一話 -5
「うん。でももういいの。桃太郎ちゃんの顔を見て少し話ししたら、――――どーでもよくなっちゃった」
「うん。でももういいの。桃太郎ちゃんの顔を見て少し話ししたら、『悩みなんて』どーでもよくなっちゃった」
「うん。でももういいの。桃太郎ちゃんの顔を見て少し話ししたら、『仕事なんて』どーでもよくなっちゃった」
「うん。でももういいの。桃太郎ちゃんの顔を見て少し話ししたら、『アタシなんて』どーでもよくなっちゃった」
「うん。でももういいの。桃太郎ちゃんの顔を見て少し話ししたら、『生きるのなんて』どーでもよくなっちゃった」
「うん。でももういいの。桃太郎ちゃんの顔を見て少し話ししたら、『この世なんか』どーでもよくなっちゃった」
――違うでしょ――ちゃんと聞いてたの?
――アタシが言ったのは――
うん――でも――もういいの――桃太郎ちゃんの顔を見て――少しでも話なんかしたから――あんたなんかどーでもよくなっちゃった――一緒に――死んじゃえばいいんだ――
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「ほら聞こえた?」
「――――!?」
し、深呼吸――
口元を押さえつけて来る手などはない。
空気を呑み込む。
呼吸の仕方を頭が忘れている。
悪い夢だと頭を振るう。
蒲団を押し退ける。
気持ち悪いほどの寝汗。
強張った手足に血の気が通っていない。
力を込める。
自分に体温があることを意識させる。
耳にこびり付くかのような声に背筋が凍る。
蘿蔔の姿を枕元に探した。
誰もいない。
暗がりで、紅い口元だけがにやりと浮かんだ蘿蔔はおろか、同じ座敷で寝ていた他の新造の姿もなかった。
廊下の方から聞こえるのは男達の怒声と、多くの女達の悲鳴。
「!?」
散らかった蒲団と無理矢理引っ張り出されたままに散乱する艶やかな着物や帯の向こう側、律儀に閉じられた襖の方から、何人もの足音が、大声を叫びながら廊下を走り回っているかのようだった。
桃太郎はその様子を、半身を起こした状態で眺めていた。
二面の障子の向こうでは、鮮やかな橙色の焔羅が生き物のように揺らめいていた。
桃太郎はまるで、自分が一寸法師にでもなってしまったかのような感覚だ、と感じていた。自分の身体よりも大きな行灯の明かりを、近くから見上げているみたいだった。
いつの間にか、呼吸は普通に再開されていた。
呼吸を繰り返しながら、安堵の溜息を混ぜる。呼吸をすることなんかはなんてことない。意識しなくても、当たり前に出来ることなんだから。
硬い唇に冷たい指先を触れさせた。
――一緒に――死んじゃえばいいんだ――
夢の中の鬼の声が蘇って来て、桃太郎は思わず耳を塞いだ。
そこでようやく、頭の中が回り始める。
ここは夢ではないこと。現実に起きている異常事態であること。
自分はちゃんとまだ生きていること。そして――
「火事――おいらん――!?」
心配する気持ちは尤もながら、桃太郎が今、一番心がけなければいけないことは、自分の身を守ることであろう。
通常ならば有事の際、絹月のような上級遊女へは一番に救助の手が向かうことになる。
それは筆頭呼出しお付の振袖新造で、今後を有力視されている桃太郎も同じことであり、利兵衛はそのような指示を発しているはずなのだ。
ところがこうして、桃太郎は部屋でひとり取り残されている。
一緒に寝ていたほかの新造達は、桃太郎に気がつかず、我先にと逃げ出したのか、もしくは、悪夢の内で無呼吸状態であった桃太郎を、死んでいると誤認してしまったのだろうか。
それでもこのままでは、燃える廓内に孤立している桃太郎への救助の手は、ほとんど期待できないということに他ならない。
耳がしっかりしてくると、廊下を走る音、人のざわめきは最早聞こえず、木が爆ぜる音、風が何かにぶつかって渦を巻くような音、耳に障る不気味な家鳴りばかりが近くに聞こえた。
桃太郎はようやくと立ち上がった。手足に血流がゆき届いたのだ。
思ったよりも、しっかりとした足取りで立ち上がることが出来た。鏡台を照らしていた暗い行灯は、いまだに緩やかな火を備えている。
襖を開け、寝所から廊下へと出た桃太郎の顔を、微かな眠気すら吹き飛ばすほどの熱気が吹き晒した。
眠気を通り越した目眩すら覚え、襖を支えに身体を預ける。
「ちょっと……どこよここ……」
見知ったはずの廓が燃えていた。眠る前、当たり前に歩いてきた廊下はどこにもなかった。
天井の板は所々で剥がれ落ち、メラメラと打ち上げられる焔の中で黒い炭となっていた。廊下の角々に設置されていた行灯辺りが、より激しく燃えている。
乾燥した冬の空気によって、火の粉が振り撒かれる速度は異常なくらいだった。
桃太郎のこれまでが燃えていた。
桃太郎のこれからが燃えていた。
絹月から授けられ、絹月から託された『灸なり』が、目の前で崩れてゆく。
「――――っ!」
それでも、悲しんでいる猶予はない。
桃太郎は廊下を左右にと確認し、右の玄関へではなく、妓楼の奥へと通じる左の方を択び、歩き出した。
絹月の身が心配な気持ちはあった。とはいえ、焔に中てられ前後不覚に陥っているわけではなかった。
右の廊下は炎上が著しく、とても通り抜けることが出来そうになかったのだ。
それに加え、左の廊下の先は妓楼の奥へ入り込んでしまうがその途中には、凍えるような雪景色彩る中庭がある。ちいさいながら、鯉が泳ぐ池もある。
妓楼全体が倒壊しさえしなければ、そこで火事をやり過ごせるのでは、そう桃太郎は考えた。
足早に、焔に炙られ熱をもった廊下を駆けて行く。
敷居となるはずの襖や障子は真っ先に焔を這わせ、次の部屋、次の部屋へと被害を広げてゆく媒介となった。
焼け爛れ、触れることも出来なくなった壁。そして柱。今や、天井から二階はいつ落ちてきてもおかしくないかとさえ思えた。
ただ、幸いなことに人の姿を見ることはなかった。
どうやら『灸なり』の遊女や若い衆は粗方無事に逃げ遂せているようであった。
つまり、置き忘れられていたのは桃太郎だけだったのだと悟る。
そう考えると、逆に気が楽になるものだ。
正直、燃えてゆく錦繍や打ち掛けがもったいないとか感じながら、桃太郎は追ってくる焔を躱していった。
ところがである。目的の中庭へやってきたそこで、桃太郎の表情は一変する。
桃太郎の想像していた通り、中庭は平穏なままであった。松葉に白く積もった雪も融けることなく、焔の橙色を鮮やかに反射していた。
その先、花魁の寝所がある棟の屋根が、ばたりと焼け、抜けてしまっている。
――まさかね。
荒い呼吸を繰り返し、強張る頬を無理矢理持ち上げる。
おいらんは先に助け出されているのだと言い聞かせる。
でなけりゃなんの為の男手だ、花魁なくしてなにが吉原だ、と桃太郎は一笑した。
しかし、もしも、若い衆が助けに来る前に、ここの屋根が落ちてしまっていたら?
拭いきれない不安が、桃太郎の脚を雪の先へと押し進めた。
揺らめく焔が、中庭から渡り廊下へと上がる階段で踊っていた。
桃太郎は仕方なく、着物をたくし上げ、手摺の下から直接廊下によじ登る。
落ちた屋根はそのまま天井を突き破っていた。
とはいえ燻る焔はそれほどでもなく、桃太郎は残骸を乗り越え、ついさっきまで自分も一緒であった絹月の座敷を覗き込んだ。
――――――――…………………………。
絹月はいた。
仰向けに倒れた格好で、落下した天井の梁が、重く腰の辺りに圧し掛かっていた。
顔は見えない。けれど見間違えるはずがなかった。
ずっと、憧れと、信頼と――夢中で追いかけてきた後ろ姿なのだ。
「――――おい――らん……そんな…………」
桃太郎の歩みは止まらなかった。
瓦礫を乗り越え、焔が髪を焦がし、小袖が破れても気にならなかった。
霞む視界の向こうにいる絹月を追いかけた。
いつもと同じようにして。遅れないように、引き離されないように。
瓦礫に押し倒された襖に足を着いた時、突き出してきた木片が足袋の上から浅く桃太郎の指を切った。
「――痛っつ……」
「………………」
桃太郎は恐る恐る首を持ち上げる。聞こえた声は、確かに――
「おいらん!」
絹月は、いつもと変わらないやさしい笑顔で桃太郎を振り返っていた。
そうだ。おいらんが自分を残してどこかに行ってしまうようなことはない。
絶対にない。
桃太郎は震える唇であっと叫ぶと、倒れた絹月へ向かって駆け寄り、膝をつく。
「桃太郎……遊女はどこで……病をもらうか分からんから……怪我には、気をつけるよう言ったではありせんか」
「お、おいらん! おいらん! ま、また、わたしをからかってありんすか!?」
そんなことはなかった。
そんなことがないことが、桃太郎にだってちゃんと分かっていた。
絹月の声が聞こえた瞬間、瓦礫や梁が、うまく花魁の身体を逸れていたのかと期待した。
けれどこうして近くから見てみると、梁は確実に絹月の背中から腰の辺りに横たわり、脚がどうなっているかは知りようもない。
「ば、莫迦いいないな……見ての通り、死に掛けてありせんか……」
そんな桃太郎に苦笑する絹月も、腹部に力が入らない所為から声にいつもの張りがないくらいで、言うほど死期迫っているようにはみえなかった。
このまま、日頃の他愛のない会話が続けられるのでは、なんて、願いでも、望みでもない考えが浮かんでしまいそうになる。
話をする、なんてことは、二人にとって、それくらい当たり前のことであった。
それでも、別れの刻は嘗てないほど傍にあった。
「でも、きっと来てくれるだろうと……思うてありんした……」
「おいらん……桃太郎は、ずっとおいらんと一緒におりますよ……」
桃太郎は、絹月の手を握り締め、しっかと頷いた。絹月の言葉を、身動きの取れない心細さからだと判断したからだ。
絹月のそばにいる。火の手は徐々に押し寄せ、残りの屋根が落ちるのが先か、焼け死ぬのが先か。
そんなことは、絹月と一緒にいられるのなら、なんてことはないとさえ思えた。
しかし絹月は首を左右に動かした。
「桃太郎、最後に……お前に頼みたいことがあります」
「最後……って……おいらん!」
絹月は桃太郎の批難には取り合わず、その手を離し、抱えるように自らの下敷きとなっていたものを苦しそうに引き抜いた。
長布に巻かれた、一振りの太刀――
「『色斬』……」
「も、桃太郎……ここにある五十両をもってこの太刀に銘を入れ、保土ヶ谷誠次郎様のもとへ――届けておくれでないかい?」
「わ、わたしが、ですか!?」
「お前以外に、誰かやってくれますか?」
受け取った太刀の重さに悲鳴を上げた桃太郎は、続けて首をかしぐ絹月の疑問に、言葉を失わざるをえなかった。
さらには五十両もの大金。きっと、身請け後の生活の足しにと、絹月が溜め込んでいたものであろう。
絹月がここから動けないのは言うまでもなく、絹月の願いはつまり、『色斬』を持った桃太郎がここから立ち去ることを意味していた。
本来であれば、どんな事情があれ絹月本人がやり遂げなければならない役目である。それが今回は叶わない。
あと数時間もすればめでたく年明きとなり、吉原を去れたのに、そう思っていないはずがないだろう。
それでも笑顔を絶やさず、『色斬』を手渡す絹月の胸中、後悔の念は計り知れない。
桃太郎は涙ながらに頷いた。首肯するしかなかった。
「花魁・絹月が名代、この桃太郎しっかりと承りました……」
「…………ありがとう。頼みましたよ」
二人、いつもどおりのやり取りであった。いや、普段は、ありがとうとは言わないから、ニュアンスが少しだけ違っていた。
桃太郎は絹月を残して立ち上がる。そうしたら、いつもどおり、自分から先に、座敷をあとにすればいい。
「――ああ、桃太郎」
『色斬』を抱え、涙を止め処なく残し、後退ろうとした桃太郎を、絹月のやさしい声が呼び止めた。
「行く前に、もう一度だけ、太刀の刀身を見せてくれないかい?」
桃太郎は涙の内で頷いて、言われるがまま太刀を束縛していた長布をほどき、現われた黒鞘から見事な刃を引き抜いた。
絹月の言うように、よく目にする刀と比べても身幅の広い刀身に銘はなく、かえって刀本来の華麗さが際立って見えた。
貴族や幕府へ献上する刀には銘を入れないのが礼儀、という慣わしもあったため、この刀もそういう一腰だったのかもしれない。
正宗という刀匠などは知らない桃太郎も、刃先から鍔まで、立ち昇るような稲妻の刃紋に、はっと息を呑んだ。
重量は兎も角、刃渡りが普通の刀よりも短くて、桃太郎が扱うにちょうど良い長さだと思えた。
ゆっくりと刃先を下げ、絹月の顔の前で、刀紋が良く見えるようにした。
絹月は『色斬』の峰に手を添え、見せるように言ったはずの刀身ではなく、首を反らし、桃太郎と視線を交わすようにする。
「お前は曲がりんせんなぁ……ためらわず、空も、時も、越えてゆけばいいよ」
なんの抵抗も、音もなく、微笑を湛えたままの絹月がそっと引き寄せた『色斬』の刃は、その白い咽喉を――――