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             二話 -


 「お武家様!」




 おこまが叫んだ。


 それは「犬神」の危険を呼びかけるため。


 ここでちんたらしてはいられない。すぐさま次の呪文を唱え始めるおこまの視界で、飛び掛る「犬神」に対し、桃太郎が手にした太刀を振るったと思った。


期待した。一応陰陽師の血を受け継いだ
末孫として、如何な力で「犬神」に対抗しようというのか、桃太郎が自信を持って信頼する、その太刀に込められた力とはなんなのか。



 その期待が完全に途絶えたのは、太刀の一斬を受けて勢いやまず、桃太郎の首筋に喰らいついた「犬神」が、その若武者の身体を棒切れの如く滝壺へと放り投げるのを目にしたからだった。


 冷たい滝壺へと沈んだ桃太郎を追い、「犬神」もその身を湖面へと躍らせる。




 「お武家様ぁ!?」




 二度目の叫びは、水面下に沈んだ桃太郎の安否を心配する声。


 ただし、絶望の毛色が濃い。


 悲鳴を上げることで、途中まで
いでいた呪文は中断されてしまっていた。



 滝壺に座したままの
白蛇は、相変わらずの澄ました顔で、そんな一部始終を傍観しているようだった。


――――――――――

 「犬神」。


 その造形は、桃太郎が抱いたワンちゃんが成長したような成犬のそれであった。


 ただし、その膨張率は尋常ではなく、実際に目にしたことはないながら、まさに獅子の如しであると思った。


 そして「犬神」は服を着ていた。古代の貴族が着用するような、
直衣衣冠といった重そうな衣装だ。頭にはを乗せている。


 色はその体毛を含め、全てがまっさらな白である。



 怒りを
に牙をき、低く唸り声を上げる「犬神」は、桃太郎へと飛び掛った。



 その一瞬、事態は、わずかばかりの
紛糾をみせる。



 桃太郎は「犬神」を前にし、『色斬』を抜き放った。右腕に、今まで使ったことがないくらいの力を込め、八双に構える。


 もう片方の腕にはワンちゃんを抱えたままだった。



 「犬神」の顔は目を背けたくなるほどに恐ろしかった。


 「犬神」の
生立ち、これまでの気が狂いそうな年月積み重ねてきた憤怒や悲哀が、その精悍な顔を憐れなまでに崩してしまっていた。


 桃太郎は『色斬』を握る手に、さらに力と想いを込める。


 絹月の慈愛が、その苦しみを削いでくれると信じた。



 「犬神」が地を蹴った瞬間、ワンちゃんが、桃太郎の腕から這い上がり、肩を蹴って「犬神」の眼前へと跳躍した。


 そしてそのまま、「犬神」と同化するように鼻先へと吸い込まれてゆく。



 だからといって「犬神」の怨念が和らぐことはなく、桃太郎のすることも変わらない。


 桃太郎は自由になった左手も柄へと添え、咄嗟に『色斬』を振りかぶった。



 そしてその首めがけ――




 「!!」




 桃太郎は手を止めた。


 柄を通して不快なぬめり気を感じたわけでも、あの時の恐怖が思い返されたわけでもなかった。


 ダメだと叫んだ。してはいけないと、心が叫んだ。



 「犬神」は、一度その身体に冷たい
凶刃を通している。凶刃は晴れることのない怨嗟のみをその頭部に残し、自在に野を駆け回れた身体と、忠義の魂を、ワンちゃんから奪い去ったものだ。


 『色斬』は救いを与える。その身を傷つける凶刃ではない。


 けれど、だからといって、「犬神」が命を失ったと同じ仮定を、もう一度味あわせることになってもよいとは、どうしても思えなかったのだ。



 桃太郎は自分の意思で手を止めた。振り下ろせなかった『色斬』を
退け、連なる鋭い牙が、桃太郎の細い首筋に喰らいつく。



 痛みは感じなかった。けれど、息が出来なかった。


 そして、なにが起きたのかも判らないうちに、桃太郎は水中にいた。


 完全に遮られた呼吸と、凍てつく水温に意識が叩き起こされ、自分を呼ぶおこまの声を聞くことが出来た。


 意識を取り戻させてくれた冷気はなおも桃太郎の頭を叩き続け、今度はその意識を奪い去ろうとしてくる。




 (残念だ)




 
を乗せた「犬神」の顔がすぐそこにあった。




 (残念だ。久しぶりに侍を喰らえると思うたのだが。残念だ)




 「犬神」の声は、水中であるにも関わらず、鮮明に桃太郎の耳へ届いた。


 それはまるで、あの白蛇が話をするのに似ていると感じた。「犬神」の口は動いていない。


 なにより、犬は言葉を発したりしないのだから。



 「犬神」……様?




 (御前の持つその太刀が斬れるのは、人間の連ねし情念のみ。たとえ振り切られていても、我の身を傷つけること敵わず)




 桃太郎は見た。


 あれほど憐れに崩れていた「犬神」の表情が、雄々しくも寛大な、柔らかい眼差しに変わっているのを。


 その声も、残念とはいいながら、
苦衷まれているふうではなかった。


 『色斬』の力は通用しなかったのになぜ。


 桃太郎は首を傾げようとしたがうまく身体が動かない。



 (ただ、御前の想いは伝わった。御前の手が触れ、御前の腕に抱かれている間、我は久遠の果てに忘却したはずの安息を感じていた)




 そうか……ようありんしたなぁ。ワンちゃん……



 桃太郎の安堵も束の間。「犬神」は言葉を続けた。




 (なれど我が飢えはいまだ治まらず。
此度はその命見逃す。首の傷に免じ、これより三度、御前の危機を救おう。るに三度目の加護を与える前に、我の即身成仏に祈りと供物を捧げよ。さして果たされずば、次こそそののど笛を噛み千切る。心せよ)




 桃太郎は力を振り絞って
いた。「犬神」はそれを確認すると、流れに身体が乱されるかのように揺らぎ、燐光となって消えていった。



 え……っと。その前に、身体がいうことを利き申さん。



 桃太郎の身体は流れながら沈んでいった。


 意識は、「犬神」の消失と共に薄れていった。


 いや、「犬神」の話の間、よくもった、というべきだ。とはいえ、今の状況を自らの力ではどうすることも出来そうにない。


 「犬神」に首を食い千切られるまでもなく命を失いかけているのだ。


 さっそくの救いを期待しながら沈みゆく桃太郎は、卒然、水底ごと押し上げられるように、身体が急速に浮上して行くのを感じた。



 *****!



 桃太郎の身体は水面を突き破った。水飛沫が打ち上げられ、急に耳が様々な音を拾い始める。


 激しく咳き込んだ桃太郎は不可思議な感覚に囚われた。


 確かに今まで水の中にいたはずなのに、身体も、衣服も髪も、まったく濡れていなかったのだ。




 「な、なんで……うっっ!?」




 桃太郎は首を、今度こそ傾げ、首筋に走る痛みに
苦悶する。


 痛みは本物だ。「犬神」に噛まれた傷は、致命傷ではないながら軽いものではなかった。


 凍える水底で「犬神」と話をし、桃太郎は今、
が美しいまでに並ぶ、蛇の尾の上にいた。



 痛みに我慢し視線を移せば、そこには何事もなかったように、水面で座する白蛇がいた。


 白蛇の膝から下は水の下に沈み――つまり、こうなっていたようである。




 「あ、ありがとうございます。お陰で助かりました」




 (神域で、勝手に
人死なんか起こされちゃこっちが迷惑なんだよ。あたしは、命を助けた代わりになにかをしろなんて言わないから、もう安眠の邪魔だけはするんじゃないよ)




 『色斬』を鞘へ収め、頭を下げる桃太郎を岸まで送り届けると、蛇の尾は湖面へと沈み、白蛇の化身である女性の姿は、滑るように滝の裏へと消えていった。


 滝から鎌首を持ち上げていた氷の蛇は、いまや陰もなし。




 「お武家様あぁ!」




 「お、おこまさん!?」




 駆け寄るおこまは憚ることなく、桃太郎の首に抱きつき、とたんに泣きじゃくった。




 「痛だだだだだだあっ!」




 首の噛み傷もさることながら、首を噛まれたまま投げ飛ばされているのだ。
捻挫、もしくは靭帯を痛めているまであるかもしれない。


 走る勢いそのまま強引にしがみ付かれた桃太郎は、激痛に堪らず
悶絶する。




 「あ――ああ。うん、そうだよね。御免」




 おこまの束縛から解放された桃太郎は、力尽き、とうとうその場へ倒れこんだ。



 もうこれは、花魁に叱られるレベルではない、しばらく店にも立てず、
療養しなければならないくらいの大怪我だ。



 病で身上がりするならまだしも、首折って見上がりする娼妓なんて、聞いたことありんせん…………



 「身上がり」とは遊女が借金の上乗せを条件に休みを取ることである。


 病や体調不良の場合に自分の体を休養するためなので仕方がないが、「身上がり」を重ねてゆけばその分だけ年季が伸びることとなり、敬遠されていたのは云うまでもない。


 そんな桃太郎には身上がりしてのんびり休んでいるような余裕はなく、さらに、これから三度命の危険に
される前に、「犬神」の御神体を探し出さなければならない、という約束もしてしまった。



 そうはいっても、取るものもとりあえず、絹月の名代を全うするのが先決だ。


 桃太郎は心にそう決意を新たにするものの、流れ落ちる滝の
飛瀑音と共に、今後の人生設計が瓦解してゆくのを、予感せずにはいられなかったのだった。




 「なんか……もう本当に嫌…………」




 桃太郎は、隣でやっぱり泣きじゃくっているおこまを尻目に、ぐすん、と鼻をすすった。



――――――――――


 命あっての
、という言葉もある。


 危うい場面もあり、順調だったわけではないけれど、せっかく助かった命である。


 危険な夜の山道に、むざむざ奪わせてやらなくてもよいだろうと、おこまは早速の下山を提案した。


 休みたい気持ちも存分にあった桃太郎だが、冷たい雪の積もった山道で迷い、夜を過ごす勇気はこれっぽっちもなかった。おこまの意見に同意する。



 歩きながら、桃太郎は、水中で「犬神」と交わした約束についておこまに話した。


 おこまが云うには、おこま自身にも祟りは降りかかっていないらしい。




 「「犬神」に祟られると、激しい飢えと渇きにのどから胃が焼かれたように痛むんだ。「犬神」はお武家様と契約を結ぶことで、自分の飢えを
いでいるんだろうね」




 「そうなんですか?」




 桃太郎は少し嬉しく呟いた。自分がした約束が、封印という強引な手段以外にワンちゃんの苦しみを和らげているのなら、なによりだと思えたからだ。




 「でもこれは、ちっとも安心できることじゃありませんからね。嘘ついたら針千本呑ます、あれと一緒だよ。約束は、死んだらしょうがない。でも二回は死ぬことも許さない。約束を守れば三回まで助けてやる。その代わり、破ったら死んでしょうがなかったことにしろ、ってことだよ」




 「でも、世の中そうそう死ぬような目になんか会わないですよ。二回も助けてもらえるなら、三回死にかけるまでには見つけられますよ。おこまさんも、手伝ってくれるんですよね?」




 「手伝うもなにも、これはもともとあたいの問題だったんだし、お武家様はたまたま
連座しちまっただけなんだから、そんなことは当然じゃないかい。ということは――」




 おこまはそこで、
らしそうに目を細め、襟巻で隠れた首の傷を気にしている桃太郎の顔を覗き込む。




 「?」




 「もう少し、お武家様と一緒にいられる、ってことだよね!」




 「なにをいってるんですか?」




 「ええ!? なにそれ! だって今――」




 桃太郎は溜息をつきつつ視線だけをおこまへと流し、




 「わたしはもう、よろしくと言ったじゃありゃせんか」




 しれっとこんなことをいった。




 「ええ!? 嘘、あたい聞いてないよ!」




 「そう? それは残念にありんした」




 「――ってお武家様、本当に言ったのかい!? っていうかなにその話し方!」




 おこまの求めていたような言い方ではなかったかもしれないが、桃太郎は彼女の「犬神」に対する心境を知ったあのとき、確かによろしく、と言っている。


 そして桃太郎は、決心をしている。これから短い時間ではあっても一緒に旅をすることになるのなら、おこまには正体を明かそうと。


 それで不信感を懐かれ、離れてゆくのであれば仕方がない。


 なにより本当の自分を知ってもらわないことには、よろしくしてなどはいられないと思ったのだ。



 桃太郎とおこまが洒水の滝から戻ってきたのは、すでに辺りも夜の
を迎えて随分しての頃だった。


 明かりも持たずに出かけてしまったので、木々の隙間から村の
が見えたときには、二人してほっと安堵した。



 けれど、村が近くなるにつれ、その明かりがどこかおかしいことに気づいてくる。



 北村はちいさな村だ。民家は、桃太郎達がとっている宿を含めても数え切れるくらいしかない。


 それなのに、村の周囲を照らして揺れる灯火の数は、不自然なほどだった。




 「おこまさん、あれは、お祭りかなにかでしょうか?」




 「雪祭りかい? この辺じゃ聞かないねぇ。あたい等の帰りが遅いから、山狩りでも始めようってことだったりして」




 「まさか。村の住人がいなくなったわけでもないのに、ありえません」




 「じゃあ、それかも。あたい等には関係なしに、村になにかあったのかもしれないね」




 「行ってみましょう」




 桃太郎は首筋に手を遣りながら駆け出した。


 なぜか、駆け出していた。




 「……御人好し」




 おこまもすぐにそのあとを追う。



 桃太郎はおこまの呟きを受けたことで、走りながらに考えた。



 御
し。村の人が困っているからこうして走っているのだろうか。



 正義感。それは違う。


 道草がてら立ち寄っただけの村に、桃太郎が腐心する理由はない。



 慢心。それも違う。


 自分が向かったからといって、事態が好転するとは思っていない。


 役に立つとか、立たないとか、何かが心配だとか、何かを守りたいだとかじゃなく――胸騒ぎが呼んでいた。気がした。



 果たして。




 「おうおうおうおう! やっと戻ってきやがったな、おこま!」




 村の入り口から
脇往還周辺にする、ガラの悪い弥蔵の群。


 山から見えた異常な数の明かりとは、彼らが手にした
松明だったのだ。




 「え……っと。おこまさん。わたし達の関係ど真ん中だったみたいですけど」




 眉毛のない眉間に
を寄せ、ドスの聞いた声で叫ぶのは、耳に聞き覚えの新しい知り合いの名前だったりして。


 桃太郎は首が痛むから横目で連れを窺うと、おこまは無残に頭を抱え込んでいた。