三話 -5
桃太郎は『若狭屋』の一室で、おこまの帰りをひたすらに待っていた。
目前には夕餉の乗った膳が二脚。
一尾まるまるを使った梭子魚の干物は脂が乗っていて美味しそうである。
蛸と海藻の酢の物はさっきから唾液の分泌を促進して止まず、炊き上がりの湯気もほんわかと、つやつやとしたご飯が、なにより桃太郎を苦しめた。
沢庵一切れだけなら……せめて味噌汁ひと口……た、蛸の足一本くらいなら――
「だ、駄目でありんす桃太郎! 酢の物は……っ! 酢の物だけはぁ……っ!」
と、訳の分からない苦悩に悶えつつ、この際、唾液だけでお腹が膨れるのではなかろうかというくらいの唾を飲み込んでいた。
桃太郎はこれ以上膳を前にして正気を保つ自信がなくなり、徐に立ち上がると、膳に背を向け『色斬』を抜いた。
長い廓生活で、食事が取れずに我慢した経験は数え切れないほどあった桃太郎も、目の前に用意されている食事に手をつけてはいけない、なんて耐久経験(おあずけ)はしたことがなかった。
それが他人の分であればまだしも、膳のひとつは紛れもなく桃太郎のために用意されたものなのだ。
情念を断つ『色斬』であれば、この食欲を抑えられるのではないだろうか。
目が覚めるような刀身の美しさに、自らの貪欲さを諌めてもらおうという魂胆である。
「うむ」
相変わらず、『色斬』は薄暗い座敷の空気をも冴えるような美しさであった。
反りが少なく切っ先まですらりと流れるような刀身。鋭く浮かび上がる稲妻の刃紋は、今にも動き出しそうなほど。
ただし、一般的な日本刀に比べても幅広で、桃太郎が扱うにしては多少重い。
肌身離さず、風呂場までも持ち歩き、これまで随分と乱暴な扱い方をしてきたとは思うが、その刃に一点の曇りすら見られなかった。
太刀の鍛造技術然ることながら、それも偏に、桃太郎の細やかな手入れの賜物だ。
いつもは就寝前に行う『色斬』の手入れをこれから行い、夕餉のことは忘れようという作戦であった。
荷物の中から油の滲み込んだ和紙と真綿を用意し、桃太郎は膳を背に、締め切られた障子窓を向いて腰を降ろした。
立てた膝を両腕で抱え込み、胸を押しつけるようにして、昨晩塗りつけた油と、表面の水気を丁寧に拭き取ってゆく。こうして錆を防ぐ油をこまめに交換することにより、刀の有する本来の輝きを保持することができるのだ。
「本当でありんしたら、使わずに済めば晏如なんしが……『色斬』を振るうは致しカタナしでありんしたし」
まっさらとなった刀身に薄く、新しい油で膜を作り、視線の高さに持ち上げ目を細める。
刀身に曇りはない。油膜の斑や塗り忘れもなく、稲妻の波紋の向こうには、精悍にして見目麗しい桃太郎の顔が、くっきりと映りこんでいた。
手入れは終了だ。
終了してしまった。これで『色斬』を鞘へ収めてしまえば、否が応でも膳へと向き合わなければならなくなってしまう。
おこまの帰りはまだであろうか。
すぐに戻るといっていたから夕餉を用意してもらってしまったのに、せめて食事だけでもと同じ部屋に運んでもらっていたのに、これでは蛇の生殺しならぬ、桃太郎の生殺しだ。
「お武家様。おいでかい?」
桃太郎がそんなこんなしていたそこへ待ちに待ち草臥れた、おこまの声が、襖の向こうに上がった。
桃太郎ははっとして、『色斬』に映りこんだ自分の顔があまりにも嬉しそうだったので、咳払いをひとつ。
「……おこまさん。遅かったですね。どうぞ入ってください」
背後で襖が開き、おこまが入ってくるのを確認したのち、袖を払い、『色斬』を鞘へと収めた。
しれっとした装いは、食事にありつける喜びと、おこまと一緒に食事がしたくてこれまで我慢していたことが、今更気恥ずかしく思えてしまったからだ。
「おや。夕餉に手をつけてないじゃないか。あたいを待っていてくれたのかい? 先に食べていてもよかったのに」
「いえ。たいした時間ではありませんでしたから。そんなことより、なにかあったんですか……?」
あれだけ騒いでおきこの演技こそたいたものだが、桃太郎は振り返り、思わず眉をひそめてしまった。
おこまの呼吸は乱れていた。
衣服にも、若干その乱れはみられ、犬耳の髪がひと房、頬に貼りついている。この寒空の中、おこまは汗をかいていた。
「ああ、うん……」
おこまは部屋に入り、膳の少し手前で膝を下ろすと、畳に指をそろえ、桃太郎へ向かって頭を下げた。
「お武家様。今一度、その刀のお力をお貸し願いたく、お頼み申し上げます」
その声に、迷いや、戯けを隠しているような様子はなかった。
絹月にしろおこまにしろ、真剣な顔をして冗談をいえる人間なのは知っている。けれど、本気のときは、本気で相手の目を見て話が出来る人間であることも、桃太郎はよく知っているのだ。
「なにがあったか、話してくださ――」
平然の装いを解いた桃太郎の隙をつき、腹の虫がぐぐぐぅっと催促を叫んだ。
赤面し、俯く桃太郎と反対に顔を上げ、噴出してしまいそうに笑いを堪えるおこま。
「御免、御免。その前に、食事にしようかい」
そうはいっても桃太郎が自分の帰りを待っていてくれたことは嬉しく、また、その腹の虫の正体はおこまに責のある「犬神」であることが申しわけなく、おこまはなんとか苦笑にとどめて席へと着いた。
「あい! そ、そうしましょう!」
「おや。こりゃあ立派な梭子魚だね。でも梭子魚は冷めると身離れが悪くなっちまうから、やっぱり先に食べておいた方がよかったんじゃない、お武家様?」
「いいんです! 大丈夫、美味しいです!」
飯をいただく前の合掌も早々に、桃太郎は長い間おあずけをされていた夕餉を夢中で掻き込んだ。
その幸せそうな食いっぷりは、昼間穴子丼を山盛り二杯平らげた人のものとは思えないほど。
おこまが干物を二口と酢の物を食べたくらいで、桃太郎の茶碗には底が見え始めていた。
「ちゃんと、噛んで食べるんだよ……」
おこまは手早く、膳と共に用意されていたお櫃から御代わりをよそり、桃太郎へと差し出した。
食事を先にしたのは正解だ。桃太郎の空腹が落ち着いてからじゃないと、話がどこまで伝わるか分かったものではない。
ただ、事態は安閑に捉えてばかりもいられないのだ。
松の枝と氷に拘束された金糸猴の元へ、侵入者があったことは彦九郎にはばれてしまっている。
彦九郎が金糸猴の勝手な動きを知れば、最悪金糸猴の命はない。
ひとつ気になるのは、金糸猴の最後の言葉。
あれは「俺様は救ってほしいのだ――彦九郎を」と言いたかったのではないだろうか。
それは、彦九郎が鬼の力を金糸猴の拘束にしか使わず、また、金糸猴が彦九郎の命令に従っている理由に、つながっているのではないだろうか。
「おこまさん。さっきの話、続きを話してください」
桃太郎はおこまから三杯目の御代わりを受け取り、そこでようやっと食べること以外の口をひらいた。
なんとか、瀕していた飢餓からは脱したようである。
「お武家様がいっぱい食べてくれるから、お米も喜んでおいでだよ」
最初の一杯足す御代わり二杯。あたいも丸くなったもんだ、とか感じつつ、おこまは外で見てきた出来事を話して聞かせた。
話の最後、おこまは袖口から一枚の紙を取り出し、桃太郎へと広げてみせる。
「それで、これがその彦九郎」
しわしわで、ちょっと引っ張れば破けてしまいそうな茶色の紙は明らかな安物で、色が薄まってしまった墨は『この者村八分とす』とでも書かれていそうだ。
乱雑な文字の下には、彦九郎と思しき人相書きが認められていた。
「村八分」。
村の掟に背いたり、身勝手な行動で村に迷惑をかけるような人物とその家族を、住民総出が示し合わせ、絶交することをいう。
村の行事や付き合いを十に分け、火事と葬式の二つを残し、残り八割の交流を断つ、というのが語源であるとされる。
「村八分……その、彦九郎という人には家族と子供がいるんですね?」
桃太郎も、村八分の意味は知っていた。けれど、実際にそれを目にしたのは初めてだった。
中央の人相書きは、無精な髭と鼻の横のホクロくらいしか特徴のない男だった。
その下に、細面の女性と、子供が四人、同じく簡単な特徴が辛うじて判る人相書きが並んでいた。
村八分となるのは、それこそ鬼子や、余程のろくでなしだからだと思っていたが、人相書きには無論角などはなく、妻子ある、普通の男のようにみえた。
「ああ、違う違う。その男は乍兵衛。彦九郎はその下だよ」
おこまが勘違いをしている桃太郎へと注釈を入れた。
ほら下の、並んでる右から二番目、と手振りで彦九郎を示そうとしている。
「彦九郎は乍兵衛の三男坊なんだ。名前が書いてあるだろ?」
「おこまさん。桃太郎は筆盲にありんす」
もくもくと箸を休ませることなく口へと運び、人相書きを食い入るように見詰める桃太郎。
筆盲とは、つまり読み書きが出来ない、ということだ。
それほど教育が行き届いていない江戸初期。寺子屋などに通えるのは一部の富裕層だけであり、今や落剥が隠しきれない武士の中にも、読み書きに不自由な者はいた。
桃太郎が学に遅れているわけでは決してない。
「えええっ! あ、御免……え、いや、でも、そうだよね……でも、あ、そうなんだ……へ、へー」
なのにおこまは驚いてしまった。
桃太郎が筆盲だったなんて、これまでまったく気がつかなかったし、懐いていた才媛なイメージとあまりにもかけ離れていたもので。
「なんか、とても傷つきなんした……」
「御免、御免……ちょっと吃驚だったもんでさ。でもまぁ、別に珍しくもないやね。気にすることないよ!」
「――今まで引け目に感じたこともそんなになかったのでありんすが……」
「は、はい! はい! これが彦九郎ですよぉ!」
おこまは桃太郎の隣へと移動し、人相書きから、彦九郎と書かれた子供を指差した。
桃太郎は一旦諦めた箸でご飯を掬い直して、もぐもぐと租借しながら目を落とす。
「でも……これっていつの人相書きなんですか? 随分と古いもののようにみえますけど」
桃太郎は彦九郎を確認するとすぐに首をかしげた。
使われている用紙がいくら粗悪品であったとしても、風雨に晒され一年近くを経過した、奇跡の品でもないだろう。
少なくとも室内で、三年は保存されていたものだと推測する。
おこまは頷いた。桃太郎の廓詞が治まっていたことから、少しは機嫌が直ったかとほっとしながら、人相書きの解説をつづけた。
「やっぱり流石だね、お武家様。この乍兵衛一家が村八分を宣告されたのは五年前。当時、彦九郎は八つだったというから、今は十三、四になっているはずさ」
「十三、四……」
どちらにせよ、桃太郎より年下となるわけだ。
「ご両親は……?」
「それが、実は一家は去年、海に身投げしているんだって。彦九郎だけが、運がいいのか悪いのか、浜へ打ち上げられているのを村の人が見つけて看病して、命は取り留めたらしいんだけど、他の家族は結局遺体すら見つからず仕舞い。
当の彦九郎も、そんなこんなで村八分は解かれたのに、意地を張って、付き合いを拒み続けているらしいね。
ちなみに、この話も人相書きも、ここの女将さんから聞いて借りてきたものね」
村八分から四年、一家は想像を絶する過酷な迫害を受けてきたのだろう。
とうとう一家心中を決意した。
けれど、死に切れぬ者がひとり残った。
その者の命を救ったのは、在ろう事か、一家を心中へと追い遣った村の住人だった。
この時代、心中の生き残りに架せられた厳罰は男は死罪、女は晒し者、という重いものであった。
生き残った者はまだ幼いと罰を免れたながら、なにを感じただろうか。
いっそのこと、手など差し伸べずに見殺しにしてくれれば、とは思わなかっただろうか。
村の住人が助けた意味を、自らを嘲嗤い、より苦しめるためだとは思わなかっただろうか。
生かされた者は人付き合いをなおも拒絶し、それから更に一年。無明長夜の果て、鬼となった。
鬼となってなお、彦九郎の年齢は十三、四だという。
苦界と呼ばれる吉原遊郭に、育ての親から偽られ、売り飛ばされた桃太郎が、桃太郎であれたのは、絹月のお陰なのは言わずもがな。
他にも、利兵衛などの理解者に恵まれていたからに過ぎない。
同じく吉原へ連れられたお鈴が鬼となったように、あの姿は、桃太郎であってもおかしくはなかったのだ。
彦九郎に、そんな理解者は現われなかったのか。それとも、そんな支えとなる存在にも気づけないくらい、彼の心は荒んでしまったのだろうか。
桃太郎は箸を置いた。まだおかずも残っているし、飯も二杯半しか食べていない。
それでも、とりあえず動けるだけの体力は帰回したところだ。
「おこまさん。その、彦九郎の家族が村八分にされたもともとの理由って……?」
「それは、女将さんも知らないんだってさ。彼此五年も前のことだからねぇ」
「――五年経とうと、十年経とうと、忘れることなんて出来せん――」
「お武家様……?」
桃太郎は立ち上がり、陣羽織に袖を通し、桃の鉢巻を額に結び、『色斬』を、帯に差した。
「然らば、本人に直接訊ねるしかないですね」
「あ! あ! ちょいとお待ちよ!」
言うが早いか力強く襖を開けた桃太郎を押し止め、おこまはさっと、口元についた米粒を抓み、それを自分の口へとぱくりとやった。
「はい。これでよし」
桃太郎は「うむ」と唇をへの字にまげ、座敷をあとにする。
宿の玄関先にて草鞋の紐を固く結び、女将に「所用で出かけて参ります」とだけ告げ、通りへと歩き出した。
おこまもすぐにそのあとを追った。第一、息巻いて歩いてゆく桃太郎は、金糸猴や彦九郎の住まいを正確には知らないはずである。
宿を出る際、座敷の夕餉は握り飯にしてとって置いてくれないか、と見送る女将に託をしておいた。