二話 -4
「今日はもう引き返そう」そう登山の中止を提案するおこまに、桃太郎は頑として、首を縦には振らなかった。
手は雪と氷の摩擦で皸となり、本当の血を滲ませている。
その頃になると、痛みが緩衝材となってくれたのか、こびりつく饐えた不快感は遠ざかっていた。
ただし、遠くなっただけで、まったくなくなったわけではない。桃太郎は慣れない服装に加え、いつからか引き摺っていた重たい手枷を引っ張りながら、雪の山道をがむしゃらに進んだ。
こんなん手を傷つけて、おいらんになんて言い訳しなんしか……
薬や包帯など、傷の治療に使えそうな道具は宿に置いて来てしまっていた。
それはおこまも同じだったようで、それでも凍傷が心配だからと、懐に忍ばせていた懐炉を貸してくれた。
桃太郎は陣羽織の袖内でひりひりと痛む手を温めながら歩いた。
「お武家様。洒水の滝が見えてきたよ」
そんな桃太郎を咎めてくれる姉女郎はもういない。
いつまでも甘えたい気持ちが抜けきらない桃太郎が自嘲していると、おこまが先を顧みながら告げた。
山並の向こう側から、風の嘶きに近い、滔々と流れ落ちる水の音が聞こえていた。
時々現われる川の湍に紛れてしまい、気づかされるまで、1オクターブ低いその音色に気づかなかった。
森を眺める角度を変えてみれば、おこまのいう通り、いつのまにか桃太郎達は滝のすぐ前まできていた。
洒水の滝(別名・蛇水の滝)は、三段滝であった。
頂点から落ちる一の滝が一番長く、二の滝、三の滝の落差は一の滝の三分の一くらいのもの。
頂点から滝壺までの距離は十反(約100メートル)はあるだろう。見上げただけで首が痛くなるような、かなりの大滝である。
滝の水は幾つかの箇所で凍りついていた。
飛び散った飛沫が幾千もの氷柱を作り出し、なるほど。確かに白い蛇が鎌首を擡げた頭のようにもみえる。
滝を目の前にして、おこまはふたたび「犬神」の名前を口にした。
桃太郎の反応を探り探り、それでも聞いておいてもらわなければならないと思った。云わずにはいられなかったのだ。
「お武家様。「犬神」は、飢餓と怨嗟の識神なんです。その飢えを抑えるためには御神体への供養と供物が必要なのに、その場所が、あたいには分かりません。
封印が完全でないと「犬神」自身の飢えも、抑えることができないんです。
けれど移動が出来ないので、その所為で「犬神」は周囲の動物や、時には人を殺します。
お武家様が見ているその犬は、「犬神」が食料を求めている証なんです。しかしいくら獲物を襲おうとも、「犬神」の飢えが治まることはないんです。
「犬神」の飢えと怨みは「北条」の血脈が続く限り、永遠に残り続けます。
ですから、その、お武家様。今からあたいがすることを、どうか、酷いと思わないでください……」
おこまは話し終え、最後につむじが見えるくらい深くお辞儀をした。
それはつまり、桃太郎に嫌われたくない、という心残りにみえた。
桃太郎の足下には、そんなおこまをきょとんと見上げるワンちゃんが腰を落ち着けていた。
おこまは、この犬を恐れるが為だけにここへやってきたのではなかった。おこまはおこまなりに、過去の過ちを悔いている。陰陽師の末裔として、封印は、苦心した結果であったのだ。
思慮が浅く、自由に見えたと感じていたおこまも、また、仕方のない世界に生きている。
少なくとも、桃太郎にはそう思えた。
桃太郎は皸て血の滲んだ手を伸ばし、足下のワンちゃんを抱きかかえた。
「あい。よろしくお願いしますね」
桃太郎の腕に抱かれ、ワンちゃんは満足そうに舌を出していた。
餌を求め、飼い主を探し回っていた。
けれど飼い主は、餌を与えることが出来なかった。餌のやり方が解らないというのだから仕方がない。
どうして。
どうして、こんな仕方のない生き方を強制されて、死んでまで人の都合で振り回されて、おまえはそんな真っ直ぐな目をしていられるのでありんすか?
おこまは頷き、滝壺へと歩みだした。桃太郎もワンちゃんを抱いたままで後ろにつづく。
何百年もの間、飼い主を求め、封印され、また飼い主を求めてを繰り返す。
「犬神」の心情とは幾許か。
そしてまた、折角出会えた飼い主から餌をもらうことも出来ず、眠りに就かされようとしている。
「犬神」は恨み、祟るために飼い主を追っているのではないのではないか。
おこまの血族もまた、「犬神」を疎ましく想い、封印してきたわけではなかった。
おこまも、本当は「よくがんばったね」とワンちゃんの頭を撫でてあげたいのではないだろうか。
桃太郎は何も知らないような顔をして、舌を出すワンちゃんの毛並みに紛れるようにして、零れる涙をぬぐった。
そして、密かに考えた。
もしかして、この『色斬』を使えば、その「犬神」の情念を断つことができるのではないだろうか、と。
「ん? あれは……」
「……どうしたんですか?」
滝壺の間際、不思議そうな声を上げるおこまにつづき、桃太郎も目元の雫を拭いながら首をかしげた。
「滝壺に、人が、いるねぇ」
「え? え……っと。人、じゃあないんじゃないですか?」
桃太郎は否定しておいてから気がついた。おこまには幽霊が見えないのだ。
がばっと桃太郎を見詰めるおこまの表情が、その、嘘のないことを物語っている。
現に、桃太郎が腕に抱いたワンちゃんは見えていない様子。
では、この凍える空気の中、一部氷結が見られる滝壺に平然と腰を降ろす彼女は何者だろう。
整った、人の女性の形をしていた。正体さえ知らなければ、吉原でも充分通用する紅裙となれたのではないだろうか。
ただし、前述のとおり、氷張る滝壺に薄絹一枚だけを羽織った姿で悠然と水面に座る姿が人間であるはずがなかった。膝から下は湖面に沈み、ここからではうかがい知れない。
(やっときたんだね、待ちくたびれたよ)
そして、あっちから先に声をかけられてしまった。それも、声と指してよいのかも悩んでしまう。
なぜなら、滝壺の女性は一切口を動かしていなかったのだから。
「――おこまさんの知り合いですか?」
「なんでそうなるのさ?」
桃太郎は滝壺の女性がおこまを見ているような気がして訪ねた。あと、話し方が、似ていると思ったので。
(そこの陰陽師。あたしが眠っている間に、なに勝手なことしてくれたんだい。折角の眠りが台無しだよ)
滝壺の女性は、もう完全におこまを指して言い放った。
台詞としては腹を立てていそうだ。ただ、やはり表情も口も動くことがないので、どこまでの憤慨を乗せているのかが分からない。
「ほら。おこまさんのお姉さんですか?」
「だから違うって!
その――滝壺の主よ! 申しわけがありません! 鬼気迫る事態であった故、あなたがいることを知らなかったのです!」
幽霊が怖いだとかいってられないと判断したのだろう。おこまは進み出、弁解を叫んだ。
相手の正体は、古く蛇水の滝と呼ばれたこの地に住む白蛇と読んだようだ。
それでも相手からのテンションが見えないことは不気味でしかない。
(なるほど。陰の気を宿す魔物を、絶えず陽気を循環させる滝で縛るとは、道理を得たなかなかの腕を持つ術者であるようだね。
だがここは古来よりあたしの場所なのさ。こうして、封印を弱めてまで使い魔を飛ばさせたんだ。さっさと場所を移しておくれ)
「――え」
つらつらと専門用語を並べられると頭がついてゆかない桃太郎に代わり、一瞬で言葉の意味を理解したおこまが声を漏らした。
「?」
「そ、それでは、この犬の霊を封印の隙間から遣させたのは、あなたなのですか!?」
(そうだ)
「……おこまさん、あの、どういうことになっているんでしょう?」
おこまの動揺は伝わってくるものの、なにが起きているのかは理解が出来ていない。
堪らず口を挟んだ桃太郎に、おこまは周章狼狽を隠し切れず、なぜか呆れた調子で説明した。
「あたいの封印は完璧だった。それをあいつが、あたいを呼び寄せるためにわざと弱めたんだって。それで「犬神」の封印を移動させろだって……」
「それじゃあ、移動してあげましょうよ。この滝はあの方の場所なんでしょう?」
「そ、そうだね。そう……なんだけど。
分かりました白蛇よ! しかし今しばらくお待ちいただけませんか!? 今は、その、準備が不十分故! 必ず、今一度この地を訪れます!
ので、今日のところはお見逃し願いたく申しあげます!」
(ならぬ。その使い魔を遣させたのも恩赦なんだ。今すぐ封印を解き、魔物を連れてこの地を去れ。貴様に出来ないのなら、あたしが封印を解いてやろうか。それとも、いっそのこと、諸共に呑み込んでやろうか)
*************!!
白蛇の化身の声色は変わらず坦々と。その怒りを示すのは、別のところから現われた。
まるで雪崩の如き轟音と、骨身の胎動する音、それに蛇の鳴き声を、同じ音量で同時に掻き鳴らしたかのようなさざめきと共に、滝の周りで氷結していた蛇が、そのものずばりの姿となって、巨大な鎌首を突き降ろしたのである。
「「!?」」
咄嗟にワンちゃんを庇い、蛇に対して背を向ける桃太郎――に、しがみつくおこま。
お江戸には無悲鳴しぐさといい、気遣いのできる女は無闇矢鱈と金切り声を上げないものだ、という作法のようなものがあったが、そうでなくても恐怖で身が竦むと悲鳴も上げられないというのは本当であった。
二人は息を呑み、氷の蛇によって丸呑みにされる瞬間をひたすらに待った。
(さあ。選ぶんだ。封印を解くか、ここであたしに呑み込まれるか)
白蛇の声は真上から聞こえたかに思えた。
恐る恐る桃太郎がまぶたを持ち上げると、今にも牙を突き立てんと顎を開いた氷の蛇が、精巧にできた氷像であるようにし、そこにあった。
滝壺の水面に、まだ女性の姿はある。桃太郎の目の前で、威嚇を顕にしたまま蛇は僅かに身を引いた。
「お、おこまさん……こうなったら、本当に、謝って、封印を解くしかありませんよ」
悩むまでもない簡単な選択だ。
ここで封印を解き「犬神」に祟られたとしても、すぐに命を落とすわけではないのだろう。でなければ、封印などを施す間もなくおこまの命は、むしろ「北条」の血筋はずっと以前に潰えている。
それなのに、おこまは桃太郎の陣羽織にしがみついたままで首を振った。
「……で、できないんだよ」
「?」
桃太郎はそれを、封印を解く手段がない、のだと解釈する。
「じゃ、じゃあ、あの白蛇様に封印を解いてもらえば――」
「そうじゃないんだ。あたい、封印を掛け直せばいいとおもっていたから、ついてきてなんて頼んじまったけどさ、「北条」の「犬神」は侍を怨んでいるんだよ。「北条」の地位を失脚させ、朝廷お抱えの陰陽師から外し、外の国へと追いやったのが侍だったからさ……」
嘗て、呪いや祈祷を用い、都を守護していた陰陽師も、時代が変わり、豪族、侍が台頭してくると、鬼や魔物を打ち払う役目は勇猛果敢な武勇伝にとって代わられ、その力も地位も、陰の存在として落ちてゆく。
それは物語や御伽噺でも如実であり、おこまの先祖はその渦中真っ只中にあったのであろう。
「「犬神」は「北条」を祟るけど、「北条」に関わった侍は、真っ先に食い殺されちまう。お武家様はここにいたらいけないお人なんだよ!」
おこまの話が真実だとして、桃太郎はどうだろうか。
解き放たれた「犬神」は、桃太郎を侍だと認識するだろうか。
桃太郎は腕の中、蛇に怯え、身体を震えさせているワンちゃんを見た。
この犬が侍姿の桃太郎を警戒しないのは、桃太郎が本当の武士ではないと分かっているからか。それとも「犬神」の本体でない分身には、そういった記憶や感情が宿っていないだけなのか。
どちらにせよ、一度ワンちゃんの本体と対峙してみなければならないようである。
桃太郎は片手で『色斬』の柄を握り締め、ひとり深く感懐を秘めた。
「おこまさん。それなら大丈夫です。わたしのことは心配しないで、封印を解いてください」
「お武家様! またそうやって無茶をいう! 「犬神」は、さっきの黄槇組の連中や、手の凍傷なんかじゃ済まないんだよ!?」
「おこまさん。おこまさんにはまだ話していませんでしたが、わたしには、『色斬』という不思議な太刀があります。この太刀の力があればおそらく、大丈夫です。
それよりもおこまさんは、自身に降りかかる祟りの方を警戒してください」
「――――っぅ!!」
このわからず屋! とでも叫びたそうな顔で、おこまは前髪をがしがしと掻いた。
そうはいってもこの状況。おこまがどれだけの情をかけたとて、改善することはないのは明白で、桃太郎のその、不思議な太刀とやらに寄せる信頼に賭けるしかなかったのだ。
「……封印を解いてください。おこまさん」
「――ああ、分かったよ……その代わり、その太刀の力がどれだけ凄かろうと、今度ばかりはあんなへっぴり腰じゃあ困るからね!」
それに関しては、一朝一夕ではなんともし難いことながら、桃太郎は頷いてみせる。
おこまは敢然と滝壺へと向かった。
先に、簡単な結界を敷いて桃太郎だけでも護ろうかとも考えたが、あまりぐずぐずしていて白蛇の機嫌をこれ以上損ねるわけにはゆかない。それに、簡単な結界程度では、どーせ「北条」の「犬神」の、足止めにすらならない。
「おこまさん、冷たくはないんですか!?」
「冷たいに決まってるだろ!」
躊躇なく、ざぶざぶと滝壺へ足を踏み入れてゆくおこまへ、桃太郎がすっとこどっこいな声をかけていた。
滝壺の真ん中、穏やかな水面に座する白蛇は、その様子を静かに窺っている。
「犬神」の封印さえこの地より開放すれば、白蛇は手を出してこないはずだ。
あとはもう、桃太郎の持つ太刀の力を信じ、「犬神」の攻撃を耐えているうちに二人がかりで、「犬神」を倒すしかない。
おこまは滝の前に立った。そして、流れ落ちる冷たい水に右手を埋めると意識を集中し、呪文を唱えた。
唱える呪文は以前この場所で唱えたものと同じ。最後の言葉を封印から開放へと置き換えてやるだけでいい。
「――白の鍵と躄地の条を持ちて四天佑を分かち 呼吸を留めよう 在るがままの繁栄と約束された舳 万事遍く精霊と我が御名において――開放せん「犬神・白葉」!」
(ほう)
おこまの用いていた封印術の正体が分かったのか、白蛇がちいさく感嘆をもらした。
とはいえ、それはつまり術の正体も知らないままで、この白蛇は、封印を弱める、なんて芸当をこなしていたわけだ。それは最早、人には到底達しきれぬ境地であり、感心されたとて、おこまはおもしろくもない。
舌打ちを、滝の流れに誤魔化した。
音もなく、滝の水面を蹴り、滝壺の湖面を駆け、おこまの危惧したとおり、解き放たれた「犬神」はおこまになど目もくれず、桃太郎の前に立った。