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             五話 【桃太郎の鬼退治】



 雪路は揺れていた。


 雪路は幸せな気分で揺れていた。揺れているのは雪路の横になっている世界そのものであった。


 小刻みな振動は心地よく、ほんのり暖かい陽射しは夢の淵をとても
ませてくれた。


 こんな幸せな気分を味わったのは、初めて親方に連れられ、屋根に上がらせてもらった日以来であった。


 あの日、整然と居並ぶ甍の波から見下ろす京の町並みは、まさに天にも昇ったかのようであった。



 そして雪路はふたたび天へと舞い上がった。


 ただし、今回は文字どおり、物理的に宙へと放り出されたわけだが。



 あの時も、雪路は桃太郎への誤解がなかったことを知り、絶頂感のうちで味わった身体が浮かび上がるかのような感覚。そう。それはちょうど今のような――



 がたこん、といって大八車の片輪が敷きつめられた石畳の窪みへと挟まった。




 「ああ。ほら、お武家様、気をつけないと……」




 「す、すいません……こういうの、引っ張ったことなくて……」




 「やっぱりあたいが引こうか?」




 「いや! それは駄目! おこまさんは怪我人なんですから、おとなしく座ってなきゃ駄目です!」




 「そんな、お武家様に心配かけるような怪我じゃないっていってるのに……疲れたらいいなよ。まだ先はあるんだから」




 「あい。大丈夫ですう……うっ!」




 桃太郎は言葉の最後で全身に力を入れ、大八車の車輪を引き上げた。


 滑らかに回転する車輪が心地よい揺れを提供し始める。




 「も……桃太郎……さま?」




 雪路はまぶたを持ち上げようとして、射し込む日光にぎゅっと目を瞑った。




 「あ。目が覚めました? 雪路さん。今の揺れで起こしちゃったかな……すいません」




 聞こえてくる本物の桃太郎の声に目を開ける。ふと顔の前に差した陰のお陰で陽射しも眩しくなかったのだ。




 「大丈夫ですか?」




 そこに覗きこむ顔は赤く妙に間延びした鼻の下と白い毛に覆われ、菩薩とは程遠いしかめっ面で雪路のことを見詰めていた。




 「ああ、桃太郎さま……やっぱり自分は地獄ゆきじゃったんじゃね。じゃけんど、猿でも桃太郎さまと一緒におれたら幸せじゃ……」




 そういって顔を近づけてくる雪路に、松金さんは容赦なく牙を突き立てた。




 「あぎゃ!?」




 「松金さぁん。食べちゃ駄目ですよぉ」




 おこまの爆笑が響き渡る街道を、がたごとと桃太郎の引く大八車は進んだ。



 京での騒動のあと、通りの向こうでのびていた雪路を回収し、桃太郎達はなに食わぬ顔して宿へ引き返した。


 妖怪騒ぎに血気盛んな与力に加え、京都町奉行が調査に乗り出したためだ。


 こんな不可解な面倒事に首を突っ込んだが最後、十中八苦『妖怪騒動と称して市中を混乱させた罪』に問われるのは桃太郎達である。


 すぐに宿を引き払っては怪しまれるし、桃太郎達は朝を待ち、雪路の瓦屋を訪ねると、対応に現われた親方に事情を説明し、「人捜しにどうしても雪路の協力が必要なこと」を了承してもらったのであった。




 「御免よ。そんなわけで勝手に連れてきちまったけど、親方さんに許可はもらっているから勘弁しとくれ」




 「はあ。自分は始めっから桃太郎さまとご一緒させていただきたかったけん構わんちゃけど、昨日のあれは、夢じゃなっかったんじゃね……」




 「あ……」




 桃太郎は立ち止まる。
に大八車の引き手を放した。そして後ろに乗る雪路へ向かい、ぺこりと頭を下げた。




 「雪路さん、あらためまして、おかしなことに巻き込んですいません。それから、昨日は本当に助かりました。あなたがいなかったら、わたしは今頃どうなっていたか……ありがとうございました!」




 「そ、そそそんな! お礼言われるようなことはしとらんです。自分は、お役に立てたらそれで充分ですから! あ! 車なんかは自分が引きますから、桃太郎さまも荷台で少しゆっくりしちゃってください!」




 「え……っと、でも、わたしは……」




 「そんな遠慮なんちせんで! だいたいね、大八車なんてもんは、お侍さまが引っ張るようなもんじゃねーですから!」




 強引に荷台から降りた雪路はこれまた強引に桃太郎を荷台へ上げ、「よっ」と掛け声ひとつ。
を取って軽快に街道を駆け出した。



 桃太郎は小声でそっと、




 「恥ずかしくないですか? これ」




 おこまに囁く。




 「だから、あたいは荷台の横に座ってるんじゃない」




 答えるおこまは荷台ではなく、荷台の縁に取り付けられた、車輪避けに腰を降ろし、脚を外側へ投げ出しているスタイルだった。


 確かにあれなら荷物感がなく、「ちょっとそこまで運んでもらっている」ような、粋な感じにもみえる。


 とはいえ、すでに走り出している大八車の上で動き回ることもできずに、荷台にはそんな人の目などまるで気にする必要のない松金さんも乗っていることだし、桃太郎は仕方なく、帯から『色斬』を外し、膝を抱えて座ることにした。



 桃太郎が引き手役を快諾したのは、そんな理由もあったようだ。




 「ところで桃太郎さま、自分から
ちを申し出ておいてなんなんじゃが――」




 しばらくして、雪路が肩越しに視線を寄越す。




 「いったいここはどこじゃろか? そして、自分らはどこへ向かっちょるん?」




 「あ、そうですね。え……っと」




 桃太郎は雪路からの視線をそのまんまおこまへと投げ渡した。


 目的地は
摂津。それは分かっているが、今どこにいて、どのような道筋で向かっているのかなど、東海道から離れてしまってもおり、世間を知らない桃太郎に把握できているはずがなかった。




 「ここは京から西南、位置的には
丹波と摂津の国境ってところかね。ここから「陰面(山陽道)」に入ってもよし、摂津の港町を当たってもよし、といったところさ」




 「? それで、目的地は……」




 「ちょいと。ちゃんとあたい達の話を聞いていたのかい? 目的地は――」




 「『保土ヶ谷誠次郎』という男のいるところ、です」




 おこまの言葉を引き継ぐ容で桃太郎は言い切った。



 そうだ。


 勘違いをしていた。


 摂津へは当てを探すために向かうのだ。


 しかし雪路という当てが見つかった以上、目的地は『保土ヶ谷誠次郎』ただひとり。




 「そ。というわけだから、あんたの知る、その『保土ヶ谷誠次郎』のところまで案内しとくれ。まぁ、別にとって食おうって訳じゃないから安心しなよ」




 おこまはさっきの冗談を交えて手をぱたぱたとさせた。荷台でわざとらしく、松金さんが鋭い牙をみせてキッキッキと笑った。




 「そうじゃね。昨日のあれを見る限り、その方もなんか訳在りなんじゃろ? 任せちょってください! 大死一番、きっちり案内させていただきます! それから、自分に出来ることがあったらなんでも言ってくださいね、桃太郎さま!」




 雪路はどんと厚い胸板を叩いてみせ、大八車はさらに加速していった。




 「おやおや。こりゃあ、また頼り甲斐のあるお供が出来ちまったね、お武家様?」




 「あ、はは……。お供にはしないって言ってあったにありんすけど――んんあっ。雪路さん! さっそく、ひとつお願いしていいですか?」




 桃太郎は苦笑。おこまがどこまで本気で言っているのかは判らないながら、自分にだけ聞こえる声で、
ごつ。


 すぐに笑顔を取りつくり、上機嫌が窺える背中に小首をかしげた。




 「あの、お腹が空きました。どこか茶屋を見つけたら寄っていただけますか」




 「あいさ合点! このまま摂津へ向かいますね。途中でなにか見つけたら、そこで休憩としちゃりましょう」




 京から内海へ向かうルートには、
生駒を越え、一旦難波へ向かう直線「奈良街道」という道が近かったが、大八車を引きながら、いつ目覚めるともしれない雪路を運んで起伏の激しい暗峠を越えることは出来そうになかった。


 そのため、若干大回りにはなるものの平地がつづく丹波山陽側を選んでいた。


 名もない街道が石畳で整備されているあたり、京への行き来が如何に重要視されていたかが分かるというものだ。




 「目的地は摂津でいいのかい?」




 茶屋が現われるまでの道すがら、おこまは雪路に訊ねた。


 どちらにせよ着いてゆけばおのずと分かることであり、理由は特にない。時間があまった故の世間話のようなものだ。




 「ああ、いえ。『保土ヶ谷』様が摂津におるわけじゃありません。摂津には親方の瓦を
阿波の方まで運んでもらっちょる馴染の運送屋がおります。そこで伝馬船を借りて、海に出ます。
  『保土ヶ谷』様は、瀬戸内の島にお屋敷を建てちょるいう話です」




 「「「……」」」




 荷台の三人は顔を見合わせた。そろって浮かべた疑問符の正体は同じようだ。




 「鬼が、自分の家なんか建てるかい?」




 「それも職人さんを雇い入れてですか?」




 「そう決めつけて掛かるわけにもゆかん。鬼といっても様々だ。彦九郎のようにかなりの自制が残る者もいるし、昨晩の遊女のように怒りに我を忘れている者だっている」




 「じゃあ……話し合いで解決できるかも……?」




 言いながら、これから会いに行く『保土ヶ谷誠次郎』が松金さんの船を襲っていることを思い出した桃太郎。頭の中ではすでに自分の意見を否定している。


 が、予想に反しておこまは首肯した。




 「たとえば、お武家様の
姉女郎さんを囲うための別宅を建ててる、っとなりゃ、それもあるかもね」




 「鬼となってなお、か……」




 「だだだだ駄目です! そんな男にお姉さんはやれませんっ!?」




 桃太郎は膝の横から『色斬』を掴み、抱きしめ、荷台の後ろいっぱいまで後退った。その姿におこまは声を上げて笑った。




 「あっはっはっはっは! お武家様、鬼になっても優しさを忘れなかった彦九郎のことは、格好いい、っていってたじゃないのさ!」




 「ほう。それを知ったら彦九郎のやつも喜ぶだろうな」




 「彦九郎とは話が違います。いくらお姉さんを迎えるためだからと、『保土ヶ谷誠次郎』は鬼の力を使ってるじゃないですか。そんな
の建てた屋敷なんて、お姉さんだって喜びません!」




 「それじゃあ、鬼を払った後で真面目に働けって?」




 「当然です!」




 「はぁ。こりゃ『保土ヶ谷誠次郎』も敵わないや。しっかり者の
義妹が出来て苦労するわね」




 そしておこまはまた、あっはっは、と笑う。


 桃太郎は怒らせた肩で息をつき、そしてふと、こんなことを思った。



 なんだか、おこまさん最近楽しそうにありんす……



 それは桃太郎だけが気づけた変化であった。もとから楽観的な性格だったおこまだが、単純に笑うようになった、という変化に驚いている。


 出会ったばかりの頃はどこか寂しそうで、笑うといってもニヒルな微笑。言葉の端ではいつも
るかのように台詞を選んでいるみたいだった。


 今おもうと、それは予防線だったのではないだろうか。




 「……おこまさん」




 「――なに?」




 桃太郎は気づかぬうちに声を出してしまい、慌てて首をふった。




 「なんでもあらせんよ」




 桃太郎はおこまの過去を知らない。


 知っていても、おこまと黄槇組というヤクザ者が知り合いであったことくらいである。黄槇組の巽という若頭と、どのような関係にあったのかも知らない。


 けれど、なんとなく思ってしまった。


 頼りたい、けど、捨てられるのが怖い。
おこまはこれまで、そんな不安を懐いてきたのではないだろうか。


 だから、桃太郎には捨てられないよう一生懸命に自分の力を駆使し、尽くして来たのではないだろうか。




 「お武家様……お武家様は動揺するとすぐに口調が変わるから分かり易いんですよ。気づいてました?」




 「えっ! そうなんであり――あの。もっと早く教えてください……」




 そんなおこまに、桃太郎はちゃんと返せていただろうか。


 ここに来ての彼女の変化が、これまで積み重ねてきた信頼関係からなのだとしたら、嬉しい。



 「そういうわけだから……お武家様がなにかを隠したネタは上がってるんでい! 神妙に白状しろい!」




 「ちょ! わっ! わっ! わぁ!?」




 「ねぇ、お二人とも、荷台で暴れんちょってください! というか自分もちゃんと混ぜて……」




 「まぁ、雪路よ。男はいつでも、黙って汗を流すものだ」




 「――んで。さっきから猿が普通にしゃべっていることに、自分そろそろつっこんでもえーじゃろか……」




 雪路が背後の和気
とした雰囲気を、ひと通りましがり、嘆息気味に正面へ向き直った進行方向、男が一人、街道の真ん中に立っているのが見えた。



 歳の頃は四十か五十前。背は低く、ここからでも判るのは、
に混じった白髪でも灰色になっていることくらいだ。


 街道には往来する人の通りもあり、自分達もかなりの注目を集める存在ながら、その男も隣を
ぎる人々に、存外胡乱がられている。



 雪路は足を止めた。単身道中をしているならまだしも、大八車で小男の横を抜けることはできなかったからだ。




 「ちょいと御免よ。先を急いどるんじゃ。道を開けてくれんか?」




 雪路の声に、荷台できゃあきゃあ騒いでいた桃太郎達も顔を上げる。




 果たして、そこにいた、忘れもしない懐かしい小男の顔に、桃太郎は叫んでいた。


 懐かしい、とはいってもそれは決して夢一夜に懐かしむような思い出ではなく、できることなら思い出したくもない、ましてや、二度と会いたくなどなかった顔だった。




 「――
蟻助!?」




 「これはこれは。幼少の
は「蟻助さん」と呼んで下すったのに、ずいぶんとお偉くなったようで。親にも、育ての親にも売られた分際で」




 「――――――――ッ!」




 分かっていた。お爺さんや、お婆さんが、自分の本当の親ではないことくらい分かっていた。


 身売りされることになり、育ての老夫婦からでも聞き出したのだろうか。


 でもそれを、この男に指摘される筋合いなどはない。まして、
侮蔑される謂れなどは微塵もないはずだ。



 桃太郎の記憶にあるものとまったく変わらずだらしない微笑を浮かべ、蟻助は足下に置かれた風呂敷包みを無造作に蹴飛ばした。



 ********っっ!



 怒りも
に泣き叫ぶのは、怯え、警戒し、何も信じることが出来なくなった猫の悲鳴。




 「遊びの時間はお
いです。利兵衛さんの言いつけにより、江戸へお連れしやすよ、桃太郎さん」




 口元の笑みはなんなのだろう。この男は、なにが愉しくていつも笑っているのだろう。


 桃太郎は、引いてゆく血の気を
めるよう、必死におこまの手を握った。



 そしておこまは、握る桃太郎の手を、物憂げにじっと見詰めていた。