三話 -7
桃太郎は叫んでいた。
嘆きの吹雪をききながら、怒鳴りつけていた。壁を作る猿達に向かって。
足下で、黙してその時を待つかのような金糸猴に向かって、怒鳴り続けた。
「開けなさい!! 猿を退かして道を開けなさい!! なにをしているんですか!! 早く、ここを開けなさいっ!!」
壁となる猿達は桃太郎が押しても引いても引っ掻いても、びくともしなかった。
これらの猿をまとめているであろう金糸猴も、動くことなく、桃太郎の目を見ることはなかった。
「お前さん……もしかして、泣いているのかい……?」
桃太郎に毛皮を引っ張られている金糸猴の顔を覗きこむようにして、おこまは問いかけた。
どこか困ったような表情で、瞳を閉じる金糸猴はやはりなにも答えず、桃太郎は改めてその顔を凝視め、毛皮から手を離した。
「…………泣くんならッ!」
桃太郎はがばっと立ち上がり、猿の壁へ向き直ると、『色斬』の柄へと手を添えた。
吐き出した呼吸を短く吸い込み――抜刀一閃。
「ちゃんと助ける努力をしてからにしなんし!!」
*******!!
なんと、たおやかで、一刀振るうのがやっとの桃太郎が斬り払った『色斬』は、壁となっていた猿の一角を真っ二つに両断。その剣圧によって悉くを吹き飛ばしていた。
壁がいくら分身の猿だからといって在り得ない現象に、金糸猴共々おこまも目を剥いた。
壁がなくなり、進入してくる吹雪へ向かって、桃太郎はためらわず、駆け出した。
「やめろ! 今出れば死ぬぞ! それに――彦九郎をもう楽にしてやってくれ!?」
猿団子を飛び出した桃太郎の姿はすでに、闇と雪とに掻き消えていた。
金糸猴の叫びが間に合ったかは判らない。外の吹雪はそれくらい勢いを増していた。
「さて。お武家様ひとりを危ない目に晒すわけにはゆかないし、あたいも行きましょうかね。猿団子、助かったわ。ごちそうさま」
「なぜだ! なぜ、見ず知らずの人間のために、お前達はそこまでする!? そんなに命は大切か!? 地獄のような現し世でも、彦九郎を生かす理由があるというか!? お前達が命を賭する意味はなんだ!?」
「んー。意味ならお武家様が知っているとおもうから、あとで聞いたらいいさ。あたいは、お武家様の命が大切で行くだけだから」
そしてためらわず、おこまも猿団子の隙間から飛び出し、吹雪に姿を消した。
残された金糸猴は、自分で作った猿団子の中から、切り取られた闇と雪のうねりを、茫然と眺めていた。
「彦九郎は死ぬことを選んだのだ。苦痛を味わって、悩み、苦悩して、選んだのが死ぬことなのだ。お前達の道は死ぬことではないのだろう? 彦九郎と同じ場所に行ってどうする。
お前達が死んだら、意味も、訊けないじゃないか……」
金糸猴は、困った顔で首を捻った。嘆きの吹雪の向こう側では、一体何が起こっているのだろう。
――――――――――
勢いよく駆け出したものの、桃太郎の足は降り積もる雪に埋ってしまい、思うように進むことが出来なくなっていた。
腰に力を入れ、雪を割り、足を突き出す。
自分が男装をしていてよかったと思う。
ちいさな歩幅しか刻めない着物であったら、金糸猴のいうとおり早々に諦めていたところだ。
それと、感謝するべきことがもうひとつ。
それは、彦九郎が、視界の遮られた吹雪の中にあって尚、黒々とした影を浮かび上がらせている松の木の下にいたこと。
そして、その場から動けなくなっていることだ。
前後左右も不覚な白魔の世界で、真っ直ぐ彦九郎を目指すことができる。
猿団子の中で回復した体温は、飛び交う雪と氷によって剥ぎ取られていった。
手足の感覚はすでになく、持ち替えた、左手の先に『色斬』があることを時折目で確認しながらの歩みであった。
凄まじい吹雪。
だから桃太郎は進むことが出来た。
それだけ、彦九郎が嘆いているということだ。
吹雪が治まらないということは、彦九郎がまだ生きているということだ。
「お武家様ぁ!」
嘆きの吹雪の中、耳に届いた声を疑う暇もなく、背中が力強く突き押された。
「おこまさぁん!」
「助太刀ぃ!」
「ありがとーっ!」
髪が凍る。
羽織も凍る。
凍った先から吹き散らされ、そして更に凍る。
いまや体温を感じることが出来るのは、さらしに巻かれた胸のうちと、おこまの両手が触れる背中だけ。
吹雪に退嬰し、彦九郎と離された距離は三間か四間か。
それでも吉原のお歯黒溝に比べたら短いものだと、弛まず足を出し続けたその先に、彦九郎はいた。
彦九郎は目を見開いていた。
まさかこの吹雪を、人が越えて来るとは思ってもいなかったのだろう。
右手で額の一本角を握り締め、左手には、錆び付いた小刀が握られ、がたがたと震えるままに、首筋に押し当てられていた。
つまり彦九郎が懐に忍ばせていたこの小刀こそ、桃太郎の『色斬』を半端に止めた正体だったのだ。
「く、来る――っ!?」
その瞬間、吹雪が止まった。
荒れ狂う雪と氷の粒は勢いを無くし、ぱらぱらと当たった。
桃太郎は間髪入れずに右手を伸ばし、感覚のない手で、それでも彦九郎よりもしっかりと、錆びた小刀の刃を掴み取った。
「――ごめんね。わたし、まだ……あなたに死んでほしくない」
「――っ!?」
桃太郎は笑った。
彦九郎は泣いた。
桃太郎が『色斬』を今一度振るうことなく、彦九郎の手の中で、残りの角が砕けて散った。
彦九郎の顔は涙にくしゃり崩れ、ちいさな嗚咽だけをもらし、意識を失った。
「終わった?」
「……あい。終わりました」
倒れる彦九郎を抱き止め、桃太郎は肩越しにおこまを振り返った。
『色斬』を一度雪に突き立て逆手に持ち直し、鞘へと収める。
刀の扱いにもだいぶ手馴れてしまった、と桃太郎は苦笑した。
「お武家様。あれ……」
「?」
おこまが意味深に指し示したものは、いつの間にか、おこまが用意した小田原提燈を手にした金糸猴の姿。
それは、彦九郎がいた松の根元より少し後ろ。
視界を隠す、猿の壁の上に飛び跳ねていた。
「キキィ! 彦九郎は冷気と氷を操るが、風が使えるわけじゃない。細かい氷を冷気で対流させ、渦を作る。温度差で気流は乱れ、それはやがて吹雪となる。
だから吹きつける側の空気の流れを堰き止めてやれば、吹雪は簡単に治まるのだ。頭を使え、犬の陰陽師」
「え? え……っと?」
単純に説明するなら、扇風機を壁際に置くと風が弱まる原理と同じである。桃太郎のように意味が解らない人は、夏が来たらやってみよう。
「おや。それじゃあ結局、あたい等に手を貸してくれたってことかい。いったいどういう風の吹き回しだい?」
「なに、その別嬪さんと同じだ。俺様も彦九郎には死んでもらいたくない。それでも彦九郎が死を選ぶなら、次はどうだかわからんがな――それと、別嬪さん。いい加減、それは放してもいいんじゃないか?」
「え。あっ、あ……あぁあ」
「ちょ、ちょっとお武家様、力入れて握りすぎ!?」
金糸猴の指摘が、桃太郎の手に握られた彦九郎の小刀であると気がつき、手をひらくと、皸もようやく落ち着いてきたばかりの手のひらにくっきりと赤い線が。
そこからぱたぱたと鮮血が滴り落ちた。
おこまが錆びた小刀を受け取り、「これは、もう必要ないかね」と投げ捨てた。
そこへ金糸猴は飛び掛り、器用に前歯で小刀を受け止める。
いつの間にか顔を出してきた月明かりに黄金色の体毛を靡かせ、金糸猴は歯を見せて笑った。
「キッキッキ……お前達や彦九郎には必要ないかもしれないが、こういったものを必要としている連中もいるのだ。
縁があったらまた会おう」
捨て台詞を決め、颯爽と身を翻す金糸猴の姿は、月明かりを背に受けて、遠くまで行ってもしばらくの間見送ることが出来たのだった。
「おこまさん。もしかして……」
「ああ。たぶんね」
桃太郎とおこまは同時に頷いた。
金糸猴はおそらく、一年前、彦九郎の家族が身投げをした海へと向かったのだろう。
運よく助かった彦九郎を除いて、他の家族はいまだに遺体すら見つかっていないという話だ。家族はまだ、小刀の到着を待っているのかもしれない。
そしてそれを届けにゆくのは、彦九郎でなくてもいいはずだ。
「さて、それじゃあ宿へ戻りますかね。実はね、夕餉の残りを握り飯にでもしてとっておいてくれ、って頼んであるんだよ。お腹空いてるだろ、お武家様?」
「本当に!? おこまさん大好き!」
「彦九郎はあたいが背負ってやるから、お武家様は、宿に着くまで、右手をひらかないこと! それと、夕餉の続きも、手当てが済んでからからだからね!
あたいだって怪我してないのに、あんまりぱかぱか怪我ばかりしないようにしなさいよ……っ!」
「あ、あい……すいません」
怪我をして怒られるのは、おいらんに叱られて以来にありんす……
桃太郎はおこまの剣幕に、ぺこりと頭を下げた。
実際旅に出てから、いや、旅に出ることが決まったあの日から生傷が絶えない桃太郎である。
男装での過ごし方や刀の扱いに慣れて来た分、女性としての機微に欠けて来ているのでは、なんて不安に駆られているのも事実であった。
それはそれとして、怪我といえば首の痛みもほとんど気にならなくなってきた今日この頃。「犬神」の助けなしにこうして鬼を退治できたことは幸いであった。
それに鬼が、切っ掛けさえあれば、『色斬』を用ずとも祓えるのだということが分かっただけでも大収穫だ。
人の心は弱いものでも、そこまで弱くもないものなのだ。
積もった雪を二人で掻き分け、旅宿へ戻った頃には身体が軽く汗ばむほどだった。
髪や衣服の凍結も解け、なんだか全身濡れ鼠のようになってしまっていた。
冷えて風邪をひく前に着替えを兼ねて、風呂に行ったのはおこまが先。
まだ時刻が早く、他の客も起きていたことから、桃太郎は今夜の風呂を見送ることにした。
明日の朝一で入ることを店主に伝えておく。
連れ帰った彦九郎は、単純に行き倒れていたとだけ説明をした。
対応に現われた女将も、特に嫌な顔をするでなく、彦九郎の分の宿代を請求したりもせずに、「突然の吹雪で大変でございました」と暖かい座敷を用意してくれた。
それが、吹雪に混じる彦九郎の嘆きを耳にしたから、かどうかは定かではない。
桃太郎は宿の浴衣を借りて、それに着替え、部屋で濡れた陣羽織などを乾かしていた。
夕餉の残りは、おこまが風呂上りに持ってきてくれる手筈となっている。目の前に置き去りにされていなければ、もうしばらく待つことくらいなんてことはないのだ。
江尻を発ち、駿府城下を過ぎ、大井川を渡れば保土ヶ谷誠次郎の屋敷がある遠江の国である。
桃太郎は衣服の乾きを待ちながら、明日からの旅路に想いを馳せた。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」などと箱根馬子唄に唄われた難所、大井川も、急に大雨でも降らない限りは水嵩も安定して、川留となることもないだろう。
順調に進めば、明日には遠江に入れる予定だ。
そこまでゆけばやっと絹月の名代も全うすることが出来る。
『色斬』とも別れることとなり、たとえ鬼と出遭ったとしても、桃太郎には対抗する手段がなくなる。
長かった桃太郎の旅もいよいよ佳境を迎えようとしていた。
一度、江戸に戻るのもいいかもしれせん。
桃太郎は出発の前日、惣吉に代筆を頼み、『灸なり』店主・利兵衛に宛てた手紙を書いてもらっていた。
内容は『姉女郎、絹月の最後の名代に従い、保土ヶ谷誠次郎様のもとへ御挨拶に参ります。用が済み次第、必ず戻ります』というもの。
大火に乗じ、逃げ出した娼妓も数多であろう。桃太郎もその一人と思われているかもしれない。
それでも帰ると決めていた。
同じような振新としては扱ってもらえないかもしれない。それでも、吉原へ戻ると決めた。
絹月が桃太郎に残した技術、心構え、気位を捨ててまで、現し世に逃げる気には、到底なれなかったのである。
「犬神」の即身成仏を見つけるのも忘れたわけではない。
それもまた長旅になりそうなので、とりあえずはおこまに任せ、自分は年季を明けてから合流してもいいかもしれない、とこの時はそう考えていた。