五話 -3
赤々と燃える窯の火を凝視め、雪路は絶えず一定のリズムで鞴を踏んだ。
鞴が踏まれると火の赤が鮮やかになり、敷き詰められた炭がまるで象犀珠玉の如しであるとさえおもえた。
隣で見ている桃太郎もやらせてもらったが、両足を乗せ、体重をかけてもまともに空気を送り出せたのは一回が限界であった。
さらに窯から噴出す熱気に顔が焼け、到底その場に留まることなど出来なかった。
それを雪路は、同じ工房内にいるだけでも汗が流れる窯の前で、平然と繰り返していた。
いや、雪路の額や首筋からは汗が流れ、身につけた肌襦袢の色は全体的に変わってしまっている。なんともないようなのは表情だけであった。
「桃太郎さま、心配な気持ちはご尤もじゃが、銘は責任を以て入れさせてもらうけん、ここにおっては熱いじゃろ? おこまさん達と一緒に休んぢょってください」
「………………」
「桃太郎さま……?」
「あ、は、はい! なんでしょう!?」
「あ、いや……太刀を、お預けいただいてもよろしいですか?」
桃太郎の狼狽具合がおかしくて、雪路は火を見る表情から打って変わり目を細め、汗の滲んだ手のひらを手ぬぐいで拭いた。
「あい。どうぞ、よろしくお願いします!」
桃太郎が鞘ごと差し出した太刀を、拝して両手にて受け取る。
「ご拝見いたします」
雪路は太刀を鞘から引き抜き、光に刀身を翳す。
息を呑む。
繊細で迷いのない造りはもちろんのこと、浮かび上がる稲妻の刃紋は造りに反して豪快無欠。
鍛えに鍛え抜かれた鋼はまるで柄元から切っ先まで、綿密に計算しながら組み上げたかのよう。
豪壮であり、また、ともすれば向こう側を透かして見ることができそうな、鮮明さを兼ね備えた、見事な鍛造技術である。
「桃太郎さま。自分はこれまで幾本もの刀を見てきちゃったけんど、これ程の名工にはお目にかかったことが御座いません。とても無銘とは思えんのじゃが、なにか謂れは聞いちょらんですか?」
雪路は柄の目貫金を外し、刀身と柄とを切り離した。
柄に隠れていた刃の根元にもやはり銘や印はなく、太刀はまったくのまっさらな状態であった。
「わたしがお姉さんから受け取ったときには、確か『正宗』という刀匠の作だとか」
「正宗……そうですか。これほどの太刀なら、それくらいの名前が出てきてもおかしくはないっちゃですね」
『正宗』は鎌倉時代後期の刀匠であるが出自ははっきりせず、名工ながら知名度も低く、その名が知れるのはかの「秀吉公」が正宗の刀を愛用したことに発する。
また、正宗は自身の刀に銘を入れないことでも有名な刀匠であり、銘を入れずとも誰が作ったのかは明白、と作品にそうとうな自信がようだ。
そのことから正宗作、と名ばかりの贋作も多く、「正宗などという刀匠は存在しなかったのではないか」などと実しやかに囁かれもする、謎の多い人物である。
雪路は刀身を丸ごと、煌々と燃える窯へと突き入れた。
「全部入れちゃうんですか?」
「ええ。鉄は生き物ですけん熱を入れたら膨らみます。これ程までに完成されちゅ刀では一部だけ熱を加えると背が伸びてしまいますけん、全体に同じ感覚で火を与えます」
「後から銘を彫るのは、やっぱり難しいんですよね……こんなことを頼んでしまって、澄みません……」
「いえ。瓦を焼くのも火加減。備中、備前には、赤銅を使ったベンガラ、っちゅう鉄の瓦もあって、刀はその過程で学んだに過ぎませんちゃ」
「でも、雪路さんに引き受けてもらえて、実は知らない刀鍛冶に頼まなくて済んだこと、安心してるんです」
「……………………」
雪路は窯から目が離せなくなっているようだ。
はっとして、桃太郎は自分の口元を押さえつけた。
「ご、ごめんなさい、集中してくれているのに、ぺちゃくちゃ話しかけたりして……」
大切な桃太郎の太刀を扱っているのだ。もちろん集中はしているが雪路が黙り込んだのはそれだけではないことくらいは明らかであり、岡目八目。
雪路は焦りそうになる気持ちを堪え、頃合いを見て刀身を引き抜いた。
「あいや、決して、そんなことはっ……桃太郎さま。それで、太刀に刻む銘は……?」
桃太郎は問われ、唇の前で交差させていた人差し指の封印を解いた。
「銘は『色斬』……『色斬絹月』と」
「……合点っ」
石の台座へと赤く赫く刀身を固定し、雪路は細かく鑿を打ち下ろしゆく。
その様子を桃太郎は見守った。
なぜ、『絹月』と加えたのか。それは桃太郎にも分からなかった。ただ、そうすることが正しいとおもったのだ。
この銘こそが、この太刀には相応しいと、ふと感じたのだ。
おいらん……おいらんに、わたしが懐く不安はなにもあらせん。なにもあらせんよ……
「――さあ、出来ましたよ。どうですか?」
雪路が金槌と鑿置いた。さっきまで赤々としていた刀身はこれまでにみたことがないくらい黒く煤こけてしまっていた。
雪路の手によって刻まれた刀の銘だけが、白く輝き浮かび上がっているかのようだった。
『 色 斬 絹 月 也 』
******っ!
「ああぁあっ!」
「桃太郎さま――!? いけんですよ、まだ焼け付いちょります!?」
雪路は桃太郎の手を引き、桶の冷水に焼け爛れた手のひらを突っ込ませた。
『色斬絹月』。銘が刻まれたばかりのその刀身へ、桃太郎はためらうことなく左の手を下ろしたのである。
皮膚の焼ける嫌な音と聞きたくもなかった桃太郎の悲鳴。
雪路は自分の落ち度であると苛まれたが、桃太郎は少し苦しそうに笑って首をふった。
「これでおあいこ……」
「え……?」
ややしてのち、桃太郎は桶から左手を持ち上げた。火傷の痛みからと冷水で冷やされたことでほとんど感覚のない手のひらを顔に向ける。
皮が裂け、内側の肉を剥き出しにした縦のライン。
すぐに血が滲み出し、赤くなってゆくその火傷を誇らしげに見つめる桃太郎は、隣の雪路に照れたように笑った。
「はっきりとは読めませんね」
「桃太郎さま……まさかわざと……――兎に角すぐにおこまさんを呼んできます。もうこれ以上、へんくーな真似せんどってくださいね!」
*******!!
雪路は焼けた『色斬絹月』を、刀身を冷ますための水に浸け、だっと急ぎおこまを呼ぶべく駆け出した。
『色斬』は、経緯はどうあれ桃太郎の姉女郎の命を絶った刀であった。それも、桃太郎の手の中にある時に。
『色斬』は絹月から預かった大事な品だ。そんな刀を自分の血なんかで穢すわけにはゆかなかった。
しかし『色斬絹月』であれば、姉女郎からの「仕返し」であれば、たとえ絹月が望んでいなかったとしても、それを受けることが出来ると考えた。
これはきっと、絹月にしてみても不意の一手だったのではないだろうか。
「へんくーってなんですかぁ?」
これでようやく、あの時失ったモンを取り戻せた、と思った。
お姉さん。
桃太郎は、この旅で多少ですが、ひとりで生きてゆける力を身につけられたでしょうか。
誰かを、助けてあげられる力がついたでしょうか。
でもこれで、ようやく『色斬絹月』を持つ理由ができなんした……
桃太郎の疑問に答える者はすでになく、水に沈んだ『色斬絹月』だけが、ぷくぷくとちいさな気泡を浮かべていた。
――――――――――
どんどんどんと足音も激しく、工房の戸を引き開けたおこまは、その時点で目が据わっていた。
直線的に桃太郎へと歩み寄り、なにも云わずに平手を一発。
「…………ったぁあ。おこまさん、今のは不意打ちです……」
「もう――」
おこまは膝をつき、桃太郎の左手の具合を診る。
酷い。火傷の傷はもとより、出会ったばかりの頃より引き摺っている皸は、いまだに時々裂けては血を滲ませ、彦九郎の小刀で負った右手の切り口も、その痕をくっきりと残している。
それに加え、経験のない長旅、厳しい寒気、過労、プレッシャー――桃太郎の手も足も窶れ、擦り傷だらけで薄汚れ、とても吉原のお女郎さんの身体だとは思えない有様となっていた。
同じ距離を歩いてきたおこまの手足に比べても、その様は顕著であり、慣れない旅を無理して続けてきたことは明良かであった。
だから、自分で気をつけることが出来る怪我くらいはと、口煩く言ってきたのに。
「――もう、やめななよ、こんな旅」
分かっていた。今更やめてどうなる? それこそ、ここまでの道のりが無駄になることだし、桃太郎にその選択肢がないことくらい分かっていた。
それでも口にするくらいはいいだろう。
きっと誰も言わないことだから、せめておこまくらいは、そんな選択もあるということを、伝えておきたかった。
おこまの表情はよく分からない。桃太郎の左手を取り、その姿は跪拝するかのようであった。
桃太郎は丁寧に梳られた頭部の分け目へと視線を落とす。
「だって、もう、ぼろぼろじゃないか、お武家様……こんなになってまで太刀を届けて欲しいだなんて、姉女郎さんも望んじゃいないはずさ。それに、本当は遠江で済むはずが京、そして今度はわけの分からない島まで――それを終えて、はい届けましたでお武家様自身には、なんの得もないじゃないか。
礼を言ってくれる姉女郎さんはいない、全身傷だらけになって、帰る場所だって所詮は女郎部屋だ。そこの主人だって音沙汰のないあんたを待っててくれてるとは限らないし、こんな身体のあんたが戻ったところで、同じように囲ってくれるとは到底おもえない。
それでも続ける理由はなんなんだい! そんなに、任された仕事が大事かい!?」
いきなり平手をかましておきながらなんだが、感情的にはならないよう気をつけていたおこまも、とうとう最後には叫んでしまっていた。
華奢な桃太郎を掴む手にも力が入ってしまっている。
火傷の痛みを思い出し、顔をしかめた桃太郎はそれでも左手はそのままに、右の手を、おこまの犬耳の下から肩へ添える。
「おこまさん。わたしは、死んでいたんですよ。
吉原が焼けたあの日、お姉さんがいなかったら、蘿蔔をどうすることも出来ずに死んでいたんです」
桃太郎は、もしかしたら自分がここにはいなかったかもしれないことを、正直に告白した。
おこまの肩が微かに震えたが、桃太郎は言葉を続ける。
「北村でも、おこまさんやワンちゃんがいなければ、わたしは鞍右洲の放電を受けて死んでいたでしょうし、彦九郎のときも、松金さんが助けてくれなかったらきっと凍え死んでいたとおもいます。
駿府城下で襲われたときのことなんて、今から思い返しても寒気がしますもん。
本坂通りのときもそう。
京での桜木だってそう。わたしは、何度も何度も死んでいるんです。死んで、いなくなってもおかしくなかった。
でも、わたしはまだ生きています。なぜだか分かりますか?」
それはもちろん、その度に、桃太郎を助ける手があったからだ。
答えは簡単だ。でもおこまは顔を上げられない。
代わりに答えたのは別の声だった。
「お前がピンチの時には、俺様達が助けてやっていたからだ」
「松金さん……ずっと覗いてたんですか?」
「あ、いや、そのじ、自分は……っ!?」
戸口の端から顔を出している雪路が慌てて飛び出してきた。
正面に座る松金さんの方は堂々としたものであり、
「さっきからここにいた。お前達が話に夢中になっていただけだ」
などとしゃーしゃー言ってのける。
桃太郎は含羞んで視線をおこまへと戻した。
「でもそう。おこまさん。松金さん。そして雪路さん。みなさんの助けがあったからこそわたしは生きてここにいます。
多少怪我はしましたけど、誰のためにもならない旅かもしれないけど、わたしを待っていてくれる人はもういないけど――わたしには仲間ができました。
生まれて初めての、友達ができました……ですから、みなさんと一緒ならこれから先も、そのまた先も、大丈夫だと思えるんです。
はじまりは絹月姉さんから託された旅路でしたけど、どうせなら、自分のために歩いてゆこうと、そう思えるようになりましたから!」
「この先も……?」
おこまは顔を上げた。
頬を温かい雫が伝う。
「あい。その先も!」
その先――本心をいってしまえば、おこまは桃太郎に、この旅を終えてもらいたくはなかったのであった。
吉原で一度死んでいる桃太郎にとって、唯一命をつなぎ止める楔となった理由であるのがこの絹月の遺言だ。
それを全うしてしまったら、桃太郎は命を絶ってしまうのではないか。
そんな不安が拭いきれなかったからだ。
遠江で、桃太郎が保土ヶ谷誠次郎から太刀をつき返されたのを知り、心底ほっとしたのである。
だから、目的半ばで旅をやめれば、桃太郎は後悔するだろうが死なずに済むと考えた。
おこまの不安は、正解であった。
桃太郎は命を絶つつもりでいた。
いや、きっとそうするだろうということが自分でも分かっていた。
絹月の名代を終えてすぐではない。桃太郎には吉原で絹月からの教えを伝える役目が残っている。
その日は、自らの年季を明けた後、絹月の命日である一月十八日と決めていたのであった。
それがどうだろうか。その場におこまがいたら、松金さんや雪路がいたら、桃太郎は命を断つだろうか?
答えは「否」。
断てるはずがない。
彼らを残し、発てるはずがない。
「この火傷は……?」
「これは……その、え……っとぉ」
火傷は決意表明である。
命を絶たない代わりに消えない傷を負い、生きてゆく枷とした。
これまで引き摺ってきた手枷を外し、足枷をつけ直したようなものではあるが、どちらが軽いかは人それぞれの歩み方に依る。
「これまでは、『色斬』を運ぶ振新・桃太郎でしたが、これからは、『色斬絹月』を振るい、鬼退治をする桃太郎です。
そのための、けじめというか、覚悟というか……だからすいません。この怪我だけは大目にみてください」
その所為だろうか。おこまがここに来て以来、桃太郎の口から廓詞が出てこない。
おこまは溜息混じりで目元を拭い、「そういうことなら」と立ち上がった。
「松金さん、雪路さん、話は聞いてただろ。ちょっと来てくれるかい?」
「人間はなにかと面倒でやれやれだ……」
「ちくしょー。なんだか分からんちゃけど泣けてきよる……!」
ようやっと出番が来たか、とでも言いたげに戸口をくぐってくるふたりへと、おこまは、桃太郎の左手を持ち上げながら、とんでもない事を口にした。
「お武家様が負ったこの火傷は、聞いてのとおりだよ。なのに、一緒に鬼退治に行くあたい等がなんの覚悟も背負わないわけにはゆかないよね? そこで、今からあたいの秘術で、この傷をここにいる三人と一匹で分担する。なにか異存のあるお人はいるかい?」
「えええっ!」
真っ先に、ひとり声を上げたのは、なにを隠そう桃太郎である。
嘘は言っていない。言っていないながら、鬼退治云々というのは理由の半分でしかないのだ。
「だって、いや、それは――っ」
「はい、決まり。それじゃあはじめるよ……」
「え! ちょっとおこまさん!?」
おこまにとって、桃太郎の異論は想定内。そしてもとより聞き入れるつもりはなかったようだ。構わず呪文を唱え始めてしまった。
「――我が周囲に行き渡る 意思を伝え 受け入れる器よ……」
「雪路さん! あなたはいいんですか!? 職人なのに手に怪我をしたりして!? それに鬼退治ですよ!? これまでより、もっと危ない目に遭うかもしれないんですよ!?」
雪路はなにかを悟りきったふうな表情で頷くと、汗ばんだ肌襦袢の袖をめくり、逞しい左腕をつき出した。
「桃太郎さまと同じ怪我を負うんなら、自分、この腕が捥げても構わんです。大死一番! 鬼退治じゃろうが地獄じゃろうが、お供しちゃります!」
「ま、松金さん! 松金さんは、こういう「心中だて」みたいなの嫌いですよね!?」
「心中だて」とは廓でいうところの「仕置き」の一種だ。
「情死」や「血判」など趣向を凝らし、この想い果ては死してなお、と嘯き、遊女が何人もの色客をつなぎとめるために行う技である。同じ傷を背負う、という意味では、これも「心中だて」に相違ない。
そんな桃太郎の前に、松金さんは黄金色の毛が生えた左腕をつき出した。
「実はな桃太郎。駿府で石鬼を退治したとき、ちょうど町娘が通りかかるよう仕向けたのは俺様だ。どうしてもお前と二人で話がしたくてな。これは、その時の埋め合わせも含めて、だと思えば納得もできよう」
「今、そういうことをいいますかぁ!?」
そういえば、あの時はそれどこれはなかったけど、後々に考えて、どうにもうまく行過ぎているような気はしていたのだ。
「……の枠組みを離縁することなく 推移天秤棒に吊り合わせ――」
「あぁあ! あ! ……ああ」
そんなこんなしている内におこまの術が完成する。
落胆する桃太郎の火傷は傷の度合いを見る間に弛め、反対におこま、松金さん、雪路の左手には、桃太郎のものとまったく同じ火傷が浮かび上がったのであった。
旅は道連れ。世は情け。
同じ釜の飯はまだつついていないが鬼との戦いを経験した者同志、一蓮托生。
それは、まぁ嬉しいことには他ならなかったわけでもあり。桃太郎は改めて全員の顔を見回し、ひとりではないことの意味を知った気がしたのであった。