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             二話 -


 戸塚宿付近での出会いからほぼ一日。


 桃太郎は、東海道中最大の難所である箱根宿を目前に控えた小田原の河川敷にて、昨日茶屋で声をかけてきた町娘ふうの女性から、顔面を砂利石と密着させている様を眺められることとなった。



 娘の傍をついて離れない白い犬までが、桃太郎を憐れむかのようにくうーん、と鼻で鳴く。



 今に至る経緯は単純だ。


 桃太郎が街道を歩いているとき、
人気のない林へと駆けて行く男達の姿を見つけた。


 何事かと身を隠し、あとをつければ、すでに神様も
遷座を終えた古寺で、只ならぬ雰囲気の男達数人に取り囲まれた、見覚えのある犬耳ふうの髪型を見つけた、というわけである。


 男達が町娘を連れて寺向こうの川原へと移動しはじめたので、桃太郎はこれはいけないと、思わず『色斬』を手に躍り出てしまった。




 「い、いらない手出しでしたね」




 桃太郎は娘の手を借りて立ち上がった。


 とはいえ、河川敷にすっ転び、ここまでただ倒れていたわけではなない。


 自分の転倒を理解した桃太郎は、すぐさま起き上がろうと顔を上げた。その時にはもう、娘は三人目の暴漢に踵を落とす直前であったのだ。


 見事な格闘術に安堵する反面、無用に上げた気勢が恥ずかしく、ふたたび顔を伏せていた。


 こうして立ち上がった今も、そんな
不味さは拭いきれない。




 「そういうもんでもないよ。お武家様がこいつのドスを落としてくれなきゃ、仕掛けるきっかけは掴めなかったんだ」




 「そうですか……? まぁ、なんにしても無事でよかったです」




 「お互いにね」




 「………………」




 にこにこと、さりげなく癇に触ろうとしてくる娘をじとり見遣り、それでも確かにいうとおりでもあり、桃太郎は口元をゆるめて『色斬』を鞘へ収めた。




 「それで、あなたはどうしてこんなことに巻き込まれていたんですか?」




 「あたいは、おこま」




 「?」




 「いや、だから名前よ。お侍さんに、あなた、なんて呼ばれてたらくすぐたっくって」




 町娘は自分を「おこま」と名乗り、桃太郎へ、改めて右手を差し出した。




 「ああ。え……っと。おこま、さん?」




 お駒? お狛? もしかしてお独楽? まさか、お高麗……? なんにしても、なんてぴったりな名前でありんしょう。



 桃太郎は、頭の中にある知る限りの形象で彼女の名前表現を試み、そのどれもがイメージと合ってしまい、驚いた。



 
とは、いうまでもなく犬のことであり、彼女の体術はくるくると独楽の如し。高麗高句麗のことで、異国の衣装を身にまとう姿はまさにである。



 そうか。もしかしたら偽名なのかもしれない。



 この時代、名前などというものの個別管理はある程度以上の階級、もしくは資産商家に限られている。


 士農工商という身分制度があり、中でも
苗字が名乗れたのは士(武士)階級と神官や貴族、民間でも一部の庄屋などに限られていた。


 惣吉のような富裕層であっても、「志村屋」というのは
屋号であり、戸籍管理上の苗字ではない。


 村単位、出身集落単位での名前誤魔化しは、他方に出てしまっては確認しようがないのが現状だ。



 こうみえて、桃太郎はその数少ない、名前を管理されている立場の人間である。


 ただしそれは、士農工商のどこにも属さない「
賤民」というぞんざい極る扱いであり、『灸なり』の妓席名簿が焼失でもしていない限り、桃太郎が遊女である事実は永久に変わらない。




 「わたしは、桃太郎にあり――と、いいます」




 咳払いひとつ。桃太郎はおこまの手を握った。




 「よろしく!」




 「いや、よろしくは、まだしませんけど……」




 「――ああ、まぁ、だから、こいつらは、あたいが間違って声かけちゃった
黄槇ってところの連中で……」




 桃太郎の視線が、倒れた暴漢達から離れようとしないので、それでもおこまは語り難そうに、ぽつぽつと口をひらいた。




 「――と、兎に角場所を変えないかい? こいつらが目を覚ましたらまたやっかいだしさ!」




 が、すぐさま切り上げての提案。


 桃太郎としては今の情報だけで、なんとなくあまり関わりたくない予感がひしひしとしていたながら、
れ合うも他生の。話だけは聞いてもいいか、という気分になっていた。


 なによりここからの移動を求める、おこまの意見にはまったく異存なかったので。




 「え……っと、おこまさん。それじゃあ街道に戻って歩きながら話を――というか、上方から歩いてきたはずのあなたが、どうして、まだこんなところをうろうろしていたんです?」




 桃太郎とおこまは来た道を戻り古寺を抜けるでなく、見晴らしのいい川沿いを歩きだした。


 例の白い犬も、歩き始めると離れず、おこまのあとをついてくる。


 間もなく桃太郎はそう問いかけた。


 ここから八里は離れた戸塚宿付近ですれ違ったおこまが、ただ桃太郎を追って来たというだけならまだしも、先回りし、さらには暴漢に襲われているなど
合点がゆかなかったのだ。


 桃太郎が順調に旅をしていた一日の間に、おこまになにがあったというのか。




 「あ、いや、それがさぁ……あ。ね、ねぇお武家様。このまま川を
ってゆくと、北村ってちいさな集落があるんだけど、そこに寄らせてもらってもいいかな?」




 川は西から流れている。先でどうなっているかは知らないが、山を迂回し流れが反対になっていることはないだろう。


 どちらにせよ、箱根の峠を越えなければならない桃太郎の行く先と、さほどの違いはない。


 ただそうした場合、江戸からはさらに離れてしまうことになる。


 おこまにしてみれば来た道を逆戻りすることになるのは構わないのだろうか?




 「でも、おこまさん、江戸に向かっていたんじゃ? ここからなら、小田原に戻ることになっても、わたしは構いませんけど」




 「ああいいの、いいの。わざと戻ってきてるんだから。だって――」




 おこまはそこで顔色を暗くする。


 時刻はほぼ正午。真上から照らしつける冬の日差しが、額の髪で陰をつくったようだ。


 そして桃太郎にだけ聞こえるように――ここには桃太郎しかいないのに、そっと耳元で囁いた。




 「昨日いってた犬、まだいるんでしょ?」




 「ええ? なんですかそれ。いるもなにもそこに……」




 「ああ分かった! 分かりました! はい、おしまい! ささ、早くゆきましょ、お武家様!」




 なんという身勝手さ!



 押し通るのは自分の都合ばかりで、桃太郎の話にはなにひとつまともに答えていない。


 多くの疑惑を抱えたままで、桃太郎はころころと表情が変わるおこまのあとを追った。


 ただ二つだけ、桃太郎の中では確信していたことがあった。


 それは、おこまが決して悪人ではない、ということ。


 そしてもうひとつは、遊女として、客をとるような人間ではない、ということ。



 いろいろ気がかりばかり残りんすが、そう質問を繰り返すのもしらけなんしょ。今は、おこまさんから話してくれるのを待ちなんしょう。



 桃太郎はまるで、絹月が指南してくれた言葉を反芻するように、心の中で深く頭をさげた。


 実際、絹月が桃太郎にこのようなアドヴァイスをしたことはない。ただこれから、本格的に客をとるようになるはずだった桃太郎へ、絹月だったらこんな言葉を言うだろうということは、不思議と心に浮かんできたのである。



 そんな絹月のアドヴァイスが正しかったのを証明するかのように、おこまは悄然と口をひらいた。




 「…………ごめんよ、お武家様。おかしなことに巻き込んじまって」




 川
の、白い雪が残るを歩きながら、のこと。


 川の流れに沿ってジグザグに山肌へと入り組み、ちょっと見ただけでは人が通るとは思えないような場所だ。


 これなら追手の目を
けるかもしれない。




 「なんでおこまさんが謝るんです。首をつっこんだのはわたしの方じゃないですか」




 「ありがとう。本当に、やさしいお人だね、お武家様は……」




 おこまは屈託のない笑顔で感謝の意を示した。


 桃太郎の罪悪感が、彼女の微笑みに悲鳴を上げる。


 やさしさ? 桃太郎がおこまに付き合っている理由はなんだ。


 正体はいまだ不明ながら、おこまが助けを求めていることには間違いがない。


 では、桃太郎におこまを助けることができるのか?


 いや、出来るはずがない。桃太郎はただの遊女だ。今の姿は身分を偽っているに過ぎないのだ。


 おこまが助けを求めているのは、桃太郎ではなく、若く人の好い武士なのだ。



 桃太郎のそんな迷妄に気づくことなく、おこまはそこから言葉をつづけた。




 「実はね、あたいがここを通ったのは二度目なんだ」




 「二度目?」




 「うん。一度目は今から三日前。
越後から街道を通って来たんだけど、途中ちょっとしたことがあってさ、そのときに寄らせてもらった村がこの先にあるんだ」




 「ちょっとしたこと……っていうのは?」




 なんともお茶を濁しがちなおこまに、桃太郎は若干語尾を強く訪ねた。


 威勢がいいのか引っ込み思案なのか判断つきかねるおこまに、一瞬自分の悩みを失念していた。




 「あ、あのね、お武家様! し、信じなくていいから、全然信じなくていいから、黙って聴いてくれる?」




 慎重すぎる前ふりのあと、桃太郎が頷くのを受けて、おこまは話をはじめた。




 「あたしの姓は「北条」っていって、
ては朝廷に仕えた陰陽師末裔なんだ。
  特に「
」を使役して貴族・豪族を護っていた一族だって、パパがいってたよ。
  それが、あるとき朝廷からの命令で、「
遣唐使」として大陸に渡ることになったんだ。
  そして他の遣唐使達が帰国したあとも大陸に残り、あっち側の呪術を学んでいたんだって」




 なんとも突飛な話である。桃太郎にはよく分からない単語も出てきて正直内容を巧くつかめている自信はない。


 とりあえずおこまの遠い祖先が大陸出身者であることだけ頭に入れ、黙して先を促す。




 「ところがね、ご先祖様は渡航の際、とんでもない忘れ物をしてしまったんだよ。
  それは、使役している「犬神」の御神体。
  「犬神」は強力な識神だけど、扱うためには本体への供養と供物を欠かしてはいけない、という制限があるんだって。それを
ると「犬神」は容赦なく飼い主を祟る。
  でも御神体は日本にあって、自分達が海の向こうにいたんじゃ供養も供物を供えることもできないよね。
  そこで仕方なく、当時の「北条」は「犬神」を封じることにしたんだ。
  でも完全に封じることができる術は存在していなくて、封印した「北条」が死ぬと、封印が解かれ「犬神」は次の代の「北条」を祟るの。
  それで、大陸に残って「犬神」を完全に封じる術の研究をしていたのが今の代の「北条」、つまりあたいのパパだったわけだけど、どーにもあっちで死んじゃったみたい。
  封印の解けた「犬神」が、あたいの前に現われてさ」




 「――え」




 パパというのは珍しい呼称ながら、父親のことを指しているのだろうということは推察できた。


 「犬神」と「北条」の関係も、なんとなくだが理解した。


 ただ、自分の父親が遠い異国で命を落としたらしいことを、あまりにもあっけなく口にするおこまに、桃太郎は思わず声をもらしてしまった。




 「そうなのよ。最初はあたいもびっくりして逃げ回っていたんだけど――」




 桃太郎の声を、「犬神」の被害者となった自分への同情、もしくは事態への驚愕と受け取ったおこまは話をつづける。




 「あたいだって「北条」の末裔だかんね。祟り殺される前にきっちり封印してやったのよ! それがこの先にある北村の、さらに上流にある滝なんだけど――って聞いてます? お武家様」




 さっきから、そう連呼されてはどうしても気になってしまう存在があった。


 それはもちろん、雪道でも
健気におこまをついて回る、白い犬だ。


 おこまの話が真実だとすると、この犬こそがその――桃太郎は頭の中を整理させつつ、慌てて頷いた。




 「え、ええ。え……っと。つまり、わたしが見てるこのワンちゃんが?」




 「そうみたい。きっと、あたいの居場所を見失わないように「犬神」が分身を飛ばしたんでしょうね!
  あたい、血筋は「北条」だけど、お化けとか幽霊って分からないのよ。
  第一怖いし、見たくもないし。
  お武家様に犬のことを聞かれたときは本当にゾッとしなかったんだから。
  でもお武家様のおかげで「犬神」の企みが分かったから、平穏に暮らすためにも、もっとしっかり封印しなおしてやろうとこうして戻ってきたわけよ」




 「そ……なんだ」




 桃太郎は釈然としない気持ちで呟いた。


 ひととおり話し終え、
意気軒昂なおこまには申しわけないが、さっきまでの同情めいた忖度はすっかり失せてしまっていた。


 犬のことといい父親の話といい、桃太郎の中で得心のゆかない部分が多すぎる。




 「お、おこまさん? それじゃあ、話には出てこなかったみたいだけど、あの暴漢達は?」




 まさか、その「北条」の血族に関わる闇の組織か、はたまた「犬神」の力を狙う清国呪術マフィアか、と行き過ぎた展開を予想する桃太郎に、おこまは拍子抜けするほどあっさりと、




 「ああ、黄槇組の連中は、あたいがお武家様の前に声をかけた男が、たまたま黄槇組ってヤクザの若旦那だったみたいでさ、
股間蹴り上げて逃げてやったら、ああやって、しつこくあたいのこと付回してくんのよぉ」




 「な、なんでそんな……っていうか、わたしの前からああやって男を誘っていたんですか? 本当に? なぜ? どうして……?」




 それは仏の悪戯か、それとも神の
巫山戯か。


 もしくは鬼の
霍乱――小首をかしげ、あざとく質問を繰り返してしまう桃太郎は、おこまの答えを聞き終わると同時に、雪の中埋もれた石でき、今度は顔面を雪につっこむこととなるのだった。




 「あたいね――お江戸へ行って、吉原でお女郎になるのが夢なんだ!」




 「だわっ!?」




 足下が砂利石でなかったのは幸いだ。


 それに、雪で表情が隠れたのも良かった。


 今の桃太郎は、きっと、人前には見せられない顔をしていたと思うから。



 「大丈夫?」と手を差し出してくれたおこまの好意には頼らず、今度こそ、桃太郎は自分の力だけで身体を起こした。