二話 -3
おこまに案内された北村は、三股峠の山間にあるちいさな集落だった。
見渡す限りに数えられるくらいの民家が並んでいるだけだが、東海道の脇往還沿線にあたり、道中の拠点らしくちゃんと宿もあった。
東海道などの主要道路は頻繁に大名行列が往来したり、関所も厳しいこともあって、このような脇往還や古道が、平民にとっての重要な通行の助けとなっているのだと、おこまは世間知らずの桃太郎に話をした。
おこまが桃太郎を先回りできたのもそのためだ。
桃太郎は説明を受けながら、世間は知らなくても、常識はあなたよりあると思います、と、内緒で心の中だけ毒づいていた。
「ささ、お武家様、こちらが北村で、ただ一軒のお宿『椙野屋』でございますよ!」
「ちょ、あれ。おこまさん? その滝まではここから随分とあるんですか? わたしとしては今日中には箱根を越えてしまいたかったのですが……」
「そんないけず言わないでおくれよぉ! 今から洒水の滝に行って帰ってくるだけで夕方になっちまうよぉ。あたいには「犬神」がどこにいるか分からないんだからさ、どうか力を貸しておくれよぉ!」
「わ、わかりました! わかりましたからあんまり大声出さないで……」
ころっと笑顔で手を引くおこまに引き摺られるように、桃太郎は抱えっぱなしの釈然としない気持ちのまま『椙野屋』という宿の暖簾をくぐらされていた。
雪に埋もれた山間の静かな農村で、町娘に手を引かれ宿に消えてゆく自分とは、やはり遊女を囲ったぼんぼんに見えるのではないかと、注がれる白い視線が痛かった。
「おや? これはこれは娘様。お早いお帰りで。なにかお忘れでしたか?」
「やあ。また一晩の宿を頼みたい。今度は上客を連れてきてやったわよ、主人!」
宿の入り口での態度はどこへやら。
意気軒昂胸を張るおこまに、彼女の顔を覚えていたらしい『椙野屋』の主人は「それはそれは」といって二人を迎え入れてくれた。
どうやら部屋の空きはあるようだ。主人はすぐさま桃太郎へと低頭する。
「ようこそいらっしゃいました。ささ、お武家様、お荷物をお持ちいたしましょう」
そして見上げるような一瞥を刹那。
「あ、ああ。頼む……」
やめろ、やめろその眼を……
若いのにお盛んで。
こんな娘に掴まるなんて気の毒に。
お武家様も変わった趣味をお持ちで。
真摯のほどは探れなくとも、主人の視線は確実にそのどれかを呟いていた。
もしくはそのどれもが正解だったのか。
「それではお部屋の方をご用意いたしましょう。もちろん――」
「一緒で」
「別々で頼む」
「えええっ!」
おこまに出会ってからはペースを乱されどおしだ。ここいらで、少しばかり毅然とした態度を示しておかなければ。
桃太郎は不平を主張するおこまはさておき、当惑顔の主人にきっぱりといった。
「部屋は二部屋でお願いします」
「あ、はい。畏まりました……」
草鞋を脱いだ桃太郎とおこまはこうして別々の部屋へと案内された。階段を上がったすぐの部屋は隣り合っていたが、部屋を仕切る壁は厚く、別々であることに変わらない。
「お武家様ぁ……」
「いったはずです。わたしはまだ、あなたとよろしくするつもりはないと。部屋で休んだらすぐに出発しますよ。なにか用意に時間が掛かる都合はありますか?」
「ない」
桃太郎の言葉が気に障ったのか、おこまのテンションは急速に落下していた。
とはいえ、桃太郎が先に壁を張ってしまったので、憤慨するでなく、むくれているだけのようだ。
「ああ。出発するときは声をかけましょうか?」
「いい。下で待ってるから」
そういうと、実に寂しそうにおこまは襖を閉めた。
桃太郎はその背中が見えなくなってから、自分の部屋へと入った。
「ふう。吉原では、なかなか見ない娘にありんすな」
廓詞禁欲生活というものは、肩がこるものだ。桃太郎は肩の力を抜く意味も含め、ひとりの時はこうして声を出すようにしている。
「つかれんした――」
桃太郎は乱暴に引っ張り出した敷蒲団の上へ、どさりと倒れこんだ。
桃太郎が部屋を別にとったのは、正体を出来るだけ知られないようにするためなのは云わずもがな、こうして本来の自分に戻る時間を確保するためであった。
完全に女に戻る、とまではゆかないまでも、ずっと侍の真似事をし続けていては、遠江へ着く前に参ってしまう。
通常の宿であればこのあと――
「お武家様、失礼いたします」
「あい」
廊下の方からかけられた声は宿の主人のもの。桃太郎は返事を返したが、うつ伏せで蒲団に寝そべったままだ。
「失礼いたします。おや。お武家様、もうお休みになられますか?」
襖を開けた主人は目を丸くしている様子。すぐに蒲団の用意を、と気を忙しくしたので、桃太郎は丁寧に断った。
「いや、どうにも出かけるようなので、少し横になっているだけです」
「そうでございますか。では炭に火だけ入れさせてもらいますので、お出かけの際は声をおかけくださいませ。ああ、夕餉の頃にはお戻りで?」
「ええ。そのつもりです」
桃太郎は寝そべったまま、主人が、持ってきた火種を火鉢の炭に移しているのを聞いていて、ふと思い立ち、顔を上げた。
「そういえばご主人殿。洒水の滝、というのは如何なところなのでしょう?」
「洒水の滝……やはりまた、あそこへゆかれるのですか?」
主人はさらに、
「失礼ですが、お武家様がお連れの娘様、三日前にもいらしたのですが、滝で、なにをしてらしたのかご存知ありませんか?」
桃太郎がようやく顔を上げたのをいいことに、質問ばかりを続けてくる。なるほど。これは確かに気分のいいものではない。
「主人殿。申しわけないが質問をしているのはわたしです」
「は……っ、これは、失礼を致しました! 洒水の滝というのは、この村から一里ほど行きました山の中にある、滝沢川源流となる大滝でございます。
今の時期では落ちる水も一部凍結しておりまして、水量は少なくなっておりますが、真言宗の僧が滝行にも訪れる、神聖な滝でございます」
「それで、わたしの連れがなにかをしたのではないか、という話とは?」
気疲れから、つっけんどんな言い方をしてしまったけれど、気分を害したわけでも怒ったわけでもない。
桃太郎は主人の質問を反復するように話を促した。
「は、はぁ。洒水の滝は、古くは別名蛇水の滝ともいいまして、聖なる白蛇が住むと伝えられております。それとこれとが関わりのあるかどうかは分かりませんが、あの娘様がいらした日から、山女や鮎が、急に獲れなくなったとかで、村の猟師が騒いでおりましたもので……」
「そうでしたか。ですがわたしはあの者に同行を願われただけの用心棒のようなもの。詳しい話はわかりません」
桃太郎は重そうに身体を起こした。実際、陣羽織も太刀も、女の身には重く、袴は嵩張り歩きにくいし、酷く疲れているのは現実問題としてあった。
その所為で、昨晩の宿では風呂にも入る前に眠ってしまったほどだ。
ここでも、このまま横になっていたら、気づかぬ内に眠ってしまう自信がある。
蒲団の上、膝を抱えてしまいはっとして、慣れない股を開き気味の正座に組みかえた。
「ですが、村の者もお困りの様子。わたしがそれとなく訊ねてみましょう」
桃太郎がそう応えると宿の主人は心底安心したふうに「それは助かります。どうかお願い致します」と頭を下げ、部屋をあとにした。
桃太郎はざっと旅支度だけ部屋の鍵箱へしまうと、早々に宿の玄関へと向かった。
もちろん『色斬』や、絹月から受け取った旅の資金は肌身離さず持ってゆく。
「おや」
宿を出るとおこまはまだ来ておらず、例の白い犬が、主人を待って軒先で身体を丸くしていた。
「おまえ。中に入ってもばれないだろうに、ちゃんと外で待っているだなんて、偉いなぁ」
桃太郎がしゃがんで背中を撫でてやると、犬は嬉しそうに尾っぽを振っていた。
かわいい犬だと思った。もちろん吉原で犬を飼ったりすることはできないが、いつかは動物を飼いたい夢があった。
桃太郎は基本的に動物が好きだ。動物は、仕方がない世界で生きていないから、好きだった。
生きることに一生懸命で、生きることに前向きな動物は、どこか仕方なく生きている人間より輝いて見えて、たまに迷い込んだ野良猫に餌をやったりして、よく内儀さんに叱られたりもしたものだった。
「おまえのご主人は、どーしてそんなに怖いのか、わかりんせんなぁ?」
平たくいうなら、この白い犬は幽霊である。しかもおこまの話に由れば人を祟るらしい。しかしここで腹を晒している犬は賢く、愛嬌があり、到底人に仇なす悪霊のようには見えなかったのだ。
桃太郎が犬に夢中になっていると、おこまが苦虫を噛み潰したような顔で現われた。
「――ねぇ、なにをやってるんだい」
「あ。おこまさん――」
と顔を上げ、そこで改めて気がついた。
白い犬は幽霊であり、おこまはおろか、桃太郎以外には誰の目にも映っていないのだということ。
それは、きっとおこまに連れられ宿に入る姿以上に、奇異な眼で見られていたのではなかろうか。
「う、ううん。なんでもないです」
ひくつく口元を隠そうと襟巻を押し上げ、桃太郎は立ち上がる。
白い犬は桃太郎の手が離れきょとんとしたが、すぐに「さて散歩が始まるぞ」と瞳を輝かせ飛び跳ねていた。
かわいいなぁ、ワンちゃん……
「ほら。さっさと用事を済ませる、っていっていたのはお武家様だろ? ちゃっちゃと歩く!」
「わ、わかってますって……っ」
先を行くおこまから子供のように急かされ、桃太郎は駆け出した。
今の行為が余程嬉しかったのか、白い犬は桃太郎とおこまの後ろをジグザグに追うようになっていた。そんなワンちゃんを見ない振りして進むのは、大変心苦しく思えてならなかった。
当然のように、ワンちゃんなど気にもせず歩いてゆくおこまに続くとすぐに村を抜けた。
冷たい水を上から下へ流す川とは対角に、細いが山を分け入っての道が伸びている。
そこを通る人の姿はみられないながら、これが東海道の脇往還である、相模の国内陸部を通る中原街道というものなのだろう。
おこまはその脇往還も眼にくれず、知った道を選ぶ感じで川を遡っていった。川を上る沿道というよりも、狩りなどのために山へ入る道だ。
獣道とまではいわない。それでも決して歩きやすい道ではなかった。
「でも、おこまさん。わたしが気がついたからといって、よくまた、こんな道を戻ってまで、その封印? を、し直そうとおもいましたね……」
桃太郎は、おこまのいう「犬神」や「封印」とかは、よく解っていなかった。
しかしおこまは、このワンちゃんが、封印が完全でないから現われた、といっていた。
つまり、封印を完全にしてしまえば、ワンちゃんがいなくなるということだけは分かる。
桃太郎とワンちゃんがこれから一緒に旅をするわけではないけれど、言葉の陰で、どうせ見えないのだから、態々危険な思いをしてまで封印をし直す必要などないのではないか。
というかワンちゃんくらいほおっておいてもいいじゃありせんか、という身勝手な苦慮を叫んでいたのは明瞭だ。
「そりゃあ、お武家様は――」
そんな桃太郎の真意に気がついたのかどうか、おこまは呆れ顔で眉をつりあげ、はたと声を切った。
「?」
「お武家様は――「犬神」が如何に生まれるか知っておいでかい?」
少し先を歩いていたおこまは足を止め、軽く桃太郎を見下ろすように振り返る。
わずかばかり寂しそうに、どこか苦しみを堪えたような表情で、白い息が、濃く、ゆっくりと蟠ったままだった。
桃太郎は刻が止まってしまったのではないかとすら錯覚し、凍えた空気を打ち払おうと慌てて首をふるう。
「「犬神」っていうのはね――」
おこまは正面に向き直り、歩き出した。
「「犬神」に相応しい犬は、飼い主に忠実で、賢く、強く、誠実な犬から選ばれる。そういうふうに育てることから始めるんだ」
忠実で、賢く、誠実。強いかどうかはおいておくとしても、桃太郎の周りを雪道にもめげずに駆け回るワンちゃんは、その条件を満たしていると思えた。
* * * *
しんと静まり返った山道に、雪を踏みしめる軋みと、微かな水の流れ、おこまのはっきりとした声だけが聞こえる。
「やがて成長し「犬神」となるに適していると判断されたその犬は、陰陽道の祭壇が設置された秘密の場所で、生き埋めにされる」
「…………」
* * * *
「地面から首だけを出した状態でね。その状態で最低でも七日放置する。七日保たなかった場合は残念だけどやり直し」
桃太郎は、寒さに血の気が奪われてゆくのを感じていた。
無邪気に駆け回るワンちゃんは、少なくともその七日間を耐えた犬である。
前を歩くおこまはどのような顔をして、話しているのだろう。規律的な雪の軋みが、桃太郎に目眩にも似た不安を植え付けるようであった。
* * * *
「七日目、陰陽師は祈祷をはじめるの。そして祈祷は犬の体調をみて八日……九日……十日――続けられる。
最初は飢えに苦しみ、主人の助けを求め鳴いていた忠犬も、その頃になると敵意を撒き散らし、近づくものに噛み付こうとするだけの狂犬になるそうよ。
そして犬が限界を迎える。
飢えに体力が尽き、忠誠を誓っていた主人の仕打に心が壊れ、絶望と、ゆっくりと近づいてくる死に、頭が狂う。
その畢生の涯、陰陽師は犬に餌を与えるの。
そんな際だもん、どんな餌でもご馳走に見えるでしょうね。犬は最期の力を振り絞って餌を食べようともがく」
* * * *
「だけど、陰陽師は、餌を届くか届かないかの鼻先に置き、その犬の首を――」
その首を――
* ** *
その――
** * *
――首を
* ***************
桃太郎。太刀の刀身を見せてくれなんしか。
「いやだああああああああああああああああああああああああ!!」
分かっていたら見せなかった。知らせれていたら、気づいていたら、絶対に見せなかった。それが絹月の意に反していたとしても、その後、鬼となった蘿蔔に殺されたとしても、絶対に見せなかった。見せなかったのに!
桃太郎は胸の前で腕を交差させた。
それは、そこにあった、そうして抱きかかえていた太刀を強く束縛するかのような思草であった。
「お武家様――……?」
桃太郎の反応は明良かにおかしかった。自分の話に怯えてしまったのかとも思ったが、元服前とはいえ侍が、昔話だけで、ここまで取り乱すだろうかと、おこまは怪訝に振り返った。
そこにいた若武者の姿はまるで――
「お武家様?」
「…………!」
狂ってはいない。やり直せるのならいくらでも狂おう。あの時に戻れるのなら全てを捨てよう。けれどそれは叶わない。
桃太郎は狂ってはいない。だから、絹月は戻っては来ない。
桃太郎は膝をついた。力が抜けた、という感じではなく、手を使わずに、右脚、左脚と順番に折った。
抱きしめた胸の前に太刀はない。『色斬』は、今は桃太郎の腰帯に差してある。
その代わり、桃太郎の手に残ったものは、紅く滑らかな饐えた臭い。
それは、唐突にはじまった。
「――それで、そのあとは?」
「え……」
* * * *
「首を切って、そのあとは?」
「あ、ああ、そのあとは……犬の首は、祭壇に掲げて、溢れるほどの供物を捧げ、御神体として祀り、身体は掘り起こして御焚き上げにするんだよ。そうすることで、「犬神」は陰陽師の身体を手に入れた姿で現われるんだって……」
「そっか……祟られて当然ですね」
* * * *
「お武家様? それ、大丈夫……?」
「なにが……?」
* * * * *
「いや、それ、何をしてるんですか……?」
桃太郎は笑っていた。
いや、笑っているように見えた。
目を軟らかく瞑り、唇は引き攣っていた。それが、たまたま笑顔に見えただけだ。
そうして膝をつき、桃太郎は雪を掴み、右で掴んでは左の手を、左で掴んでは右の手を、擦っていた。
「すいません……少し待ってくださいね……なんだか、手がぬるぬるして…………」
――擦っていた。