二話 【桃太郎 犬と出会う】
抜剣。
桃太郎は『色斬』を高らかに構え、朗々と朱鷺の声を叫んだ。
「そこな不埒者共! 寄って集りか弱い婦女子を力ずくで襲うとは不届き千万! この桃太郎が成敗してくれる!」
手にした柄帯の、獅子尾の感触はしっとりと馴染み、剣術など舞の一幕としてしか学んだことのない桃太郎にも関わらず、大吼は根拠のない自信に満ち溢れていた。
それは、自分がひとりで旅をしているのではない、という安心感から、という部分もあったのかもしれない。
「たあーっ!」
桃太郎は躍り出た。人目につかない河川敷へ。
駆け出した。四人の暴漢が取り囲む町娘を助けるために。
この町娘、桃太郎の知らない顔ではなかったのだ。
現場に居合わせたのは偶然。
そう。まだ凄惨な結末が訪れていない、運のいい偶然。
こういってはなんだが、町娘が見ず知らずの相手であったなら、桃太郎は分を弁え、通り過ぎていたかもしれない。
けれど今回は間に合った。今度こそは間に合ったのだ。
突然姿を現した若武者にざわつく暴漢達、そして若干垂れ目気味の町娘は、見知った顔に正直戸惑った。
桃太郎の軌跡をなぞるかのように『色斬』の稲妻が走る。
いや、それは河川敷の砂利石に足をとられてふらついているだけだ。
桃太郎はまだ、袴で股を開き走ることには慣れていない。
最初は勇猛果敢と、今ではもう必死に足を出す桃太郎が、とうとう暴漢達へと飛び込んだ。
「だぁあ!」
桃太郎以外の全員が、袴の裾を自分で踏んづけ転倒したのだと気づいていた。
助けに入ったはずが、振り上げられた『色斬』は真っ直ぐ、唖然とした町娘に向かう。
わずかばかり身体を斜にし、町娘は太刀を躱す。
「痛て!」
太刀先が触れたのは、代わりに暴漢の、短刀を握る手の甲。
娘は見る。
胸の前で、刃を首筋に向け、邪魔臭く揺れていた短刀が――なくなった。
刹那、町娘の牙が剥いた。
電光石火の裏拳と肘打ちが、背後に立つ暴漢を打ち据え、男が腰崩れる陰を縫い、回り込んで死角から打ち上げられた手のひらが、棍棒の如く、桃太郎に眼を奪われていた別の暴漢のあごを砕く。
残り二人が気づいた時すでに遅く、町娘はあごを打ち抜いた男の肩から反動をつけ、空中にいた。
「――なっ!?」
勢い殺さず、重力を味方につけた踵が暴漢ひとりの脳天を襲う。
「な!? ……じゃないよ」
最後の暴漢は腰の刀を抜き放ち、着地の瞬間を狙い澄ましていた。
ところが、踵を落とされ倒れた仲間の向こうに、町娘の姿はなかった。
「ガウっ!」
野犬の唸りにも似た気合とともに、暴漢の右わき腹には肘打ちが、痛みに苦悶したところへ、身体が一回転するほどの膝蹴りが真横から薙ぎ払われた、ということに、最後のひとりが気づく時間はなかったのである。
死屍累々。
河川敷に横たわる暴漢共を一瞥してから、着物の乱れを優雅に正し、町娘は、唯一自分が手を出していない倒れた若武者へと小首をかしげ、
「お武家様。とりあえず、お礼だけはいっとこうか?」
と手を差し出した。
――――――――――
江戸を発った桃太郎が東海道へ入って数時間。
いつもと変わらぬお天道様は、凍えそうな光を眩しく照りつけていた。
明るくなり、街道には人馬の姿が見られるようになってきた。
江戸市中の大火事を聞きつけた、早馬や飛脚の姿が多く、代わりに、当たり前の旅装束は少なかったものの、桃太郎がそれに気づくことはなく、街道というものは普段からこんなものなのだろう、と興味深く観じていたりした。
雲ひとつない晴天のもと、桃太郎は白い息を口元の襟巻でほっと誤魔化す。
男装に扮しているとはいえ、桃太郎の整った顔立ちは、太い眉くらいで隠しきれるものではなかった。
後ろ姿だけならまだしも、まじまじと顔を見られては女性であることがすぐにばれてしまう。
そこはそれ、ばれたらばれたで女武士だと言い逃けてしまえばそれまでだが、無用の詮索や気回しはできることなら避けておきたい。
襟巻を巻くことで女性らしい口元から細い首と項、長い髪の毛までカモフラージュでき、我ながら妙案だと自負していた。
この襟巻、桃太郎が『灸なり』炎上の際こっそり拾い上げておいた、御高祖頭巾という女性用の防寒具である。本来は頭からすっぽり顔を覆うよう使用するところを、ただの襟巻として使っている。
これらの扮装が功を奏したかどうかはさておき、桃太郎はとくに人の目を集めることなく、最初の宿場町である品川宿へと到着しようとしていた。
品川は、桃太郎が出発した日本橋から二里ほどの距離である。江戸と同じ武蔵の国内であり、旅の始まりとしてはかなりのスローペースだといえた。
「ここが、品川でありんすな……」
品川という町に、吉原で客を取れる程でもない遊女や、年季明け後も行く場所のない中年増などが格の低い女郎部屋へ身を寄せたり、最悪、大川端で客引きを行う場所だ、という印象しかない桃太郎は、なんともいえない複雑な心境で宿場町を歩き過ぎた。
人々は普通の生活を送っている。男衆は仕事や農作業に汗を流し、女衆は子供の面倒、買い物、家仕事に励んでいる。
それが、かえって不気味であった。
吉原で、男は下働きか客でしかなく、女はほとんどが遊女であった。
これが世間と吉原(ナカ)の違い、そう割り切ってしまえばそれまでなのだけど、桃太郎が懐いてきたイメージで、品川も立派な遊女街なのである。
それが、遊郭とは斯くあるべき、姿に守られていない。
「これが、岡場所の遊女が生きる世界……」
岡場所とは、吉原の外の女郎部屋や、湯女と呼ばれた大衆風呂屋で客をとる遊女を指す。
この時代、幕府が認めた遊郭は吉原のみであり、市中での風俗営業は原則的に禁じられていた。
不思議なものだと、自嘲してしまう。
どこであろうと最終的に「すること」は同じなのに、吉原の外へ連れ出されただけで、絹月から教えられた色々なことが薄らいでしまいそうになる。
今の桃太郎から吉原の御女郎であることを見抜ける者はいないであろうが、法的に認められていない女郎部屋には、怪動という取締りが頻繁に行われるのも事実であり、なんとも居心地が悪かったのだ。
急ぐ旅ではないながら、初めての俗世界に少し浮ついていた気持ちがあったようだ。
桃太郎はそこから逃げるように、距離を稼ぐ方へとシフトする。
この日は川崎を過ぎたところで初めての旅宿をとることにした。
神奈川宿という港町の外れに当たり、江戸からは五里半といったところだ。
脚栗毛一日目としては上々であろう。
旅に出てまず気がついたこと。
宿場町を離れてしまうと刻を打つ鐘の音が聞こえず、時刻が分からなかった。
吉原の頃は鐘の音が生活から仕事のリズムまでを知らせてくれていたので、時刻が分からないというだけで不安に感じるとは予想もしなかった。
いつまで経っても冷たいままの太陽は正午を告げてくれないので、桃太郎は国境いの戸塚宿を過ぎると相模の国に入り、目についた適当な茶屋で腰を降ろした。
「いらっしゃいませ。これはお若いお武家様、今日は冷えますね。なにか召し上がれますか」
「あ――ああ。え……っと。団子を一皿。それと、道中で腹が減ったときに食べたいので、もう一皿包んでもらえますか」
ゆくりなく、浮かんでしまいそうになる人懐っこい笑顔を押し込めながら、桃太郎は対応に現われた茶屋の女中へそう注文を告げた。
ここで言った道中とは、廓詞でいうところの「道中」ではないと察しいただきたい。
女中はとくに桃太郎を訝しむこともなく、こんな日にはありがたい、熱い湯気の立つお茶を置いて店内へと戻った。
「これがまさに、茶屋はあっても茶は出さず、でありんす――あつっ」
桃太郎は込み上げてくる笑いをひとり堪え、運ばれてきた熱いお茶を啜る。
茶屋はあっても――というのは、世間と同じ言葉なのに、吉原では違った意味で使われる「吉原七不思議」と知られた言葉遊びの一つである。
吉原でいうところの「茶屋」とは「引き手茶屋」を意味し、花魁を揚げて宴会を楽しむ場であって、こんなふうにお茶が出てくることはない。
それで、どこが可笑しいのかと問われれば、吉原から出てきた桃太郎だからこそ笑えたのだ、ということができるのか。
さて。桃太郎が運ばれてきた団子をひと串食べ終えたくらいに、頼んでおいた土産が出来上がったようだ。
笹の葉で包まれたそれを受け取った桃太郎は先に代金を支払い、お茶の御代わりを催促しつつ、次の串に手を伸ばした。
そして二串目もあとわずか。人差し指と親指で抓んだ串の付根に残る、最後ひと粒を口元へ近づけた桃太郎と、ふらり茶屋にやってきたばかり、町娘ふうの女性との目が合った。
「「………………」」
桃太郎は、その町娘が街道を上方から歩いてきたことに気がついていた。
一度、確実に茶屋の前を横切ったことにも気がついていた。
この町娘が桃太郎に気がついた、というか目をつけたのは、おそらくこのときだろう。
引き返して来た町娘。桃太郎との視線が交差したのはここだった。
「「………………………」」
結局、桃太郎は口の前の団子に齧り付けないまま、町娘が自分のすぐ隣へ腰掛けたことだけは確認した。
桃太郎の目は、顔を動かさずに真横がはっきり見れるほど視野を広げることができない。
お陰で町娘との視線は離れたものの、視界外から注がれる痛いほどの眼差しに、桃太郎の本能が警告を叫んでいる。
果たして。桃太郎は意を決し、最後の団子へと齧り付いた。
「――――あ!」
もぐもぐと必要以上に租借を繰り返すも、なかなか飲み込むまでには至らない。
あ! ってなんでありんすか……だいたいわたしの団子、わたしがいつ食べても構わないではあらせんか。
と、いいたげな目線をじとり隣へ流せば、町娘は予想に反したうっとりと輝くような瞳で、桃太郎の横顔を見詰めている。
「お武家様、あんた……お上品に食べるねぇ。さぞ育ちがいいんだね……」
「…………」
桃太郎は無言で、さっきから口元を隠していた左手を下ろした。
租借はまだ治まらない。
どうにも、食べる姿を人に見られているというものは落ち着かない。
桃太郎はお茶を手に取り中身を流し込んだ。
この町娘、よく見ると少し変わっていた。
先ほどからの態度は言わずもがなだが、持ち歩く風呂敷包みは旅支度さながら。髪は島田でも結綿でもなく、左右二つに振り分けて結び、桃太郎はまるで、耳の垂れた犬のようだと思った。
衣服も、唐草模様をあしらった舶来モノのようで、小袖は腰までの長さしかなく、下にはもんぺにも似た、足首あたりで括れた袴を穿いている。
上から羽織った防寒用の被布が、なぜかあまり似合っていなかった。
「なぁなぁお武家様。あんた、あたいを買わないかい?」
ぶふうっと堪らず、桃太郎はわずかに団子混じりのお茶を吹き出した。
それがちょうど、目の前を通りかかった挟み箱を担ぐ飛脚の足下で飛び跳ねたものだから、
「おっと! 危ねえ、こんちくしょーめ!?」
「す、すいません! すいません!」
自分が武士姿をしていることも忘れ、桃太郎は立ち上がり何度も頭を下げた。
変わった武士だとは思われたはずだ。
それでも帯刀を許されている武士による、切捨て御免が珍しくもなかったこの時代、平民が噛み付いて特はなし。
飛脚は我関せず焉とばかりに走り去った。
「変わったお武家様だねぇ」
「――誰の所為だと思ってるんですか……」
そのままの感想を悪びれもなく口にする町娘に眉を吊り上げ、桃太郎はもう一口、今度は油断しないようお茶を口まで運ぶ。
「ねぇねぇ、それで今の話、どうなんだい? あたいを買っておくれよぉ……」
桃太郎の反応など気にもせず、不埒な提案を自分の都合で繰り返す町娘。
桃太郎は口元で傾けた湯飲みの内側で、ぶくぶくと文句を言った。
昨日まで、天下の吉原遊郭で遊女をしていた桃太郎に身売りをしようなんて、一体何の冗談であろうか。
相手が桃太郎の正体を知らないこととはいえ、こんな状況――泣くに泣けない。
「あ、あのですね……いいですか? かの吉原では、一度目は「初回」、二度目で「裏を返す」といい、三度目でようやく一端の「馴染」だと認められるんです。それに、こんな昼間から、若い身空でそんな厭わしい姿を晒すもんじゃありんせん!」
自分で言ってて益々情けなくなってきた。
なにが悲しくて、遊女の自分が見ず知らずの売り女に説教をせねばならないというのだ。
しかも若い身空でって、目の前の町娘はあきらかに桃太郎よりも年上だ。
――やばい。わたし何様のつもりだろ……
「お武家様――?」
桃太郎は言葉の勢い尽きる前に席を立つ。太刀を腰に差し、襟巻を口元まで持ち上げると茶屋をあとにした。
お土産も忘れない。口を衝いていた廓詞に桃太郎自身は気がついていない。
この町娘がすぐさまおかしい、とはならないだろうけど、これ以上関わりたくはない、と心底そう思った。
「あっ。お武家様!」
桃太郎は街道を先に急いだ。
つまり江戸から上方へと向かう。上方から歩いてきたこの町娘とは進行方向が逆になるので、そんなにまで追ってはこないだろうと考えた。
「ねぇねぇちょっと! 待ちなって!」
返事を返さなければすぐに諦めるだろう。
「でもお武家様。まだ若く見えるのに、吉原通いたぁ意外と好きモンだねぇ」
無視。無視。お門違いな親切ではあったけど、人の忠告をそんなふうにしか受け取れないような人と交わす言葉は持っていない。
「そりゃあ、吉原通のお武家様にはこんな端女相手にしてられないかもしれないけどさ、あたいだっていい仕事すると思うよ、えへへ。自分でいうのもなんだけど」
む――無視。無視。今の表情は、少しだけかわいいと思ってしまったのは内緒で無視。
「あ、もしかしてあたいが、誰これ構わず声をかけてるとかおもってんのかい?」
無視。無視。
「やめとくれよお。これでも相手はきっちり選んでんだからさ。その点お武家様は、昨今じゃあお目にかかれない凛々しいお顔立ち、御召し物も立派で、さぞや名のあるお家柄の出だとみた!」
無視。無視。
「――って。ちょっと聞いてんのかい? お武家様! お武家……っ」
無視。無視。無――犬?
「あああ、そうかい分かったよ! これだけいってんのにだんまりかい! 下賎な女とは口も利けないってのかい!? どうせあんたも、その辺の落魄れた侍のぼんぼんなんだろ!? 御高くとまりやがって!」
「……犬?」
犬がいた。
真っ白い犬だ。大きな耳が垂れているあたり、この町娘と似た雰囲気がある。
「ああなにさ! あたいなんて所詮は犬だって言いたいのかい!?」
犬は、いつの間にか娘と一緒になって、桃太郎のあとをついてきていた。
もちろん犬が桃太郎を追って来たわけではなく、町娘が桃太郎を追うからそのあとを、といった感じだ。
最初からいたのだろうか。それはそうだろう。知らない犬がいきなり現われ、娘を追いかけるはずはないのだし。
きっと、茶屋で会ったときから相手にしていなかったから、気がつかなかっただけだ。
「え……っと、いやそうじゃなくて……」
「ええ?」
桃太郎が普通の武家ではないと判断し、嘗めているのか、それとも元来こういう気質なのか、それこそ切捨て御免も已む無い剣呑な態度を崩さなかった娘の顔色が、次の言葉でさっと見る間に青褪める。
「その犬、あなたのワンちゃん?」
白くふさふさと毛足は長い。
耳が垂れているので純血ではなさそうだけど、資本は秋田犬だろう。
やさしい顔立ちで手足も太く、まだ子供のようだが大型犬になる予感をさせる。
桃太郎は別に、犬が珍しくて声を掛ける気になったわけではなかった。
いくら生活に貧窮した低俗な遊女であったとしても、こんな昼間から、犬を連れて客をとるだろうかと勘繰ったからだ。
もしかしたらなにか困った事情があったのかな。
とりあえず話を聞いてもらいたいが故に、突拍子も無くこんな声をかけてしまったのかもしれない。
二人が立ち止まったものだから犬も止まり、娘の足下で舌を出している。
「い、いいい犬? 犬なんて、ど、どこにいるってのさ!?」
蒼い顔をした町娘は、今にも消え入りそうな虚勢を振り絞った様子でそんなことを言う。
自分の周りをきょろきょろと、挙動不審な娘を前に、どこにもなにも、と桃太郎は首をかしげた。
「――ほら、あなたの足下に……」
「ひ!」
桃太郎の指の先を辿り、娘はか細い悲鳴を上げた。
「?」
「あ、あのさ、御免! 急用を思い出した! こ、この話はまた今度、ということで……!」
桃太郎が娘の急変に疑問符を浮かべる暇こそあれ、怪しく退嬰してゆく町娘は、精一杯ギリギリの笑顔でそう言い残し、だっとこの場を逃げ出した。
そのまま街道をゆくのかとおもったが、娘は茶屋を過ぎると脇道に入り、姿はすぐに見えなくなった。
もちろん、あの白い犬も、娘のあとを追いかけていってしまった。
娘は「また今度」とか言っていたものの、桃太郎の旅はまだまだ先が長い。
この広い空のもと、二度と顔を見ることはないだろうと、正直このときはほっとした面持ちで背中を見守ったものだった。