四話 ―
桃太郎はそれから、予定どおり嶋原へと向かった。それは云うに及ばず、人捜しを抜きにしても一度は目にしておきたい場所であったから。
なにも雪路を信用していないからではない。
「嶋原……大門」
嶋原は京花街にあって大門で仕切られた唯一の遊郭街である。
町は堀や塀で仕切られており、江戸吉原に非常に近い様を呈している。
鎌倉時代から数え四度の移転を経て寛永十八(1641)年朱雀野にて『嶋原』と呼ばれるに至り、移転間もないながら古く格式を伝える最高級の遊郭街でもあった。
ただし、江戸吉原と違い、周囲に祇園、宮前町などの遊郭街を構える立地に加え、古くから引き継いだ格式が高すぎるなど、批判は厳しく営業状況は芳しくないようだ。
「あら? このようなお時間におこしならしても、座敷は用意整いませんえ?」
「あ、その――え……っと」
嶋原の大門は吉原と違い、屋根を持つ高麗門である。
ここまで来たはいいが、大門をくぐる、という行為に抵抗を感じていた桃太郎はゆくりなく背中から声をかけられた。
花街に向かう前に身構えていた心は、宮前町の収穫なしから雪路との遣り取りを経てまったく機能しなくなっていたようだった。
「花魁、さん……?」
立ち姿凛然と。
清楚で窈窕。
髪型は絹月と同じ伊達兵庫である。
簪もなく、帯も打ち掛けも簡単なもの。それでも彼女の気品は、宮前町で対応に現われた番頭や遣手とは一線を劃していた。
なにより、彼女がひとりで大門の外から来たことに驚いた。
「夕凪太夫と申します」
「た、太夫さん……っ。こ、これは……」
桃太郎は思わず、道を譲るように門の端へと身を避け頭を下げた。
「太夫」とはもと能や舞の最高位に与えられる称号であったが、のちに娼妓の最上位を呼ぶものとして定着していった。
その地位は「花魁」より更に上位であり、江戸吉原においてはその称号をもつ遊女はすでにいない。
容姿だけでなく教養から芸まで一流でなければならず、とくに京洛の「太夫」は花の御所の皇族、公家を相手に出来る立場であったため、茶道、華道、詩歌、当然舞踊など、師範代として通用するくらいのレベルが求められたという。
「くすくすくす……太夫がそないに珍しおすか?」
――やばい……一番気をつけなければならないんは武士ではなきにありんした!
どう対応したらいいかが分からなかった。
どんな顔をして向き合えばいいかが分からなかった。
相手が目上の娼妓であっても、ここまで緊張するとは思っていなかった。
普段遊郭を歩いただけでは花魁ですら御目に掛かることは難しいのだ。まさか太夫位と相対するとは、予想もしていなかったのである。
「……ついてきやす」
夕凪はひとしきり微笑むと、顔を上げられずにいる桃太郎にそう告げ、大門へ向かった。
「――え?」
「こちらに御用があるんどすやろ? ここで会うたのも何かの縁。案内して差し上げおす」
夕凪は大門に立つ険番に割符を見せ、そそと歩いて行ってしまう。桃太郎はどぎまぎしながらもそのあとを追った。
大門をくぐるとき、桃太郎が止められることはなかった。
「あ、あの、今のは……?」
「ああ。嶋原の遊女は通行手形さえあれば、自由、とまでは行きもうさんど、大門の出入りくらいはできるんどす。吉原とは違うすやろ?」
「あ、はい……」
「それに――」
大門をとおり、どうしても揚町へ目を奪われてしまう桃太郎の前を歩き、夕凪は肩越しに軽く小首をかしげた。
「安心しおす。嶋原には遊女に揚げてもらうような、酔狂な遊女はおらしまへんえ」
桃太郎は二歩、足を出し、立ち止まった。
『真情晒し』……
あの一瞬で見抜かれていた。
この旅を始めて、桃太郎の男装が見破られたことすらなかったのに、江戸吉原の遊女であることまで言い当てられた。
しゃなり揺れる夕凪の後ろ姿を、桃太郎は追いかける。
こうして姉女郎の背中をついて歩くのは、ずいぶんと久しぶりのことである。
胸を張る。歩幅が若干広くなってしまうのは仕方がない。
もう、桃太郎はお上りさんのようにきょろきょろしてはいなかった。
「角屋はん。座敷あいとる?」
馴染み深い揚屋造りの建物へ桃太郎を案内した夕凪は、ちょうど通りがかった店主へと声をかけた。
店主は驚き「夕凪に揚がってもらえるような部屋はそんな急に用意でけへん」と狼狽する。
ここでも桃太郎は疑問符を浮かべた。花魁や、ましてや太夫ともなれば、客を持て成す座敷の他に、自分の部屋があるはずだからだ。
夕凪は「どこでも構へんよ」といい、続けて「座敷代はうちの身上がりにつけおいておくれやす」と託ける。
案内された座敷は『角屋』の主人が言うほど貧相なものではなかった。むしろかなり上等な部屋に見える。
まがりなりにも太夫に揚がってもらうのだ。適当な部屋では失礼だと判断されたのだろう。
「入りおし。なにかつくってもろとるよって、少しまっとくれやす。お酒でも如何おすか?」
「それは結構です。お構いなく」
桃太郎は促されるまま先に座敷へ入った。早々に腰を降ろし、『色斬』を鞘ごと帯から抜いて横へと置く。
夕凪が襖を閉め、こちらを振り向くを待って、爪をそろえ、深く平身低頭する。
「このようないでたちにてのお目通り、どうかご容赦願います。わたしは江戸吉原は『灸なり』に妓籍を持つ花魁・絹月のお役を務めさせていただく振袖新造・桃太郎にありんす」
雪路の雑な土下座など足下にも及ばない、全力の鞠躬如。
相手が太夫ということ、自分が身を偽っていることで遅れをとったが、いつまでもうろたえていては桃太郎ばかりか姉女郎の絹月、如いては江戸吉原の名が廃るというものである。
予期せぬ事態。誤魔化しが効かないのなら、一時の恥を捨て、真っ向勝負をするしかない。
桃太郎が頭を上げるのを待ち、夕凪は口をひらいた。
夕凪は一流の太夫であり、一流たればこそ、容姿に左右されない今の儀礼に込められた「桃太郎」を見ることができた。
「なるほど……単にからかいにおこしたわけではないようどすな……巫山戯が過ぎるようなら、説教して敲き出そう思うとりましたが、安心しましたわ」
夕凪はころころと微笑んで言うが、それが決して冗談ではなかったことを感じて、桃太郎は軽く背筋に冷たいものを流した。
「それでは、お話を窺いまひょ」
「あ、その前に。なぜにわざわざ座敷など。遊女に揚げられる遊女はおらぬと仰られたばかりにありんせんか」
訊ねておいて、それでも桃太郎が揚げ代を支払うことが叶わないことは分かっていた。
そんなことをしてはそれこそ桃太郎風情が夕凪を買ったことになり、夕凪の気位に傷をつけることに他ならないからだ。
夕凪はとくに気を悪くした様子もなく、桃太郎からの質問に答えてくれる。
「それも吉原との違いどすな。京花街の太夫、花魁は一軒の妓楼に妓籍をおいておりまへん。普段は置屋におって、揚屋(妓楼)へはお呼出しがあったら向かいおす。
その場合、嶋原と決まってもいまへんえ」
なるほど、と桃太郎は合点がいった。どおりで大門の出入りが自由なわけである。
所変われば品変わる。遊女も在り方もそれぞれであった。
「それに、今回はうちがお客はんを招いただけによって。気にすることあらへんよ」
なにからなにまで勉強になることばかり、の中にあってこれは桃太郎の案に違わず。
もう一度、桃太郎は深く頭を下げた。
そうこうしている内に廊下の方から声がかかった。夕凪が返事をすると、先ほどの『角屋』主人が盆を持って入ってきた。
「はぁ。角屋はん直々に、えろうすんまへんなぁ」
「夕凪、ほんま頼むわ……うっとこも慌ててまうわ。こんなもんしか用意できへんけどええか?」
「生八つ橋やね。おおきに」
主人は「では、どうぞごゆっくり」と桃太郎へ営業的愛想を投げかけ、座敷をあとにした。
桃太郎がただの客ならなにも気にならない笑顔も、仕込を知っている側としてはなんだか滑稽であり、口元が弛んでしまう。
なんにしろ、花魁、太夫クラスの遊女は接客以外自分では立ち上がらない。それは吉原も嶋原も同じなようであった。
主人が持ってきた盆の上には皿と湯飲みが乗っていた。湯飲みの中身は色の濃さから抹茶であろう。
雅な皿に乗ったものは、餅のようだがほとんど透明で、中に包まれた餡が透けている。ただよう甘い香りと程よい薄荷が唾を呼び込む。桃太郎は見たこともない菓子であった。
「生八つ橋は珍しおすやろ。遠慮せんで食べてっておくんなまし」
「あい。いただきます……」
八つ橋、と聞いて薄荷の香りがする板状の硬い煎餅を思い浮かべた桃太郎は、生、の八つ橋に堪らず噛み付いた。
歯を入れた瞬間抵抗なく千切れる求肥は口の中で蕩け、馥郁たる薄荷の香りがふわっとひろがる。
餡の甘さがとけた生地と混ざり合うことで円やかになり、この上ない上品な味わいを醸し出していた。
さらに、抹茶との相性が格別。
一口含むと甘味が緩和され、すぐに二つ目を食べたくなってしまう。
そこからわずかばかり抹茶の苦味が残る舌に餡が触れた間際、一口目を上回る至高の時間を味わうことになるのだった。
「――は。その、大変美味にありんした」
ひとつ、ふたつと続けて手が伸び、みっつ目を口に含んだところで我に返る桃太郎。
食べ欠けを戻すのも無作法なので、みっつ目も噛みこなし、お辞儀でかえした。
「八つ橋おいしおすやろ。気に入ってもろてよかったわあ」
桃太郎が最初に想像した煎餅のような八つ橋は乾物であるため多少の流通がみられたものの、この生八つ橋はその名のとおり生ものなので日保ちせず、京を中心に近隣国でしか味わえない希少な和菓子であった。
予期せぬ出会いに戸惑いっぱなしの桃太郎は抹茶をこくりと気持ちをリセット。
ここへ、夕凪に連れられるがままついて来た、その本題を口にすることにした。
「夕凪太夫さん。少し、私事をお聞きいただいてもよろしいでしょうか……」
夕凪は茶筅を溶いて抹茶の御代わりを作ると桃太郎へ差し出し、「構いまへんえ」と頷いた。
桃太郎が夕凪に話したこととは、『保土ヶ谷誠次郎』の行方でも、お春の居所のことでもなかった。
桃太郎がなぜここに来たのか。姉女郎である絹月から所与された、『色斬』という太刀の所以についてであったのだ。
「――吉原大火は聞き及んどります。うっとこでも、何人かの娼妓を囲う話にもなっておらすさかい。なれど桃太郎はん……えろうがんばりはりましたなぁ」
「いえ。わたしなどは……旅は道連れとは申さんが、道中を供してもらった、仲間達のお陰にありんす」
それでも並大抵の苦労ではなかったはずだ。
駕籠の鳥が野に放されてもその大半が生きてゆけぬように、世間知らずの遊女が東海道を歩ききるなど、奇跡と呼んでもいいくらいだ。
旅の仲間を思い浮かべるように言葉を返す桃太郎をみて、夕凪は、自分には思いも依らぬ旦夕を越えて来たのだと知る。
「それで、『色斬』を受け取るはずのそのお武家はんは、『色斬』など知らん、と。ならば、桃太郎はんの御供が会うた同姓同名のお武家はんが、絹月はんの真の身請け相手なのではないかと、そう考えとるんどすな?」
「あ、いえ。わたしが遠江でお会いした保土ヶ谷様は、わたしが吉原にてお目にした保土ヶ谷様に相違ありせんした。かといっておいらんが嘘をついているとはおもえず、おいらんの、この太刀に込めた想いが晴れたとはおもえず、わたし自身、得心がゆかないのでありんす」
「……でしたらこう考えるのが一番しっくり来ますえ」
「?」
「絹月はんは嘘をついておらしまへん。かわいい振新に嘘を残す花魁などいませんえ。また、遠江のお武家はんも嘘はついておらへんえ。確かに、自分の預けた刀に『色斬』とつけられたら、普通は『此方さんとの色情は終わりました』云われたとおもうやろな。そうしますと、その刀、あんさんに渡すために『色斬』とつけられたのではありまへんか?」
その解釈には驚いた。
少しでも気楽な状況で八つ橋でも口に含んでいたら、間違いなく吹き出していたところだ。
「お、おいらんが……わたしに? ……なんして」
「んーそうね。絹月はんは、あんさんにあまり執着して欲しくなかったのではないやろか……」
夕凪は軽く匂わせ待つ。それでも見当もつかないといった表情で目を丸くしている桃太郎に、口をひらいた。
俄かに。云い難そうに。
「おそらく、絹月はんは気づいておるのでしょう。花魁や太夫が、この時代を乗り越えられへんということに――」
「!?」
時代は流れ、時は戻らない。
これまでの歴史がそうであったように、これからの歴史もそうであろう。少し前の戦乱の世を治めた武将の天下は胡蝶の夢の如くであり、そんな侍の時代もここに終わろうとしている。
遊女の世界もまた然り。
その高級感と公家、武家の衰退。大衆化についてゆけなくなり、京花街を脱した嶋原は幕末、明治、大正をなんとか乗り越えはしたものの、昭和後期、遂に格式高い遊郭としての幕を閉じる。
京都に今も残る「太夫」は、芸を磨いた嘗ての舞、能楽師としての意味合いを引き継いだものである。
浅草の新吉原に移った江戸吉原が、新たに迎え入れた「太夫」「格子」と呼ばれる高級遊女達。
彼女等の活躍は一世を風靡することになるものの、宝暦(1751〜1764)末には消滅。遊郭の「大衆化」が推し進められてゆくこととなる。
そうなると、これまでのような気位や教養、妓芸は後回しとされ床入りの優劣「手練手管」に磨きをかけなければならない時代の到来である。
吉原の歴史は大火との戦いの歴史である。新吉原へと移った後、八回もの大火事に見舞われては復興を繰り返すが、政府が代わり、江戸が東京と名を変える頃になると「娼妓解放令」「売春防止法」「風営法」などの風紀条例下に置かれることとなる。
妓楼は「貸座敷」、「赤線」などと名前を変え、行き着く先は「ソープランド」、「ファッションヘルス」となってゆく。
それは最早、絹月や桃太郎が生きた吉原ではなかった。
「桃太郎はんが命あるうちに大変は起こりまへんやろけど、絹月はんは、それを伝えたかったのやありまへんやろか――『色斬』は、あんさんの執着を斬る、云う意味なんちゃいますやろか」
夕凪はそう言って話を終えた。
話を聞き終えた桃太郎は頬に落ちる流れ星のような涙ひと雫。
深く、ただ深く頭を下げて、座敷をあとにした。
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西のお山に掛かる夕焼けに屋根も雪も赤く染まる時刻。
聞き込みを終え、旅宿への帰り道を歩いていたおこまは、正面からちょうどやってきた桃太郎へ手をふった。
先に宿の前に着いたおこまは立ち止まり、声をかける。
「やっほー。お武家様も今お帰りかい? なにか収穫はあったか――な、なって、ち、ちょっとお武家様!?」
とぼとぼ歩いてくる様子から、なにかあったのか、もしくは京の町並みにのぼせているのか、とは思ったが、桃太郎は立ち止まることを知らないかのようにおこまへ近づき、その肩に頭を凭れかけたのであった。
「お、お武家様……ちょっと、人が見てるって!」
商家は書入れ時に追われる日暮れ。仕事を終えた旦那さんから家事に精を出す奥さんまで、通りを往来する人は多い。
「おこまさん……いろいろあり過ぎて疲れなんした。少し支えてくれなんし……」
「お武家様……」
おこまはその、酷く憔悴しきった横顔に嘆息つくと、桃太郎の頭をぽんぽんと撫でてやった。
野暮天にも足を止め、視線を投げかける数人の通行人へと「なに見てんだい、見世物じゃないよ!?」と一喝。怯え逃げ去る町民に背を向け、桃太郎の肩を抱き支えながら『十文字庵』の暖簾をくぐった。