四話 【桃太郎 キジと出会う】
江尻の漁村を発ち、宿場を二つも越えれば見えてくるのが駿府城と、その城下町である。
駿府とは駿河の国の国府であり、国府とは、現代でいうところの県庁に当たる。
駿府城は江戸の幕府を開いた「徳川家康」が天正十三(1585)年に移住後、大々的に改修を行い、三重堀輪郭式平城として改築された。
くしくも江戸吉原建設が決まる前年の元和二(1616)年まで、家康が晩年を過ごした城として有名である。
それからは家康の第十子に当たる「徳川頼宣」が当時の和歌山城主に移封。一時期「徳川忠長」が城主を務めたのち、幕府直轄の天領として、城主を定めず城代を代わる代わる当たらせ、今は「徳川」家に代々仕えた「松平」氏が去年より入城していたはずだ。
「それじゃあちょっと行って来るから、お武家様はあんまりきょろきょろしないで待っておいでよ」
桃太郎は外堀を渡る桟橋のこちら側から、昂然と屹立する真白く輝く駿府城の壁を見上げていた。
おこまは軽い足取りで堀を渡り、先にある高麗門で番役と言葉を交わしたかと思っていたら、そのまま番役に連れられていってしまったきりであった。
一般女性の登城は認められていなかったながら、運悪く家老か老中辺りの家臣に話が行ってしまい、説明でも求められているのかもしれない。
江尻漁村の庄屋から預かった書状を渡すだけだと言っていたのに話が違う。
桃太郎は遅疑逡巡としたい気持ちを押し殺し、迷子の子供が母親を待つような顔でおこまの帰りを待っていた。
普通に街道を歩いたり、宿場町を利用するくらいならまだいい。
しかし城下ではそうもゆかない。
城には役人や、本物の侍がうようよいるのだ。もしも声をかけられたら、もしも偽物だとばれたらと、気が気ではなかったのである。
「おこまさん。早く、帰って来てくれなんし……」
それもこれも江尻で、彦九郎のことを庄屋に託けたことに起因する。
庄屋への話は恙無く済んだ。目覚めた彦九郎の判断にも由るが、もともと彦九郎自身は村八分でもなかったのだ、村として、悪い対応は決してしないと約束してくれた。
ただ、そこで頼まれたのが『跼蹐となっていた少年の協和を認める書状』であった。
つまり、村内では解いた村八分だが、彦九郎が了承をしていなかったので世間的な申告がまだ済んでいなかったというのだ。
駿河は将軍のお膝元として栄華を誇る。ちいさな漁村であっても領内の時事は報告の義務があるということだった。
桃太郎とおこまはそれを届ける依頼を受けた。
彦九郎を助けるに至った縁もあるし、駿府城下は通り道である。町奉行所で提出すれば済むとおもっていたからだ。
そして向かった町奉行所で、
「府中での時事なら請け負うが、他の町村の書状は直接駿府城へ届けるがよかろう」
「は?」
などと突き返されてしまったのだ。
仕方なく云われるがまま駿府城へ赴き、身なり侍の桃太郎はなんのタイミングで名前を聞かれるかもしれないので、ここで待つこと今に至。
桃太郎の不安を他所に、城の前は武士どころか町人ひとり、野良猫一匹通ることはなかった。
高麗門前の番役も居なくなってしまい、かなりの範囲に桃太郎一人が残されているのではないかとすら思えてしまった頃、澄んだ堀に鯉がぴちょん、と跳ねた。
「おこまさん……まさか、なにかやっていて、手配掛けられていた、とかはなきにありんしょうか……?」
「なんだ、あの犬の陰陽師はお尋ね者だったのか?」
「あれ…………松金さんだ」
降ってきた、聞き覚えの新しい声に顔を上げる。
ぐるりと見渡した松の上に金糸猴の姿を見つけ、桃太郎は声をかけた。
金糸猴は辺りを警戒するように松から飛び降りると、桃太郎の下へと歩み、二本立ちで顔を近づけてきた。
「待て。誰だ?」
「え……っと、桃太郎でありんす」
「違う。いま、俺様をなんと呼んだ?」
桃太郎は自分の頬を指差したポーズで小首をかしげた。そしてすぐに合点がゆく。
「ああ。松金さん?」
「そう。それだ。俺様の呼名のつもりか?」
「そう。松の木にいた金糸猴だから松金さん。どうでありんしょ?」
「別嬪さん。昨晩はそんなこと考えていたのか……?」
命名・松金さん、には肯定も否定もせず、金糸猴は四足歩行で桃太郎の前を横切ってゆく。
「ああ、もう行ってしまいんすか? 少し話し相手になってくれなんしぃ。心細いのでありんすよぉ」
桃太郎の艶かしい呼び声を背中に受けながら、松金さんは近くの屋敷の塀から屋根へと身を跳ねさせた。
「そうしてやりたいのはやまやまなんだがな、真昼間から公家大路で猿が口を利くわけにもゆくまい。それに、どうにも来客のようだ。邪魔者は、お暇するとしよう」
「え……?」
桃太郎が訊ねる間もなく、松金さんの姿は炭灰色の屋根瓦で見えなくなる。
「こんなところで屋根など見上げ、なにをしておいでかな?」
すぐ横手から、声が掛けられた。
今度の声は桃太郎にも聞き覚えのないもの。視線を下げたそこに、松金さんのいう、来客者はいた。
「若いと思ったが、みれば立派な武家者ではないか。遠慮することはない。城代にお目通り願えばよかろう」
紋付袴の武士だった。きちんとした大銀杏がよく似合っている身なりは、昨今、落剥著しいその辺の三一侍ではなさそうだ。
「……いえ、わたしはここで人を待っているだけですので」
桃太郎は相手の武士から数歩、後退った。
一歩。二歩。三歩。四歩目を、武士も同時に踏み出してくる。
「では、待ち惚けも飽きてきた頃とお見受けいたす。一手、拙者のお相手など、お願いできまするか?」
「あ、え……っと。いえ――」
囲碁や将棋でなら、なんて言いかけ、桃太郎は後退を続けながら首を横にふった。
相手の武士の雰囲気から、申し込まれているのがそういう一手ではないと判断できたからだ。
「わたしは、え……っと、そっちの方はからきしでして――」
「なに。ご謙遜。腰の黒鞘は伊達ではありますまい」
相手の武士は言いつつ腰の太刀を抜剣。
松金さんの言葉ではないが、将軍のお膝元、更には駿府城を目前に控えた公道では、切捨て御免も御咎なしとはゆかないはずだ。
けれど桃太郎には、そんな常識や威光が通じる相手ではないことも判断できていた。
「あ、あの! 焔とか電気とか使ってもらえませんか!? ふ、吹雪でもいいんですけど!?」
「参る!」
鈍色の肌、額から二本角を生やした武士姿の鬼は、気合と共に大上段から太刀を一閃。
*****!
桃太郎がそれを躱せたのは、これまでの戦闘が経験につながっていたから、そして、袴での移動に慣れていたから、予め対処を考えスタンスを大きく取っていたから、高速で向かい来る物体に対する眼が養われていたから、理由はなんとでもつけられるだろう。
しかし、躱されたと理解した寸の間、即座に切り返された二斬目。
桃太郎がわずかに引き抜いた『色斬』に鬼の太刀筋が阻まれたことは、完全に運がよかっただけだ。
「あぐっ!?」
防いだはいいが裂帛の剣撃を受け止めるだけの体力は桃太郎にはない。
そのまま弾き飛ばされ、さっき松金さんが昇って行った屋敷の壁に叩きつけられた。
「立つがよかろう。武士の情けだ。構えるまで待て進ぜる」
桃太郎はわけも分からず『色斬』を抜いた。
頭が揺れる。視界が滲む。
どうやら壁に右肩から側頭部を強打してしまったようだ。痛みに右目が開かない。
ど……どうしなんしょう!
ぼんやりと開いた左目で、見える範囲を窺う。
おこまが間に合う気配はない。まともに斬り込んだとして、純粋な剣術勝負で桃太郎に勝機はない――なれど、桃太郎が負けることはない。
ワンちゃん……
桃太郎には「犬神」の庇護がある。
鬼の剣が桃太郎に触れるなら、寸前で「犬神」が死を退けてくれるだろう。
でも……
たとえば命には直接影響しない攻撃だった場合は?
今の、桃太郎の脇腹を狙った斬撃も、頭部をぶつけた壁からも、「犬神」は護ってくれなかった。
むしろ一撃目だって、死んでいておかしくない攻撃だったはずだ。
ということは、下手をすれば腕や足を切り落とされることになろうと、「犬神」は助けてくれないかもしれない。
それに、年明きまで吉原で過ごすには、ワンちゃんの手助けをこれ以上借りるわけにはゆき申さん……
立ち上がれば鬼が攻撃してくる。あと、助けが期待できそうなものは、と廻る頭の中で、桃太郎はある真新しい名前を見つけた。
立ち上がるまでに一度くらいは叫んでみてもいいかもしれない。
「ま、松金さぁんっ!」
それを待っていたかのように、まさにどさりと降って来る猿の群れ。
「う、うぉおおおっ!?」
なにが起きたのか、数匹の猿に纏わりつかれた、鬼は取り乱し、太刀を滅茶苦茶に振り回した。
けれど猿達は太刀筋を器用に躱し、鬼の顔や腕を引っ掻き、噛み付いている。
その様を傍観してしまった桃太郎ははっと気を取り直し、『色斬』を握る両腕に力を入れる。
まだ開いている左目を凝らす。
「――――はっ!」
桃太郎は膝を立て、低い体勢から『色斬』を真っ直ぐ突き出した。
腹部に刀身を突き立てられた鬼は瞠目し、動きが制止する。
機を見て、さっと姿が掻き消える猿達。
「たあぁっ!」
その位置から、強引に『色斬』を上方向へ振り抜く桃太郎。
とはいえさほどの手応えがあることはなく、肉を切り裂く力が必要だったわけではない。太刀の重量は桃太郎にはやはり重かったのだ。
武士の体から色がぼろぼろと崩れて落ち、額の角もぼとっぼと、と落下した。
同時に武士の手にした太刀が砕けたのを見て、桃太郎はこの鬼の力が、石細工であったのだと知る。
武士が仰向けに倒れると、屋根から黄金色の陰が降りてきた。
「松金さん!」
「おい。もう逃げた方がいいかもな。走れるか?」
「え……なんで」
どこか、さっきと同じ遣り取りの繰り返し。桃太郎が松金さんにお礼を述べるより先、嫌な予感に視界を移動させると、疑問符を浮かべるまでもなく、ある存在で眼が止まる。
「――あ」
***************!
駿府城を傍らにして、耳を劈く悲鳴が上がった。
辛うじて聞き取れた単語をつなぎ合わせると「きやあひとごろしい」となる。
いつの間にか、通りがかった事情も知らない町娘が、偶然『武士同士の死闘による単純明快真昼間の惨劇』を目撃してしまったようだ。しかも、ご丁寧に役人を呼びつけるに充分な声量で絶叫を上げてくれている。
桃太郎はさっと顔を青褪めさせて駆け出した。
兎に角逃げるしかない。
色鬼を斬り祓った武士は死んでいない。だからといって、剣呑に詰め寄せてくるであろう役人、険番の集団に、この状況を説明する方法は思いつかなかった。
な、なんしてわたしがこんな目に!?
「キッキッキ。災難だな」
倒れた武士の上でなにやらしていた松金さんが壁を伝って桃太郎へ追いつき、他人事のように嬉々と笑った。
「兎に角逃げるしかないな。町を抜けるなら案内するぞ。ついて来な」
「うぇえん! おこまさぁんっ!」
おこまの過去に、あらぬ疑いをかけた罰が当たったのだとおもった。
冗談でも言っていいことと悪いことがあることを思い知った桃太郎はこののち、見事に下手人としての手配を受け、出回る自分の人相書きを目にし愕然とするのだが、この時は松金さんの誘導のお陰で無事、駿府城下から府中宿へと、追っ手が掛かる前に素早く移動することが出来たのであった。
――――――――――
罪悪感。人目につきやすい街道を避け、それでも道に迷わないよう併走する農道を逃走。
小道を逸れた先に寂しい竹林を見つけた桃太郎は、冷たい竹の根に腰を降ろし、膝を抱えて蹲っていた。
肩はまだ痛むし、右目は半分開けるのがやっとだ。おこまに知れたらきっとまた怒られる。
一日が過ぎるのは早いもので、薄暗い竹林では、もうすぐ夕暮れ時を迎えようとしていた。
「ただ、行って帰るだけの道中が、なんしてうまくゆかないのでありんしょう……」
それでもなんとか昨日までは順調と言えたはずだった。それが今日、よもや役人から追われる立場になるとは思わなんだ。
桃太郎が共に座する罪悪感とは、任された名代を全うできずにいるもどかしさに他ならない。
「おこまさん……」
きっと駿府城は騒然となっている。用が済んで出て来たおこまは桃太郎の姿がないことに気がつき、すぐに騒ぎと桃太郎を結びつけるだろう。
いつものように情報を聞き込み、騒ぎに桃太郎ががっつり関わっていることを確信したおこまはきっと――
「きっと、笑われるでありんす……」
「なんだ。まだ塞ぎ込んでいるのか。お前の連れなら心配ない。あいつは犬だ。すぐに居場所を突き止めるだろうさ」
「松金さん……」
呆れたように笑い半分、世間知らずを指摘するおこまがリアルに想像でき、桃太郎はその姿をぶんぶんとふり払い顔を上げた。
枯れ笹を踏みしめ、林立する竹の隙間からやってきた松金さんは、右脇に桃色の布を抱えていた。
それは、桃太郎がこの状況を打開すべく用意してもらったものだ。
「うん。それは心配に及びません。おこまさんとは必ずまた会えます」
「…………そら。持ってきてやったぞ。こんなものでいいのか?」
どこか困った表情に見える松金さんが差し出した布を受け取り、桃太郎は腰を上げ、それをひろげてみた。
「ありがと。あらぁ! 松金さん、けっこういいセンスしてありんすなぁ」
それは女物の小袖と帯。桃太郎の注文どおり、柄はなく、地味でもなく派手でもない。
紅梅染が上品で、裏地の蘇芳も安っぽくはない。
椿の帯との相性もぴったりである。
桃太郎は早速陣羽織を脱ぎ、竹の枝を衣桁代わりに引っ掛けた。
腰帯をほどこうとして、じっと視線を送ってくる松金さんを見遣った。
「これから着替えを致します。少しあっちを向いていてくれなんし」
「それは失敬」
松金さんが黄金色の背中を向けたのを確認し、桃太郎は袴、男装用の小袖を脱いだ。
さらしも解き、窮屈な胸を自由にしてやると、ほっと息が洩れた。
ちなみにこの小袖、松金さんがどこかから頂戴してきたものだが、桃太郎は代わりに小判を一枚置いてくるようお願いしておいた。
一両あれば、同じ小袖を数十着は購入することが出来る。
泥棒であることには変わりないとしても、罪悪感の上塗りは最小限で済むというものだ。
「そういえば、松金さん。松金さんはなぜにわたしを助けてくれたのでありんすか? 機会があればまた、なんて言うてから、まだ一日も経ってないではありせんか。やっぱり彦九郎との縁ゆえにありんすか?」
「それはそういうことでもない。俺様はお前と話がしたかったのだ」
「お話……にありんすか?」
桃太郎は黛を拭き取り、髷をほどいて髪を下ろした。
引っ張られていた頭皮の根元を軽く揉みほぐし、気持ち良さげに目を細めた。
そうしておいてから桃の小袖へ腕を通す。
松金さんの話とは、こんな内容であった。
「俺様は大陸から貿易船に乗せられ、この国へやってきた。順調な航路では、摂津という港へ着く予定だった。
ところが鳴門海峡を目前にして、船に異変が起きた。俺様は荷の中に押し込められていたからはっきりとは分からないが、叫んでいた人間の声を聞く限り、どうやら俺様の乗せられていた船は鬼に襲われたらしい。
その鬼の名は、保土ヶ谷誠次郎というようだ」
「……………………」
ほら。聞こえた?
「っ!?」
幻聴だ。
――本当に幻聴だろうか。
桃太郎は結び途中の帯をとり落としていた。
両手で耳を塞ぐためだ。
重たいまぶたを無理矢理ひらいて竹林を見渡すが、そこには誰の姿も見つからない。
ざわざわとただ風が鳴るばかり。
「海に投げ出され、運よくあの漁村に流れ着いた俺様は長い船旅と飢えに餓死寸前であった。そんな俺様を匿い、自分のわずかな食料を分けてくれたのが彦九郎だった」
桃太郎の動転に気がつかないのか、松金さんは変わらぬテンポで話し続けていた。
焦点は不安定。視線だけをそちらに向ける。
「俺様は命を取り留め、彦九郎のために最初は自ら分身を披露し、食料を運んでやっていた。恩があったからだ。
ところがある日帰ると、彦九郎は鬼になっていた。前触れはない。切っ掛けは解らない。朝はそれでも笑えた彦九郎はもう変わり果てていた」
「……………………」
「鬼とはなんだ? 鬼とはどこから来るものなのだ? お前は――」
お前は、それを知っているんじゃないのか?
――桃太郎。
混ざり気のない澄み切った瞳で凝視めてくる松金さんにくらべ、桃太郎の目の、なんと醜く薄汚れていることか。
「視る」ことが申しわけなくて、桃太郎は視線を逸らした。