五話 -2
「と、いうのは冗談でやすとも。えーえー。驚きましたか?」
濃い影が立ちはだかり、にやにやと通せん坊をしているかのようだと思った。
邪魔っけに蟻助の横をすり抜けてゆく通行人達も、「なぜここだけ通りの真ん中が歩けないのか分からない」顔で行過ぎてゆくのだ。
少しだけ理解した。この男はなにも愉しくて笑っているわけではない。
こういう顔であるように、造られている。
「悪趣味――」
辛うじて言葉を吐き出した桃太郎ではあったが、相手を捉えることができない。
言葉を頭に入れること、その存在を認めること、その存在から凝視られることを拒んでいる自分がいた。
ともすれば桃太郎は希薄に溶け、風景の一部でしかなくなろうとしている。それは遠江の、保土ヶ谷誠次郎の屋敷で味わったものと、とても近い感覚であった。
「あんた、桃太郎さまに用なんか? だったらちょ、道を開けんか? こう街道の真ん中で話込んだら往来の邪魔じゃ」
雪路がいう。ここは男を見せる絶好の機会だ、とか閃いたわけではない。
困惑し切りの桃太郎を見るに見かね、矢面に立つ役を自ら買って出たつもりだ。
「えーえーえー。ご尤も。今日はあいさつだけのつもりですんで、すぐに退散致しやすよ」
なにも動じない。そこにいること自体が曖昧な蟻助にとっては、通行人などもまた曖昧な存在でしかないのかもしれない。
蟻助は胸元に腕を突っ込み液体を――どろりとした白い液体のような物そのものを掴み、取り出すと、それを、猫の威嚇が聞こえ続けている風呂敷包みへと垂らし始めた。
「お武家様……」
「おこまさん――あい。分かってます」
やがて蟻助の手から白い液体はいっ滴残らず零れ落ち、風呂敷の中へと滲み込んでいった。
すると変化はすぐに訪れる。
あれ程までに泣き喚いていた声がぴたりと途絶え、代わりに風呂敷包みがぼこぼこと跳ね回りだしたのだ。
「行き場を追われ、虐げられ、鬼となる資質を持つモノなんかは掃いて捨てるほどいやす。それは何も人間だけとは限りやせん。そんなモノにほれこうして『色魅』を与えてやりゃあ――」
屈み込み、蟻助が風呂敷包みをあけた瞬間、飛び散ったものは、屑々と立ち迷う煙のような霧と、その奥に潜んだ鋭い殺気であった。
「世にも珍しい猫鬼の完成でやす」
霧は消えることなく蟠り、走り回る何かの軌跡を追って瞬く間に周囲を覆い隠してゆく。
霧が隠してゆくもの、それはにたにたとだらしのない蟻助もまた然り。
「それでは桃太郎さん。またお会いしやしょ」
白い霧は忽ちの内に視界を埋め尽くしていた。霧の向こうから、そんな蟻助の御免被りたい台詞だけが耳にこだました。
「あっ! お前ん、ちょ待ちぃや!」
「雪路さんいいよ!」
蟻助を追って飛び出そうとする雪路を、桃太郎は声を上げて制止した。
大八車から飛び降り、『色斬』を抜き放つ。
「も、桃太郎さま……」
「どーでもいいよ、あんな奴追いかけなくて。そんなことより、今はこの状況をどうにかしましょう」
しかし――と言い掛け、雪路は口を噤んだ。桃太郎にそういわれて、反論などしていては家臣失格だ。
見ればおこまも松金さんも、「出て行った猫鬼は?」「全部で四匹だ。ちゃんと見ていた」と状況を分析、対策を講じ始めている。
蟻助という男を前にして、誰より「どーでもよくない」のは桃太郎のはずである。そんな桃太郎が心中押し殺してまで世の安全への尽力を選ぶというのであればそれに従うまで。
お供について日は浅いながら、桃太郎を想う気持ちは誰にも負けてはいない、と雪路は自分を奮い立たせるのであった。
「いったい何処から……」
桃太郎は足幅を広く、『色斬』を八双に構え、周囲を窺った。
大八車を背に、後方から桃太郎、左におこま、荷台の前に松金さん、その左に雪路、という隙のない陣構えである。
****っ!
「え……なに!?」
卒然、霧の中から悲鳴があがったのだ。それは石畳の街道を少し戻った方。
桃太郎はためらわず駆け出していた。
「あ、ちょいとお武家様!?」
深い霧で姿は見えないながら、断続的に聞こえる叫び声と何かが破れるような音を頼りに向かえば、そこに、素早く動き回る白い小型の獣から襲われている旅姿の老女が見えた。
桃太郎が駆け寄り『色斬』を振り下ろすが命中はしない。
全身が白い、額から少々強引に角を生やした猫はフーッ、と桃太郎を威喝すると、足音もなく石畳を蹴り、霧の中へと姿を眩ました。
「大丈夫ですか!?」
「ああ、お若いお武家様……ありがとうございます……」
手や頬から多少出血はあり怯えてはいるが、負わされた傷自体はたいしたことなさそうだ。
それよりも、なかなかに上等そうな打ち掛けが引き裂かれてしまっているのが悔やまれる。
手直しを入れてもこれでは価値は半減……むしろ、手直しだけでもけっこう掛かるんじゃありせんか……――っと、そんなことより。
「お婆さん歩けますか? この目と鼻の先に、霧で見えませんがわたしの仲間達がいます。そこまで移動しましょう」
吉原というところは、人も品物も、良かれ悪しかれ集まってくるものであり、その中で、人の目利きは然り。遊女が安物、紛い物を身につけていては自分の値打ちを下げることになる。
桃太郎は商売柄、自然と浮かんでしまう目利き結果を振り払い、老女を支えるようにして立ち上がった。
「お武家様!」
「おこまさん! 勘違いしてました!」
駆けつけたおこまもすぐに桃太郎の逆から老女を支えて歩き出す。
桃太郎の勘違い、におこまも同意して首肯する。
「そうだね、あの蟻助という男、これ見よがしに挑発して来るから狙われたのがあたい等だと思わされた。鬼となった猫はおそらく、霧に取り込まれた街道の人間を無差別に襲ってるはずだよ」
「霧に取り込まれた人間……ですか?」
霧の向こうから続々と聞こえてくる悲鳴。
苦々しく呟くおこまに桃太郎は首をかしげた。老女を間にしているのであまり突飛な話はしたくないながら、今はそんなことを気にしていられる状況でもない。
「お武家様がさっき斬りつけた猫鬼、もう霧は出してなかったから、こうやって霧の中を移動するんだなぁとおもって。まぁ、霧から出したらどうなるか分かんないけどさ」
桃太郎はおこまの言葉に少しの間考え、ている内に松金さん、雪路の待つ大八車まで辿り着いた。
大八車の荷台へと助けた老女を乗せる。
「それじゃあ――おこまさん、雪路さん、霧の中にいる人をひとりづつ助けましょう! 松金さんはここに集めた人達を守っていてください!」
「合点承知!」
言うが早いか雪路は霧へ飛び込み、瞬く間に見えなくなってしまった。
「た、単純……」
「ま、まぁ。善は急げ、ともいいますから。おこまさん、お願いできますか?」
「霧がどうにかできないなら、これ以上拡げられる前にそうするしかなさそうかね。松金さん、ここは頼んだよ」
言われ、老女の背後でこっそり分身を作り出す松金さん。びっと親指を突き立て返事とする。
「ありがとうございます。では、また後程!」
「ああ、お武家様!」
「?」
駆け出し際に呼び止められ、桃太郎はおこまを振り返った。
「多少……引っ掻かれるのは大目に見るけど、あんまり怪我しないでくださいよ!」
「キッキッキ」
「――なんでそこで笑うかな!」
からかう松金さんにつっかかってゆくおこまの姿に、桃太郎はくすりとしてしまった。
桃太郎だけではない。桃太郎の周りに集まってくる者達もまた、おこまの心を和ませる役目を一役づつ買ってくれている。
「おこまさん! 仲良いね!」
「よくない!」
「キキキィ!」
桃太郎。続いておこまも濃霧へと飛び込んだ。
視界はすこぶる悪いながら声だけは良く聞こえる。襲われている通行人を見つけるのは苦労しなかった。
猫鬼は酷く威嚇をしてくるが、抵抗は激しくなく、おこまは蹴りや拳闘で、雪路は鉤縄を振り回し、桃太郎が『色斬』で斬りつけると霧の奥へと姿を消した。
被害を受けた通行人達も含め、全員が引っ掻かれた怪我の度合いはおこまの許容範囲であった。
猫鬼は別の標的を探しに行ったのだとは分かるが深追いはせず、今、目の前にいる人を助けることだけを優先する。
「澄みません。助かりました……」
「いえ。困ったときはお互い様じゃ。すぐにうちの桃太郎さまがなんとかするけん、辛抱しちょくれ」
「ありがとうございます。霧に覆われたときは、もう駄目かとおもいました」
「あたい等にはたまたま、とても頼りになるお武家様がついてただけだから、別にたいしたことじゃないさ。ほら、もう少しだよ」
「お武家様……わしは、こない恐ろしか目に会うたんははじめてじゃ……」
「もう大丈夫ですよ! 鬼はわたし達が必ず退治します!」
「かかあ! このお猿さんしゃべるよ!?」
「ほら、危ないからいい子にしてなさい」
「ッキッキッキ!」
悲鳴を聞きつけ、その方向へと真っ直ぐ向かう。そして人を連れて真っ直ぐ戻る。でなければ白濁した視界に大八車の位置も見失う危険性があるからだ。
通りから外れた場所からの悲鳴には、雪についた足跡を頼りに来た道を帰った。
桃太郎一行が助け出した総勢は二十三人にもなったが、騒ぎを聞きつけ自ら大八車を見つけたり、単身で道中していた者も少なく、わりと短い時間で霧の中から悲鳴は聞こえなくなったのだった。
「あとは、四匹の猫鬼を退治すれば済む話じゃね」
「猫鬼達が霧の外へ逃げ出していなければ、の話ですけど……」
「それは心配ないみたいよ……」
「キッキッキキ……」
「お猫様のぉぉおなぁりぃ〜――だって。松金さんが」
「嘘です! 松金さんそんなこといいませんもん!?」
毎度のことながら、どうにも緊張感に欠ける遣り取りに着いて行けず、雪路は苦笑半分荒縄を準備する。
目的は鬼を祓うこと。たとえ猫でも殺生は良しとせず、むしろ動物好きの桃太郎である。猫だから、なんて理由で軽々しく命を奪ったりしない。
そのための段取りはすでに打ち合わせ済みだ。
おこまは霧の奥から投げつけられる殺気に警戒しつつ、すばやく呪文を吐きつけた。
「――天を薙ぎ 地を薙ぎ 天飛ぶや波を行く千夜行 突風にして暴風 暴風にして神風――っ!」
呪文の完成と同時に手を振り上げると、おこまを中心にした上昇気流が発生する。
気流は周囲の空気を巻き込み巻き上がり、突風を生じさせる。文字どおり、神風を呼び込む術である。
ただし、風に志向性はなく、対流を生むだけなのでこの術だけで猫鬼をどうにか出来るわけではない。
風の渦は霧をも吸い込んで吹き乱れる。
霧が掻き回され薄まれば、近くに集まってきた猫鬼の姿を捉えることは容易である。
すかさず松金さんは分身を飛ばし、身体を屈めて風に耐えている猫鬼を取り押さえた。
あとは突風が治まるのを待ち、桃太郎が順番に斬ってゆけばいい。
雪路の役目は色を失って気絶した猫達を、起きても暴れださないように縛ってゆくことだ。地味でも文句は言わない。そんな雪路には好感が持てるではないか。
桃太郎が『色斬』を一振りする毎に、猫の体から白い塗料が飛び散った。
角は水が蒸発するかの如くぽたぽたと剥がれて落ちた。それと一緒に霧も薄まり、最後の一匹を斬ると、空はすっかり晴れていったのだった。
*********っ!
わっと拍手が溢れた。
桃太郎は怒られたと思い、ぎゅっと目を瞑ってしまう。
けれどそれが歓声だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「…………え、っと……」
「ま、こういうのもたまにはいいんじゃない?」
「ま、また、どこかで大変なことになるんじゃありせんか……?」
「ほら、そんなびくびくしてないで、胸張ってあいさつしなって。お武家様がそんなんじゃ、締まらないよ!」
おこまは桃太郎の背中をどん、と押して、助けられた通行人達の前へとつき出した。
桃太郎が『色斬』を一振り。鞘へ収めると、もう一度歓声が上がる。
「みなさん、あの、怪我をした方も大勢いるとは思いますが、鬼の心配はなくなりましたので、道中気をつけてお続けください!」
「ありがとうございましたぁ!」
「お若いお武家様! よっ、日本一!」
「日本一ーっ!」
ぺこりと頭を下げる桃太郎へ、惜しみない拍手と喝采が注がれたのであった。
おこまに松金さん、雪路もそれに手を振って応え、終始照れっぱなしの桃太郎を盛り立てた。
それぞれの道中へと戻ってゆく通行人達を見送る容で最後となり、出発しようとする桃太郎に声をかけてくる人物がいた。
それは、桃太郎が最初に助けた老女である。
「お若いお武家様、今度のことは、本当に感謝しております。そこで、どうか御礼を致したいのです。この先、一里ほど行った所にあります我が家へ、どうかお寄りいただけませんでしょうか?」
「あ、いえ。これはわたし達も旅を続けるためにしたことですし、御礼などをいただくわけには参りません。
ですが、御礼代わりといってはなんですが、この近くに刀鍛冶などはご存知ありませんでしょうか? 実はわたしのこの太刀に、銘を入れる予定になっておりまして……」
桃太郎が腰の一振を軽く持ち上げながら訊ねると、老女はぱっと顔を輝かせ、そしてすぐに暗くする。
「それは好都合! うちの主人は刀鍛冶でございます! ……でも、今は所用で京へ出かけておりまして、帰るのは明日となるかと」
釣られて桃太郎が顔を曇らせるより先、雪路がどん、と胸を叩いた。
「桃太郎さま! そういうことなら任せとくれや! 自分、多々良の姓は見掛けだけじゃないですよ!」
「多々良……雪路さんあんた、もしかして周防の出かい?」
「そうじゃ。あ、いや、出は長門じゃけど、日ノ本に製鉄技術を伝えたのは、自分等のご先祖、琳聖太子様じゃ!」
思わず口を挟んだおこまに、雪路はもう一度、どんと胸を叩いて昂然と言い切った。
百済国・聖明王の第三王子、琳聖太子が周防の国多々良浜へと流れ着き、それを自らの始祖だとする、雪路の系譜である大内一族は少し変わった出自の持ち主である。
その後、一門は移住先の周防は大内村に因んで姓を「大内」と改名、今に至とされるが古代琳聖太子の記録は紛失してしまっており、説を立証付ける物的証拠は残されていない。
そしてもうひとつ――
「おや? 日ノ本に近代製鉄技術を伝えたのは、同じ百済出身でも温羅、という豪族だろ? その点、一緒くたになっちまってんじゃないかい」
「え、あ、それは、そうなんか……?」
おこまより、始祖に関する歴史的な指摘を受けてしまい、見る見る顔を赤らめてしまった。
雪路はさっきから、桃太郎に自分のアピールを続けているようであった。
そこにおこまが入ってきたものだから、飛び交う耳に馴染のない単語に、桃太郎の頭は大渋滞である。
ただその中にあって、ひとつだけ、よく聞き取れた言葉があった。
とおい、とおい昔に聞いたことがありんす……温羅……なんだろう。懐かしいような、ちょっと怖いような……あとで、おこまさんに訊いてみんさんしょう。
「でも、鍛冶がお出来になるなら問題はありませんね。どうぞ、うちの設備を使ってくださいな。鬼を斬った刀に銘を入れさせたとなれば、主人もきっと喜びます。それに、ちょうど九つの鐘が聞こえて参りました。お食事のお世話だけでもさせていただけませんか……」
明け九つ。正午を知らせる鐘の音が、どこかの集落からでも聞こえてきた。
食事と聞いて、思わず桃太郎はおこまに視線を送る。おこまは「ここまでの申し出を断ったら、却って野暮ってもんだよ」とでもいいそうな顔で頷いて見せた。
「ありがとうございます。小母様のご好意、忝く頂戴したいとおもいます」
「いえいえこちらこそ。あ、わたくしお郁と申します。どうぞよしなに」
こうして桃太郎は鍛冶屋の妻、お郁を伴い、一里先の宿場町を目指して歩き始めた。