三話 -6
暗い夜道をぼんやり進む小田原提燈。
漁村の短い宴は酣を過ぎ、一、二件の酒を出す店だけが灯を保つのみとなりつつあった。
寄せては返す波のさざめきが、星の瞬きと呼応して、空から落ち来た。
村八分を示す大松の根元に、寒空と雪と氷に囲まれた男の子が、袖をたくる姿で立っていた。
「彦九郎、ですね?」
提燈を手にしたおこまと目配せひとつ。桃太郎は声をかけた。
「――」
彦九郎はなにも答えない。
ただ青い顔をして、桃太郎を恨みがましく睨んでいた。
その歪んだ表情を、直視できない。
無理矢理に額から突き出した角はその者の顔貌を醜く変えるが、それはなにも角の所為だけではなかった。
桃太郎は口元の襟巻を下げ、ちゃんと顔が見えるようにしてからさらに声をかける。
「あなたがここでなにをしているのかはわたしには分からないのだけど、あなたの飼っている猿のやっていることは、ちょっといけないことなのかな。わたしに渡してくれませんか?」
桃太郎が話している内に、おこまは提燈を持ったまま少しづつ右にずれてゆく。
口の中でぶつぶつと呪文を唱えているのは言うまでもなく、この位置からでは松の木に囚われている金糸猴の姿が見えない。
彦九郎を警戒しているのか、それとも別の理由か。彦九郎同様、金糸猴の声も聞こえてはこなかった。
「それに、猿を氷に閉じ込めているのは、かわいそうじゃないかな?」
「――あんただれ?」
幼い声。甲高い、声変わりもしていない声。
「あ。え……っと、そうですね。わたしは、桃太郎といいます」
桃太郎は意を決し、伏せていた顔を上げた。彦九郎の、憐れに崩れた顔を見た。
「その猿に頼まれて、あなたを救いにきました」
「――は?」
彦九郎は怪訝に唇を吊り上げ、そして、吐きつけるように桃太郎を嘲嗤った。
闇夜を憚らず、狂ったように、甲高い声で嗤った。
そういう嗤い方を、人を嘲る調子を、知っている。
でなければ、彦九郎くらいの子供が、こんな、憐れな笑い声を発せられるはずがない。
堪らず、桃太郎は視線を伏せた。
なんとも様になった姿だとおもった。
彦九郎の人の蔑み方は、よく身についていると感じた。それは練習の賜物だ。
桃太郎が、琴や三味線、囃子などを日々の練習から身につけたように、触ったこともない太刀の手入れを、美しいままで保ちたい一心で繰り返したように、彦九郎は、こんな悲しい嗤い方を身につけるに至ったのだ。
それはおそらく、蘿蔔が吉原という世界を怨んだように、鞍右洲(クラウス)が仲間の裏切りを許せなかったように、家族を、自分を貶めた村の住人を、今度は逆に嘲嗤ってやるため。
「はははっ……おもしろいこというね! 猿がしゃべるわけないじゃないか! それに、なんでこいつが、僕を助けろなんて頼むんだよ!?」
胸に突き刺さるような、彦九郎の悲しい笑い声が治まって、桃太郎はもう一度顔を上げた。
「そうですね。猿が話をするなんておかしい。犬が話をするなんておかしい。蛇が、人の姿になって話をするのだっておかしい。
それがどれだけおかしくても、でも、もしもその声が、あなたの身を案ずとしたら、わたしの言葉が、その代願だとしたら、あなたは、その声に耳を傾けなければいけません!」
桃太郎の吐く息は白く夜に蟠り、視界をぼんやりと曇らせる。
桃太郎は苛立たしく自らの呼吸を手で振り払った。視界が晴れた闇の向こう。彦九郎は無残にも嗤っていた。
「――だから、あんた誰だよ」
くくくっ、と漣の中で嘲笑が聞こえる。
桃太郎の視界は、すぐに白く曇ってゆく。
「宣教師? おっかね。俺を救う? じゃあ何から救う? 貧困か? 別に俺は飢えちゃいない。村の連中と仲を取り持ってくれるのか? は! こっちから願い下げだよ。
親父や御袋を生き返らせてくれるのか? そりゃありがたい話だね。なんの取柄もないくせに、下手糞な人付き合いの所為で村八分を喰らって、挙げ句の果てに一家心中だよ!
生き返らせてくれるなら村の連中と一緒に復讐をしてやれるのに!
俺が、どんなおもいで海から這い上がったか!
どんな苦労で今まで生きてきたか、同じ苦しみを味あわせてやれるのに!
そうしたら、俺の気持ちも少しは晴れるんじゃないかな!?」
憐れなり。
おこまが頭をふる。
準備は整った。もう『色斬』を使うしかない、と桃太郎へ合図を送る。
しかし、桃太郎はそれに気づけていない。おこまの方を見ずに、彦九郎から目が逸らせなくなっていた。
憐れなり。なれど、丈夫なり。
「よかった……」
「?」
彦九郎は眉をしかめた。
僅かな沈黙を経て、桃太郎の言った言葉の意味が理解できなかったからだ。
彦九郎の主張を聞いた桃太郎には、瞬時にある仮説が組み上がっていた。
彦九郎は孤独であった。
それは生まれてからずっと孤独だったのだろうか。
それは違う。現し世に生を受け、不器用なれど両親が居て、兄弟が居て、愛情を受けて育ったはずだ。
村八分を受け疎外されてからも、家族だけは彦九郎の支えとしてあったはずだ。だから、一年前の心中にも同意した。
そして運よく助かった彦九郎は、村八分を解かれても、村への和解を拒んだ。
それは、親譲りの人見知りからだったのではないだろうか。
やさしさに触れても、家族の中でしか過ごしたことのなかった彦九郎には、その応え方が分からなかったのではないだろうか。
所々で味あわされる愛情が失われる度、孤独を自ら引き込み復讐心を募らせていった。
いつからか彦九郎は鬼となったが、その力を使ったのは金糸猴の拘束だけで、村にも、住人にも被害は出ていない。
彦九郎は、ただ暴れただけではなんの解決にもならないことに気づいている。
「……彦九郎。いまの口上、まっこと迫真極りてわたしの心も震えました。そして、よくぞ話してくれました」
「なにをっ!?」
内気で、人付き合いを苦手とした両親のもと、彦九郎が開けっ広げで伝法な性格に育つ道理はない。
それが、鬼の力を笠に着てでも、始めて会った桃太郎にここまでの口を利けるとは、正直嬉しかったのだ。
『色斬』を使い、情念を断つことは、簡単ではないが可能な手段だ。しかし鞍右洲のように、鬼の力を失い、人に戻ることで病に苦しむ者もいたのである。
『色斬』で色鬼を祓っても、その者が鬼に至った境遇は変わらないということだ。
彦九郎の境遇もまた辛酸だ。鬼の力を強制的に祓ったとて、それが彦九郎を救うことにつながるのか。
桃太郎は迷っていた。
それが、今の口上で吹っ切れた。
桃太郎が組み立てた仮説が大ハズレであったとしても、彦九郎の芯の強さは本物だと確信した。
ならば、桃太郎が彦九郎のためにしてやれる救いは、鬼の力を失っても、その誇りが支えられるよう、正々堂々と戦いを挑むことのみ。
「なんだ! なんなんだあんた!? いきなり出てきてわけの分からないことばかり! 勝手に知ったような口を利くなよ! 俺に拘るな! 村の連中と一緒に始末されたいのか!?」
「――彦九郎!!」
「なんだよっ!?」
桃太郎は先ほどから合図を送っていたおこまと頷きあい、『色斬』を抜剣。八双の構えをとった。
彦九郎が警戒と拒絶、それと、御節介な忠告と共に身を強張らせる。
「いざ、尋常に! 勝負!」
「巫山戯るなっ!? なにが尋常にだ、殺すぞ!」
駆け出す桃太郎。
彦九郎の青い体色が発光する。これは、蘿蔔や鞍右洲のときと同じ、鬼の力が発現する前触れ。
しかし桃太郎はためらわない。
代わりに、彦九郎がかすかに逡巡し、それでも下から上へ、青い光を纏った手刀を振り上げた。
刹那、彦九郎の足下に歪な氷の塊が出現。彦九郎の膝から下と地面を凍結接合させる。
「なに!?」
彦九郎の力は地面を高速で移動する蔦状の冷気だ。
冷気自体の攻撃力がどれほどかは分からないが、その凝結速度と追尾性能は驚異的で、おこまの身体能力をもってしても回避することはほぼ不可能。
桃太郎との話に気を奪われている隙に、おこまが呪文で呼び寄せた水の気を、彦九郎の足に纏い付かせておいたのだ。
水の気は、可視ではないが流れがあり、本来は、対象者の移動に過負荷を与える術である。
相手の攻撃に対抗する手段がないのなら、攻撃そのものを潰してしまえ、という兵法『先の先』というわけだ。
あとは、桃太郎が『色斬』を一振りすれば、勝負は決する。
――はずであった。
桃太郎が振り下ろした『色斬』は、なんの抵抗もなく彦九郎の左肩から打ち込まれ、胸を通り――卒然、腰の上で硬い何かに弾かれる。
「え……っ!?」
桃太郎は仕方なく『色斬』を引き抜いた。
それでも彦九郎の身体の青は、薄氷が割れるように剥がれ、キラキラと闇夜に散っていった。
「な……嘗めるなぁ!」
愕然としていた彦九郎の瞳に意志が戻ったのは、左側の角が砕けて散ったその時だった。
べったりと貼り付いた青が色味を強める。右腕で残った角を砕けぬよう握り締め、反対の腕を横薙ぎに振るった。
***************!
「わっ! うわ!?」
これ以上の接近を拒むよう桃太郎へと吹きつけてきたのは、無数のちいさな氷の結晶。
それらが絶え間なく吹き飛ぶことで寒気が渦を巻き、宛ら吹雪の如しであった。
「このまま凍死させてやる!」
堪らず退嬰した桃太郎におこまが寄り添う。
手にした提燈の灯りは頼りなく、ふたりの身体のあちこちには、氷の飛礫が当たり、横殴りの雪が張りついてくる。
「まいったね! こんな裏技を隠し持っていたとは!」
「おこまさん! なにか、吹雪を防いで彦九郎に近づける術はないんですか!?」
「そんな都合のいい術……」
おこまは眉間に皺を寄せ、頭の中から術のストックを検索。
吹雪に背を向けると素早く呪文を吐きつけた。
「――豊なる者 全てを擁く 素は虚ではなく尊に在り より強き者より強く より猛き者より猛 地には岩 山となって聳え賜う――」
くるりと反転。背を向けていた彦九郎へと正面から向き合い、術を開放。
勢いよく土砂が噴出し、障壁となって吹雪の直撃を防いでくれた。
「半端な攻撃じゃこの壁は崩れない」
「おおっ! これならだいぶ違いますね!」
「でもこの術の弱点は――」
土砂の噴出は頭上に家一軒ほどの高さまで達すると、治まりをみせ、まるで役目は終わったと云わんばかりに元の地面に引っ込んだ。
「持続時間が寸毫しかもたないこと」
「えーっ」
ふたたび、吹きつける吹雪に耐え切れず、桃太郎は身をちぢめた。
「お武家様、これは、一旦身を引くしかなさそうだね!」
「そ、それは……」
桃太郎はおこまに否といいかけ口を噤んだ。それは、正々堂々を宣言しておきながら逃げ出すのは、武士道に反する――など、桃太郎に語るほどの武士道はないが、なにより彦九郎に申しわけが立たないとおもったからだ。
けれど吹雪に遭い、その場に立ち尽くすのはただの愚行でしかない。
こうしている間にも寒さと雪と氷は体力を奪い続けていた。
それは、桃太郎だけのことではないのだ。
震えるおこまの肩の雪を払い、桃太郎は首肯した。
「そうですね! 撤退しま――」
「その必要はない」
桃太郎の声を遮ったのは、上空から降ってきた白い塊。
雪の白に紛れ、隠れてしまいそうなその体毛は、よく見ればかすかに金色がかっていた。
「あんた……っ」
おこまが呟くその足下に降り立った金糸猴は、躊躇もなく首もとの毛を毟り取ると、口を尖らせ息を吹きかけた。
すると、目の前の金糸猴とまったく同じ姿の猿が大量に出現し、桃太郎やおこまの身体にしがみつき、あっという間に隙間なく周囲を取り囲んだのだ。
「お前達はよくやってくれた。彦九郎はもう――大丈夫だ。いまに吹雪も止むだろう」
「お前さん。やっぱり、いつでも逃げ出せたんだね?」
「そういうことでもない。この別嬪さんが彦九郎の力を削いでくれたお陰で、氷の束縛が弱まったのだ――ところで別嬪さん。その物騒な物を収めてくれないか?」
「え……っと、あ、はい。すいません……」
なにが起きたか分からず、きょとんとしていた桃太郎は突然見知らぬ猿から声かけられ、慌てて手にした太刀を鞘へ収めた。
桃太郎が刀を仕舞うことで、猿達の密集度はさらに強くなる。
「猿団子ってやつだね。こいつは快適だ」
猿団子とは、寒冷地方に住む日本猿などが冬場に見せる、密集隊形をとって寒さを防ぐ姿をよぶ。
金糸猴は比較的温暖で、雪も降らない山奥に生息する種であるが、本能で、こんな非常手段を思いついたのだろう。
中央に備えられた小田原提燈の熱を、ようやく感じることが出来て、桃太郎とおこまはほっと息をついた。
「あの……それで、もう大丈夫っていうのはどういうことですか?」
「………………」
彦九郎にとり憑いた鬼は完全には祓えていない。それを一番よく知っているのは桃太郎だ。
現に人非る力は氷の息吹となって今も吹き荒れている。
それにしても、なんという執念であろうか。
おこまがさっきみせた土壁の術ではないけれど、これまでの鬼は力を発現するのも僅かな時間が精一杯な様子だったのに、彦九郎の吹雪は止むことを知らないかのようだ。
ごめんなさい。
はっと桃太郎は顔を上げた。
そこにはぎっしりと猿の顔が並んでいるだけだった。
猿達は気を遣っているのか一様にまぶたを落としていた。何かを口にした様子はない。
それに、今聞こえた声は確かに、彦九郎のもの。
「この吹雪は、彦九郎がこれまでに溜めてきた、後悔と懺悔の吹雪だ。全てを吐き出し、そうしたら終わる。だから、もういいのだ。もうしばらく、待て――」
桃太郎は足下の金糸猴へと視線を落とした。
足下の金糸猴もまた、周囲の猿達と同じ顔で、目を閉じていた。
吹雪が荒ぶ。体温を保つことが出来る猿団子の中にあって、その悲鳴のような嘆きは響き渡っていた。
いや、もしかしたら金糸猴が敢えて微かな隙間をつくり、音を届けていたのかもしれない。
嘆きの吹雪は海岸沿いの漁村へも届く。
冷たく、凍える海へも届く。
波の向こう側へも、きっと届いている。それは、こんな内容だった。
ごめんなさい。
裏切ってしまってごめんなさい。
お父さん。お母さん。兄さん達。まだ幼かった弟。僕は怖かった。ただ死ぬのが怖かった。
だからあの時、服に小刀を隠し持っていたんです。
海に落ちた僕は、縛ってあった荒縄を切りました。みんな、一緒に死ねるようにと、家族をつないでいた縄をひとりだけ切りました。
必死に海面をめざして泳ぐ僕の足を、掴もうとしましたね、お父さん。
掴もうとしましたね、お母さん。
掴もうとしましたね。
みんな掴もうとしましたね。
みんなみんな、何度も手を伸ばして、掴もうとしましたね。
だから、僕は何度も何度も、みんなの手を振り払いました。小刀を振り回して、みんなの手を、何度も何度も切りました。
そのうち、みんなは沈んでゆきました。力尽きて、重い海に吸い込まれるように、沈んで、見えなくなりました。
いつのまにか、浜辺に打ち上げられていた僕の手には、それでも小刀は握られていました。みんなの手を切ったときの血は洗い流れちゃったけど、今はもう、こんなに塩水で錆び付いてしまいました。
でも、本当はみんな怖かったんですね。ようやく気がつきました。
あの時、伸ばしていた手は僕の足を掴もうとしたんじゃなく、小刀を、渡して欲しかったんですね。
ごめんなさい。
気がつかなくてごめんなさい。
今頃気がついてごめんなさい。
でも、やっと気がつけたから、今から渡しに行ってもいいですか?