合せの辻に残し、大門が引け四つを鳴らして閉じられた。
蘿蔔は焦点の合わない目を頼りなく彷徨わせて、しばらくすると自分から、桃太郎の抱擁に手を添え身体を離す。
「も、桃太郎ちゃん……姉女郎さん、年明きなんですってね? これから、その、大変ね……」
大変ね、とは「突出し」のことを言っているのかな、と桃太郎は苦笑した。
『灸なり』の筆頭呼出しである絹月の年明きは、すでに周知のことのようであった。絹月が吉原を去る、なんて噂は利兵衛も望むところではなかっただろうから、蘿蔔がそれを知ったのも、桃太郎とそう変わらない時期であったはずだ。桃太郎は、今朝から懐いていた仲間外れ感が、ほんの僅かだけ薄らいだのを感じる。
「でも、桃太郎ちゃんならきっと、立派な花魁になれると思うから、がんばってね」
「え……っと、うん。ありがとう」
さっきまで震えていた相手から、逆に励まされてしまった。支える側であったはずの桃太郎はなにか情けなくなって、苦笑のまま肩を竦めた。
自分には、まだ別の誰かを幸せに出来るような、絹月みたいな力は備わっていないのだと思い知った気がする。
「それじゃあ、もう戻ろうか。あんまり遅くまで出歩いていたら、叱られちゃうものね」
「――え、あ、でも」
別れを促す蘿蔔に、桃太郎は言葉を詰まらせた。蘿蔔が、なにか用事があって自分を呼び止めたものだと思っていたからだ。
確かに蘿蔔の様子は最初会った時よりも安定してみえる。
けれど、まさか桃太郎を激励するためにやってきてくれたわけでもないだろうに、彼女の情緒の安定は、かえって桃太郎を不安にさせたのだ。
「蘿蔔ちゃん、なにか、わたしに聴いてもらいたいことがあったんじゃないの?」
そう問いかける桃太郎に、身体の向きを変えかけていた蘿蔔は、笑顔、で頷いた。
「うん。でももういいの。桃太郎ちゃんの顔を見て少し話ししたら――どーでもよくなっちゃった」
「そう……なの?」
冷たい風が、軒下の粉雪を巻き上げ吹きぬける。通りを横断し、大門からそう遠くない『大国屋』という遊郭へ走り去る蘿蔔の後ろ姿を、桃太郎は瞠若のまましばし見送った。
「またね、桃ちゃん」
「うん。またねお鈴ちゃん」
そんな、なんでもないあいさつが、遠い夢であったかのような――くぐもった水の中で交わしたかのように朧げで、冴え返る提燈の明かりの向こうへと霞んでしまっている。
「般若――」
桃太郎は改めて、吉原という現実の恐ろしさを垣間見た気がした。
桃太郎が『灸なり』へと戻ったのは蘿蔔と別れて刻を経たずしてのこと。大門は閉じられたとしても妓楼の中は忙しく、桃太郎は利兵衛へのあいさつもそこそこに、絹月の座敷へと向かった。
花魁が客を持て成す座敷ではなく、寝所の方である。
廊下を途中、桃太郎と同じく絹月を姉女郎に持つ、野菊、初絹、という禿とすれ違った。
「番」でもないのにこんな夜更けに珍しいな、とおもっていると、眠そうに目を擦りながら声をかけられた。
「あ。桃太郎姉女郎さん、おかえりなんし」
「おかえりなんし」
「野菊、初絹、こんな時間まで、なにをしてなんしたか?」
「おいらんが、今日で最後だからといって、いろいろ教えてくれなんした」
「野菊は美春姉女郎さんに、初絹は胡雀姉女郎さんに、これからはお世話になることになりんした」
「そう……」
桃太郎にとって今夜が絹月との最後の夜であるように、自分よりちいさな彼女らにとっても、花魁と過ごせるのは今日が最後なのである。
そう思うと、自分ばかりがいつまでも後ろ髪惹かれてはいられない。
姉女郎として、もっとしっかりしなければ。二人の禿に幼き頃の自分達を重ね、そう今一度、気を引き締める桃太郎。
「おいらんは部屋に?」
「あい。姉女郎さんを待っておらす」
大あくびを噛み殺している初絹に代わり、野菊が答えた。
桃太郎は苦笑して、これ以上引き止めるのもかわいそうだと「二人とも気をつけて戻りんせ」といって送り、ふたたび廊下を歩き出した。
妓楼の中でも寝起きをするための部屋がある廊下は奥まっており、廊下の角に行灯があったりなかったりするので、賑やかな宴会部屋を横切ってきた分、酷く薄暗く感じた。中でも花魁の座敷はもう少し奥で、途中凍えた中庭を横切らなければならなかった。
「おいらん。桃太郎にありんす」
膝をつき、襖越しに声を掛けると、すぐに「入りなんし」と絹月の返事が聞こえる。
桃太郎はそそと、身を滑り込ませるようにして座敷へ入った。こんな時間まで禿が二人も付き合っていたのである。他にも誰か絹月と一緒にいるかもしれない、と警戒してのことだった。
座敷の中を確認する前にさっさと爪をそろえ、膝をついた姿でお辞儀を一礼。
「ただいま、花魁・絹月が名代、全うして参りました」
そうしたのち、顔を上げた桃太郎はあっと息を呑んだ。
「ごくろうさんでありんした」
「な、なにをしてらっしゃいます、おいらん!」
座敷には絹月ひとりしかいなかった。けれどそこに座する絹月は、桃太郎に向かって、勝るとも劣らないほど頭を下げていたのであった。
桃太郎は立ち上がり、花魁へ駆け寄ろうとするも、その見事な振る舞いからくる美しい鞠躬如に、とうとう手を添えることは出来なかった。
「おいらん……顔を上げてくれなんし。おいらんが、そのような姿を晒しては、下の者に示しが付きません…………」
桃太郎の、痛みを我慢したかのような囁きに、絹月は顔を上げた。いつもの、やさしく、たおやかな笑みを浮かべたままで。
「も、もう……そんなおどかしっこはなしにありんす……」
「脅かしではあらせんよ、桃太郎。絹月は、本当に感謝しているのでありんす。たとえば、絹月が他の新造に、自分の馴染の名代を一晩任せたことがありんしたか? それとも、花魁は素直に感謝をしてはいけませんか?」
絹月はわずかに首を傾けた。
まるで、桃太郎の反応を予想していたかのような、決められた台詞を――そうだ。きっと桃太郎の反応は想定されていたに違いない。そう思い当たった桃太郎は、じとっと流すような視線を向けた。
「……おいらん。それは間違いなく脅かしにありんす」
「あら。そうね!」
膨れっ面の桃太郎がかわいくて、絹月は夜に憚らず声を上げて笑った。
時々、いやに子供のような姉女郎さんだとおもったものだった。
廓の酸いも甘いも噛み分けた立派な花魁、との印象の落差が激しくて、お付の新造、禿もからかわれることしばしば。
ただし、中でも桃太郎が一番の標的にされていたことを、本人は気づいていない。
桃太郎は座敷に散らばる座布団を重ね、部屋の隅へ移動させた。座布団は絹月の分を除いて五枚。絹月が今夜の廻しを終え、桃太郎が名代から帰ってくるまでに、やはり他の新造達も呼ばれていたようだ。寄せずにおいた座布団の一枚に腰をおろした。
「あ。桃太郎、あの座り方をしてくりゃせんか?」
「な、なぜにありんすか!? あ、あれは、おいらんが散々、やめるように言ったのではありせんか!」
まだ上がった口角が戻りきっていない絹月の突飛な申し出に、勢い堪らず声を上げた。
あの座り方、とは、床にお尻を着け、両膝を立て抱える、所謂体育座りのことだった。禿として絹月に付いたばかりの桃太郎は、よくその座り方をして叱られたものだ。
「今でもしてありんしょ? こうしてゆっくり話が出来るのも今夜で最後にありんす。楽にしなんせ」
――く。卑怯な……
最後、なんて言われたら、どんな願いでも断れるはずがないではないか。
桃太郎は気恥ずかしくおもいながらも、言われるがまま脚を崩した。
とはいえ、この座り方が一番落ち着ける体勢であることは間違いなかった。
絹月のいう通り、人目を避けては時々こうやって座っている。たまに、蒲団の中でも両膝を抱えていることは内緒だ。
欲をいえばお尻を支点に身体を前後に揺らせると一番いいのだが、なぜか嬉しそうに見詰めてくる絹月の視線が気になって、桃太郎は顔を背けた。
「なんでありんすかぁ」
「ん。なんでもありんせん」
幸せそうな絹月に触発されてか、桃太郎もくしゃりと笑顔を浮かべた。
絹月の幸せは、苦界から抜け出せる喜びからではないように思えた。もちろんそれはあるのだろうけど、そう。たとえるなら今夜も名代にあたることとなった志村屋惣吉のように、桃太郎と過ごす時間を心から楽しんでいるような雰囲気が伝わってくる。
こうしている時間が、まだしばらくは続くものだと思っていた。
昨日までは永遠に続くのではないかとすら感じていた。それが今は。
どこかに、これきりとなる言葉を必死に押し込めている自分がいた。
すっかり戻らなくなった笑顔の桃太郎が絹月から就寝を促され、座敷を出たのはそれからどのくらいしてからであったろうか。
桃太郎としては、今夜は一晩中話をしていたかったくらいで、絹月から「流石の絹月も疲れなんした。今夜はもうお開きと致しんしょう」との声を受けるまで、部屋に戻ることすら失念していた。
廊下の板敷きが、足の裏にひんやりと氷のような寒さを伝えてくる。表の座敷でも宴会は饗を冷ましたようで、廓内はしんと静まり返っていた。
桃太郎はひと雫だけ涙を流した。
「涙とかけて、水を差す、とは此れ如何ににありんす……ぐす」
凍えるような中庭を渡り、暗い廊下を引き返し、音を立てないよう自分の部屋の襖を引く。
すでに何人かの新造が就寝している合間を避けて、座敷の一番奥に蒲団を敷いた。鏡台の傍らには、薄暗い行灯が灯ったままにされていた。
桃太郎は簪、櫛やら化粧やらを落とし、打ち掛け、帯をほどき、小袖を脱ごうとして、まったと手を止めた。やはり今夜は冷えるので、小袖は羽織りなおしたまま蒲団に潜り込む。
目を閉じる。
冷たい蒲団の中で膝を抱え、桃太郎はもう一度だけ鼻をすすった。
あの時――
笑顔で別れた蘿蔔の、般若のように歪んだ顔は、きっと見間違いだったのだと、心に言い聞かせたことなどは、すっかり忘れることが出来た。
忘れられた――はずだったのに――