三話 -4
金糸猴(きんしこう)。
海を隔てた大陸は清国、四川省成都の奥地にしか生息しない希少な猿であり、ゴールデンモンキーとも呼ばれる。
西遊記の主人公のひとりである、孫悟空のモデルとなったともいわれ、どこか神秘的な威厳を漂わせた猿であった。
どっと重たい響きを残し、跡形もなく霧散する猿を――猿の姿をした何かを呆然と見詰め、ややあってから、おこまは桃太郎を追いかけた。
桃太郎の後ろ姿はひと気のなくなった街道端ですぐに見つかった。
「お武家様!」
「にゃ? にゃににゅにぇの!?」
「ちょっと……大丈夫かい?」
肩から背中ごとで、冷たい空気を吸っては吐いて、『色斬』はだらりと右手にぶら下がっている。言語は最早、理解不能ながら、取り敢えずは無事に、猿を取り逃がしているようだ。
おこまはそんな桃太郎の肩を支えつつ判ずる。
なんにしろ、桃太郎の胸を触り団子を奪った猿を特定する以前に、少し別の方向からも事態を捉える必要があるようである、と。
「お武家様、今日のところは町までゆこう。ほら、もうちょっとだからがんばって!」
「にゃい!」
おこまは桃太郎が『色斬』を収めるのを手伝ってやり、ふらつく足運びを支えて歩き出した。
歩き出し、すぐ、おこまは気がついた。
「ああ、いるいる……」
「?」
街道脇の草叢から松の裏側、少し離れた浜辺の段差に道祖神の肩口。
周囲から注がれた、身に刺さる査察の眼、眼、眼。
先ほどのように飛び掛ってくる様子はなさそうだが、おこまは桃太郎に寄り添い、江尻の漁村へ到着するまでの咫尺、気の休まることはなかった。
「いや、この道中は疲れましたね」
「……そうだね。いろんな意味で」
旅宿を頼んだ『若狭屋』という店先で、草鞋の紐をほどいている桃太郎に、おこまは視線をやらずに答えた。
町に入ってからも猿の眼はなくならなかった。
街道の頃よりは離れているようでも、人一倍感覚が研ぎ澄まされているおこまにしてみれば、まったく油断のできる雰囲気ではなかったのである。
とりあえず今は、屋根の上にいる一匹が気になってしょうがない。
「それではお部屋にご案内いたします。こちらへどうぞ」
『若狭屋』の年老いた女将が、そそと二人を促した。
おこまがまだ草鞋を脱いでいなかったので、桃太郎が上がり端で立ち止まると、女将も立ち止まり、最初から言おうとしていたのだろう、だいたい予想のついた注意を促してきた。
「お武家様方も聞いておるでしょうが、今この宿場町には性質の悪い猿がうろついております。室内には入れないようにしておりますので、どうか座敷の窓は開けないようにお願いいたします」
きびきびとした業務的な対応だ。
不具合は承知の上で宿泊をしてもらう。
私達は悪くない。
私達も被害者なのだ、とそういうことだろう。
「――お武家様、あたいちょっと出てくるわ。荷物お願い」
おこまは背負った大風呂敷だけを上がり端に下ろすと、小用にでも出かけるような軽い調子で手をふった。
「ああ、おこまさん!」
「すぐ戻るけど、お武家様はおとなしくしておいでよ、また、猿にからかわれたくなかったらねっ」
垂れ目がちの愛らしいウィンクをひとつ。おこまはむくれっ面の桃太郎を残し、ひとり通りを駆け出した。
案の定、というわけでもないが、猿の眼がおこまを追って移動を始めた。
おこまは安心して桃太郎から距離を離せることにほっとしつつ、夜の宴に賑わい出した、ちいさな漁村の灯の間を縫い、駆け抜けてゆく。
通りを外れ、暗い路地裏へと左折。
少し細かく道を選び過ぎているが、身軽な猿を相手に気を使うこともないだろう。
猿達の気配はまったくおこまから離れずについてくる。
この先には冬の冷たい海がある。ある程度の開けた空間で、人目を避けるには丁度いい。
そこで一気に相手をする。
地理にはおこま以上に詳しいはずの猿達も、挑発に乗ってくれているようだった。
海風に晒された、あばら家の、今にも朽ちそうな壁板を抜けた目の前に、飛び出してくる一匹の金糸猴。
「フライングだろ! フェアにやろうや!!」
振り抜かれた爪を鼻先で躱し、おこまは走る速度から、前宙気味の蹴りを叩き降ろした。
さっきのように手加減をしなかった蹴りはほとんど抵抗もなく猿を両断し、さっきと同じように、その仮初の体躯を霧散させる。
***!
砂浜に、おこまが足を止めたとき、周囲には十数匹の猿が集く目を光らせていた。
普通、人間一人がこれだけの野生の猿に襲われたなら大怪我は免れないような状況下で、おこまは不敵にほくそ笑んだ。
「さあ始めようかい! 遠巻きにギラギラされんのは性に合わないんだよ!」
それがまさに通じていたのか、おこまの背後に身を潜めていた一匹が襲い掛かる。
完全な真後ろからの攻撃を、おこまは身を屈めて回避。
建物に遮られた屋根の上の気配でも、指向性をもって発されていれば気がついてしまうおこまである。こんな近くからであれば、たとえ後頭部に目玉がなくても攻撃を読むことなどは容易い。
躱した瞬間、伸び上がる肘を、頭上で腹を晒している猿へと叩き込んだ。
そこを狙ったかのように、またしても背後から、二匹の猿が砂浜を駆けてきた。
最初の一匹は囮だ。
頭部への攻撃に集中させておいて、本命は下。足に負傷を受けるだけでも、おこまの勝率はガックリと低下する。
なんてことは、おこまは毛頭承知している。
だから肘を撃ったのだ。
気配で把握した背後の一匹へと、打ち上げた腕を伸ばした手のひらを叩きつける。
だたの張り手ではない。全体重を乗せた掌底打だ。
声もなく、砂浜に頭部を押し潰された猿の上で片手倒立。
狙いを定めていた脚部が上下反転。さらには相方が呆気なくやられてしまい、おろおろと取り乱しているもう一匹の猿。
おこまは倒立を解き、猿から間合いを離す位置に着地した。
着地点を狙い、取り乱す猿の背後から、更に二匹の猿が飛び掛った。
おこまはこの猿に気がついたからこそ、距離をおいていたのだ。
間合いを外された猿の距離は、おこまの足技が威力を存分に発揮する範囲だ。
「ガウっ!」
横薙ぎの剃刀のような蹴りが二匹を同時に切り裂く。
その勢いを乗せた低空回し蹴りが、自分を見失っていた猿の頭部を粉砕する。
勢いは止まず、その後方から攻撃のタイミングを図っていた一匹に、おこまの掌底打が突き刺さった。
「ま、まて……っ!」
突き刺さった。
猿の発した制止の声は、間に合わなかった。
というよりも、おこまに攻撃を止める理由はなかっただけだ。
頭部を失い、霧散する猿を見下ろし、おこまは乱れた襟を嫣然と正した。
「なんだい、しゃべれんのかい」
「待て、と言っただろうが……雌犬め」
「はい、戦闘再開!」
「だあっ! 待て! 話を聞け!」
取り敢えず、手近で話しかけてくる猿へとおこまは踏み込む。
一目散。ざっと猿達はおこまから、異常に距離をとった。
「こちとら妖怪の話を親身に聞いてやれるほど、心広くないんだよ。言葉遣いには注意しな」
それに、とおこまは周囲を広く見渡した。
先日、桃太郎が気にしろ、といっていた人の目を探る。
おこまは、最初からこの猿をただの猿だとは思わずに相手をしているが、なにも知らない村民にこんな場面を目撃されるのはまずい。
殴り合っているのならまだしも、暢気にお話などしていては、最悪おこままで妖怪の仲間だと見られ兼ねないからだ。
会話が出来るのなら手っ取り早いので、話もさっさと済ませてもらいたい。
「くそ……やっと俺様の声が届く相手が来たと思ったら、なんでこんな……な、なぁお前。話を聞いてくれるなら、連れの別嬪さんを連れてきてはくれないか?」
「嫌だね。誰が妖怪にお武家様を紹介したりするもんか」
おこまは拒絶を示すため、わざと腕を組んだ。
腕組み足組みは哀運の徴といい、この時代、対人関係で毛嫌いされていた思草のひとつである。
とはいえ、野生の勘、とでもいうべきか。桃太郎が女性であることは、この猿には見通されていたようだ。
もっとも、猿の言うとおりに桃太郎を連れてきたとして、今の精神状態で、まともに話を聞くとは思えないが。
おこまは密かに苦笑し、気を取り直して言葉を選ぶ。
「まず、あんたの正体と目的は? 村にもたいした被害は出てないっていうし、こんなに分身を飛ばしてなにしようってんだい?」
「仕方がない……それを教えるためにも見てもらいたいものがある。ついて来てくれるか?」
「ああ、いいよ。その代わり、こんな大勢連れ歩くのは御免だよ。案内は一匹にしな」
おこまは二つ返事で了承した。今のままでは猿が何十匹束になってもおこまには敵わないことは判っただろうし、おこまにしても、村のそばで猿との話を続けるのも気が気じゃなかったので。
おこまの要求を承諾し、猿は人語を介していた一匹を残し、残りは霞となって四散した。
猿は軽やかに砂を蹴って浜辺を先に歩き出した。おこまもあとにつづく。
「あんまり遠いんじゃ嫌だよ?」
「大丈夫だ。すぐこの村の外れに、俺様は居る」
俺様は居る? とはこの猿の本体のところへ案内してくれる、ということだろうか。
おこまは思い巡らせるも、ここは黙って猿の案内に任せることにした。
代わりに、別の疑問を投げかける。
「もうひとつ。さっきも言ったけど、あんた達は食料をちょっと奪うだけで人に手を出したりもしてなかったみたいなのに、突然あたいを襲った理由は?」
猿はおこまの前を歩きながら、振り向きもしないできっぱりと答えた。
「俺様は犬が嫌いだ」
「……あっそ」
この猿の態度から、そんなことだろうと思っていたおこまは、おもしろくもない、と肩を竦めた。
相手から嫌われている以上会話がはずむことはなく、おこまにしても猿と仲良くする気もなかったので、終始無言のまま、猿が案内する村外れへと向かった。
猿は海岸沿いに村を抜けると街道を横断し、今度は海から離れ、山の方へと歩いてゆく。
このまま真っ直ぐ進むと、東海道の本線が通る高草山峠へと向かってしまう。
町の灯りからも随分離されてしまったし、ここは少し警戒しておくべきか。
おこまがそんな用心を懐いた頃、案内をしていた猿の姿が消えた。
「おや……」
闇に撒かれた、というのではない。術が解かれ、目の前で霧散したのだ。
警戒は維持し、きょろきょろと辺りを窺っていると、そばに高く生えた松の木の向こうに一軒だけ、ぽつんと民家の灯りが見えた。
あそこへ行けということなのか、とおこまが足を踏み出したそこへ、頭の上から声が降ってきた。
「ここだ。あの家には村八分を受けた彦九郎という男が住んでいる。近づくな」
「――それで、お前さんは、そこでなにをしてるんだい?」
おこまは眼を凝らして松の木を見上げた。
暗い松の葉叢の陰に、金糸猴はいた。
おこまは息を呑んだ。
それでも事態が理解できていないので、成る丈平然に問いかけた。
「見たとおりだ。俺様は、こうして囚われているのだ」
立派な松の木の上から、金糸猴は答える。
四方八方へと枝を伸ばす松には、この時期にも青々とした針のような葉が茂っていた。
その、枝枝をつなぐ、ピンと張られた氷の蔦。それが、自然にできたものではないと、おこまはすぐに判断した。
あちこちに出没していた金糸猴の本体は、ここで太い枝葉と氷の蔦とに囲まれ、身動きがとれない状態であったらしい。
「つまり、自分で動けないから、分身を使って食料を運ばせていたってわけかい……」
「それがそうでもない」
「ええ?」
状況から仕方がない部分もあったかな、と結論付けようとしたおこまをあっさりと否定する金糸猴。
ここからこの猿を連れ出せばこの騒ぎは解決か、と、真上を見上げ続けるのも疲れるので一度降ろした視線を切り返す。
「俺様の分身で食い物を運んだのは、彦九郎のところだ。それに、運んだのは食い物だけじゃない」
いきなり名前が出てきたが、それは今しがたこの金糸猴の口から出た村八分の名であるはずだ。
おこまは怪訝に松を見上げたまま首をかしげた。
「というと?」
「銭だ。むしろ最初に盗ってくるよう言われたのは銭の方だ。彦九郎は集めた銭を使いたくないから、食料を運ぶよう言ってきたのだ」
「お前さんの食事はどーしてるんだい?」
「彦九郎がいらないものが与えられる。まぁ、今日お前の連れからもらった団子は、彦九郎には渡さず、俺様が頂いたがね」
金糸猴は松葉で歯の隙間をつつくような動作の上でキッキッキと嗤った。
首が疲れる。
おこまは視線を落としながら考えた。
この金糸猴のいうことを全面的に信じるまでにはまだ情報が不足している。
金糸猴はなかなかどーして、しっかりとした自尊心を持っているようだ。分身のときにはみられなかったのは、それが分身であった所為か。
「犬嫌い」の本質は変わらないのだろうけど、おこまに対しても嫌悪感を剥き出しにしてくる様子はない。
ならば、ここで身動きがとれなくなったくらいで、その彦九郎、に従っている理由があるはずだ。
「…………じゃあ、お前さんをそこに縛り付けている氷の蔦を張ったのは、どこの誰なんだい?」
「彦九郎だ」
あー。
おこまはすぐに顔を伏せて前髪をぽりぽりと掻いた。
やはりそうだ。分身と、本体の本質は変わらない。
ここで話をしていて、なにかがしっくりこなかったのだ。
たとえれば、状況証拠だけで決定打が見出せない浮遊感。
つまりこの金糸猴は「犬嫌い」の自尊心から、おこまに伝えなきゃいけないことをまだ伝えていない。
考えてみれば、分身がおこまをここへ案内した意味もはっきりしないままだったりする。
「お前さん……もしかしてあたいに助けてもらいたいのかい?」
「いや。そういうことでもない」
「たは……素直じゃないねぇ」
「俺様は救ってほしいのだ――」
おこまは頭に浮かんだ疑問符越しに金糸猴をまじまじと見た。
わざわざ言い直したのは、単なる反抗心からではなさそうだと感じたからだ。
その時、声がした。
「彦九郎だ! 女! ここから逃げろ!」
キャッキャと頭上でけたたましく甲高い声を上げる金糸猴。
おこまは視線を、蕭然と明かり灯る民家へと向けた。
農道の轍すら辿れない闇の中で、何かが揺れていた。
そして、それとは別に、高速で近づいてくるざわざわともチリチリとも鳴る音に、耳をひそめた。
「女! 下だ!」
金糸猴が叫んだ。おこまは猿の声に従い警戒を足下へ、大きく後方へと跳び退いた。
それは、ちいさく爆ぜながら進行する氷の流れ。
いくら激しい寒波が来たとて自然界では決してありえない速度で氷結し、さらには方向を定めて真っ直ぐおこまを追尾してくる。
――躱し切れない。
おこまは多少の距離を離しても、氷の進行速度からは逃げ切れないと判断し、深呼吸。
そして一息に呪文を吐きつけた。
「――去来した天譴 煉獄の念数珠 不死鳥の同胞 年百年を糧に焼き尽くせ 災を持ちて獄となせ 崩れた円を掲げて軍門に唸れ――っ!」
現われたのは真っ赤に燃える篝火。
そして術の焔に照らし出されたのは一匹の猿だった。
氷の流れが猿と縦軸を重ねた瞬間、噴上がった幾本もの蔦が猿を絡め取り、猿の姿はあっけなく掻き消される。
おこまは篝火を撃ち放った。
氷の流れは金糸猴の分身を捕らえたお陰で動きを止めている。
篝火は松の木を過ぎ、夜に佇む彦九郎の姿を一瞬照らし出すと、ぱっと弾けて散り消える。
おこまは、篝火が消えるのを待たずに回れ右をして、全速力でその場から走り去った。
篝火の術は目測で放ったに過ぎず、ほんの一瞬では、顔貌はおろか、背格好すらもよくは確認できない彦九郎ではあったが、その額には――
間違いなく二本の角が生えていた。