一話 - 3
拍子抜けしてしまうくらいに、いつもと変わらない一日が過ぎた。
昼見世とは、花魁にとっては形式上のことでしかないので、桃太郎も絹月に付いて三枚歯下駄での立ち方から「八文字」の歩き方を教わって過ごした。本当はこの「八文字」を絹月と一緒に歩きたかったのだ。
そんなことは心へ押し込め、口にはしないで、ただ、そっと「八文字」のお手本を描く絹月の隣に並んでみたりして、二人は微笑み合った。
夜は絹月の馴染である酒問屋・菱屋の若旦那や甲州屋三代目、札差・
志村屋の四代目、糸物問屋・俵屋の二代目、ひいては絵師・三田村善衛門、八丁堀のご隠居までもが、絹月の身請けを祝い、悔やみ、喜び、惜しみにやってきた。そのため絹月は「廻し」で忙しく、桃太郎たちも廓中を駆け回った。
このように「廻し」が頻繁で花魁がお客の下に顔を出せない場合「名代」といってお付の振袖新造が代わりに馴染客の相手をすることになる。が、絹月は札差・志村屋四代目、志村屋惣吉の名代に桃太郎をつけ、あとは出来うる限りの時間で廻るようにした。今夜が花魁・絹月最後の仕事であり、手を抜きたくない気概があったのである。
絹月のように、一晩で多くの相手をしなければならないことが少なくない花魁クラスの遊女は「床入り」を「フリを付け」て済ます。「フリを付ける」とはつまり、手練手管で相手を満足させ、自分は達したかのように装う遊女の技であった。
「まっこと、ごめんなんしなぁ、志村屋様」
桃太郎は困ったふうに眉根を寄せるようにして、火鉢の炭を転がした。
網膜を焼くほどの目映い火の粉がかすかに爆ぜる。
「絹月姉女郎さんの年明きを見送りにきてくださいましたのに……」
「あ、ああ。そうだね」
蒲団に腰までを埋め、桃太郎の後ろ姿をぼんやり眺めていた志村屋
惣吉は、とりあえず頷いた。
本当はぼんやり、ではなく、うっとりであり、彼女の言葉も大方聞き逃していて、辛うじて「絹月」という単語だけが聞こえていたので、姉女郎さんの話だと推測し、頷いてみただけであった。
惣吉はまだ二十四である。幼い頃より商売に携わり、父親譲りの商才にも恵まれて、これからだという昨年父親である志村屋恭治の不慮の死を受け、四代目を襲名するに至った老舗札差の若旦那だ。
吉原に来たのも最近であり、初めは組合連中に付き合わされての無理矢理であった。
とはいえ正妻やいい人がいるわけでなし、商いにはこういった交友関係が不可欠であることも知っていたので、それから何度か足を運ぶことになった。
そんな中、惣吉が桃太郎と出会ったのは三月前のこと。
いつものように組合連中と連れ立って吉原にきた惣吉は、偶然、絹月の道中とすれ違ったのだ。そして絹月ではなく、傍らで花魁を見守りながら歩く桃太郎と、目が合った。
少なくとも惣吉は、目が合ったと思った。
ちょうど通りがかった検番を捕まえ、花魁の名前が「絹月」であると知った惣吉は『灸なり』という妓楼を探し出し、桃太郎と会うために、絹月の馴染となれるよう振舞ったのだ。
その奇行を嘆き、今度の代で志村屋も終わりかと、耳に痛く聞こえるよう噂される結果になったのだって、後
悔はしていなかった。
そんな惣吉に逸早く気がついた絹月は、こうして桃太郎を名代に
当たらせることも多かった。
名代とはいえ揚げ代は花魁相当を頂戴されるので、本来であれば「床入り」もできないし嫌がられるところも、惣吉にはそんな絹月の気回しがありがたかったのである。
一方桃太郎はといえば――
「さ、火鉢が温ぅなってきなした。蒲団から出て、お酒でも飲みな
んせ」
定型どおりのお持て成しで対応していた。
妓楼での生活が長いとはいえ、桃太郎はまだ十五である。男女間の機微を察知するには早いのかもしれない。
また、逆に廓で生きてきたからこそ、男性と女性という存在を、はっきりと区別してしまったのかもしれない。
なんにせよ、桃太郎に惣吉が期待しているような感情は一切なかった。
「ああ、はいはい。日本一の桃太郎ちゃんにお酌してもらえるなんて鼻が高いよ」
まぁ、惣吉にしても、今までモテた例もないのに、いきなり吉原のお女郎さんに振り向いてもらえるとは思ってなどはいないし、なにより桃太郎と二人きりで話が出来るだけで満足なのであった。
今までは。
それが今夜は、ここに来る途中耳にした噂がチラついてしまい、さっきからどこか
浮き足立っているのが自分でも分かっていた。
「もう。そんな意地悪をいうお人は嫌いにありんす。ご自分で注ぎなんしか?」
「おいおい。俺は本当にそう思っているんだから、へそを曲げないでくれよ……」
「くすくす……冗談にありんす。それに、日本一とはゆき申さんど、絹月姉女郎さんの名代として、恥ずかしくない務めをさせていただきますので安心してお座り下さいませ」
胸を張っていいながら、火鉢の熱で程よく温まった燗を差し出す桃太郎。惣吉は自分にとっては本当に日本一の酌を受けながら、桃太郎のちょっと拗ねた表情から自信に満ちた笑顔まで、正直、料理よりもそちらをつまみに酒を呷った。
桃太郎も、惣吉が自分の名代でつまらなそうに酒を飲む姿を見たことがなかったので、相手をしていて少しばかり気分がよかった部分は確かにあった。
「あの、そういえば桃太郎ちゃん。絹月さんが店を去るのはいつなんだい?」
少しばかり酔いが回ってきたことでストッパーが外れかけてきた惣吉は、まずはじめにそう切り出した。もちろん本当に訊きたいことは、絹月の年明き日ではない。
「それが、明日にありんす。志村屋様、知らなかったのでありんすか?」
「あ、ああ。近々だとは聞いていたんだが、明日だったとは。それはまた急な……」
「実は、桃太郎も今朝聞かされたのでありんす……」
「それは……驚いただろうね」
惣吉の憂いに、素直な同意を示して桃太郎は項垂れてしまう。
空気が重たくなってきてしまった。惣吉は自分で仕掛けておきながら、軽率であったかと後悔する。
例の噂を訊ねることも逡巡し、それでも、これは桃太郎を心配してのことなのだと、酒が都合のいい脳内転換をしてくれる。意を決して口にしてみることにした。
「それで、桃太郎ちゃん。俺が聞いたところに因ると、姉女郎さんをなくした御新造さんは、自分で客をとるようになると聞いたんだが、桃太郎ちゃんは、どうするんだい……?」
一見、桃太郎の今後の身の振り方を心配するような口ぶりだがそういう実は、自分こそが桃太郎の一番の馴染になりたいという下心から出た台詞であることはいうまでもない。
とはいえ桃太郎は惣吉のそれを、言葉のとおりに受け取った。
「そう、いう選択も、必要になると教わりんした。これからは、自分のご飯は自分で稼がないといけないんだと……」
惣吉は手にしたお猪口の中身を一気に流し込んだ。今こそ想いを伝える時だと、意識的に顔をつくり入れる。
のだが「そ、それじゃあ――」という惣吉の台詞は途中で、桃太郎の流れるように真っ直ぐな言葉によって掻き消されることとなった。
「でも、桃太郎は「突出し」の日まで、お客はとらんせん。多少身上がりすることになったとしても、絹月御女郎さんのような立派な花魁になれるよう、女を安売りは致しんせんと決めたのでありんす」
女賢しくて牛売り損なう、とはゆかなかったようである。
期待は無残に散り落ちて、惣吉はがっくりと頭を垂れた。遊郭『灸なり』筆頭呼出し、花魁・絹月一番のお気に入りである振新・桃太郎へと、その気位はしっかり受け継がれていたのであった。
「そ、そうなのかい……じゃ、じゃあ、その突出しっていうのはいつなんだい? というか「突出し」ってのはなにをする日なんだい?」
「「突出し」は……振袖新造が初めてお客さんと、「床入り」をすることにありんす……日取りはまだ決まってありんせん」
「ええっ!?」
男性に、自分から「床入り」と口に出すのが恥ずかしく、桃太郎は軽くまぶたを伏せつつ説明した。
「そ、そ、それじゃあ桃太郎ちゃん! その、「床入り」ってやつの相手を、俺に任して貰うわけにはゆかねぇのかい!?」
「え、ええっ!? そ、それは無理にありんす……お、お相手は、旦那様やおいらんが相談して、その……手練だと思われる方が当てられるはず、でありんすから……」
興奮した惣吉が、身を乗り出して桃太郎の手を握り締めて来たため、桃太郎も狼狽して言い聞かせるように説明を続けるも、実際自分ですら経験がないことであり、説得力に欠けたのは仕方がない。
「て、手練……」
それでも『自分より年上で、金もあり、吉原に精通しているばかりか娼妓さんの身体から悦ばせ方までも心得た達人』を想像し、そんな男に愛する桃太郎の初めてが奪われるばかりか、剰さえ気持ち良くさせられてしまうのでは、なんてことを想像――むしろ妄想すると居ても立っても居
られない気分で、惣吉はさらに声を荒げ、
「も、桃太郎ちゃんはどーなんだい!? そ、そんな手練だか手長海老だかしらねぇが、そんな男には、はは、初めてを奪われちまうことになるのが、嫌じゃねぇのかい!?」
こんなふうに桃太郎の手を握ったのも初めてだというのに、そんな初心な感動よりも生々しい現実の方が、頭の中を掻き毟っているようだった。
そしてついに、桃太郎の口から止めとなる一言が――
「も、桃太郎は、おいらんの意向に従うまでにありんすから……」
「はうぅ!」
惣吉は桃太郎の手を握る力も失い、畳の上へと突っ伏した。桃太郎が声を掛ける間もなく、逃げるように火鉢のそばを離れると、頭から蒲団に潜り込んでしまった。
「し、志村屋様!?」
慌てて蒲団へ手を添えた瞬間、飛び出してきた惣吉が桃太郎の細い腰に抱きついた。
「きゃあぁっ!」
まさか、このまま組敷抱かれるかと思った桃太郎は、悲鳴と一緒に
諸手を振り上げる。
けれど改めて惣吉の顔を覗きみれば、見るも哀れな泣き顔に、抱きつかれたそのままで、どうしたものかと困り果ててしまった。
「も、桃太郎ぉ……」
「あ、あい!」
「ふ………………」
泣き声の内側で、惣吉がなにかを呟いた。
「あい?」
首をかしげ、腰のところの惣吉に耳を近づけるようにして訊ねる桃太郎に、惣吉は、今度はちゃんと聞こえる声でいった。
「二人でいるときは、惣吉、と呼んでおくれでないかい……?」
本心を言ってしまえば、このまま桃太郎を蒲団に押し倒してしまいたい気持ちは確かにあった。けれどそんなことをして『灸なり』に登楼できなくなっては元も子もないし、なによりそれは、桃太郎の受け継いだ気位を踏みにじることになるため、彼女を想う気持ちの大きさ故、踏み止まれた。
そこで、酒の力と半分自暴自棄な勢いから、軽くストッパーの外れた心は、日頃から思っていたささやかな願いを口にさせたのだ。
「あ……あい。え……っと、惣吉さん?」
「!? も、桃太郎ぉお……!」
なんと甘美な響きであっただろうか。名前を呼ばれるということが、ここまで嬉しいとは思わなかった。どうにか泣き止んでもらいたかった桃太郎の阿る気忙しさとはうらはらに、惣吉は益々泣いた。
「そ、惣吉さん!?」
「桃太郎ぉお!」
「え……そ、惣吉さん!」
「桃太郎ぉぉぉ」
「はい、惣吉さん!」
「も、桃太郎ぉぉぉぉ!」
「それ、惣吉さん!」
最後は手拍子まで入れ、果たして、桃太郎はやんちゃなお客さんを見事にいなしてみせたのである。
平穏無事に、とは云えなかったかもしれないが、廊下を行き交う他の遊女達や若い衆が、座敷の騒ぎを店主に報告することもなく、桃太郎は絹月名代としての役目を立派に終えたのであった。