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           一話 - 



 膝を落とす桃太郎の目の前で、絹月は、口の中いっぱいになった血
を吐き出した。


 紅い椿が首を落としたそのあとは、白い積雪がとさり落ちるかのよ
うに、絹月の蒼白となった顔が座敷へ横たわった。


 絹月の息はすでになく、時は進むばかりで巻き戻ることは決してな
かった。花魁・絹月は燃えゆく初代吉原で、艶やかな花のままその命
を散らして見せたのである。




 「――――――――」




 桃太郎の涙は、あまりの慟哭の所為で引っ込んでしまっていた。



 絹月は笑ってその命を絶った。それは、梁に押しつぶされる痛みか
らの解放を願って、のことではなかったはずだ。


 気高く最後まで花魁であろうとした絹月だ、このまま倒壊の下敷き
になることや、
(ほのお)で焼け死ぬことをよしとしなかったのかもし
れない。また、自分を残して立ち
()なければならない桃太郎に踏
ん切りをつけさせ、
慙愧(ざんき)を断ち切るためだったのかもしれない。


 どれだけ考えようとも心理を知る
(すべ)は最早ない。



 どれだけ考えようとも、桃太郎が手にした太刀が、絹月を刺し殺し
た事実は変わらない。




 「――――――――」




 狂ってしまえ。



 髪を掻き乱し、着物を引き裂き、悲劇を喚き、嘆き、心を空っぽに
してしまえ。



 狂ってしまえ。狂ってしまえ。



 刀ならあるぞ。刃を見ろ。赤くこびり付いた血糊を見ろ。誰の血だ?


 お前の愛した者の血液だ。



 狂ってしまえ。狂ってしまえ。狂ってしまえ。狂ってしまえ
――ああ!



 お前の愛した者は何を願った? 生き残ったお前の幸せか?



 違う。



 一緒に苦しんで貰いたいと願ってはいなかったか? 絹月の声がお
前には聞こえなかったのか? 絹月は怨んではいなかったか? 自分
を残し、朽ちゆく苦界から抜け出すこともできるお前を、怨んではい
なかったか? お前に罪を背負わせたのはそのためだ。その太刀を見
ろ。今やお前の手から離れようとしないその太刀を。



 狂ってしまえ。


 刀ならあるぞ。


 狂ってしまえ。


 刃を見ろ。


 狂ってしまえ。


 紅い血糊がお前を誘う。


 狂ってしまえ。


 その刃を次に突き立てるのは、お前の――



 絹月の無念が分かるか?


 絹月のしてきた努力がお前に分かるか?


 絹月の苦悩が分かるか?


 絹月の――


 絹月のやさしさが分かるか?



 ――桃太郎っ?



 ――――絹月お姉さんの前で、恥ずかしい姿は晒せない――――



 発狂してしまいそうな感情を押し留めているのは、理性ではなか
った。


 たった一つの誓いが、心を桃太郎で在り続けさせた。




 「――絹月
姉女郎(お ね え)さん。長い間のお役、御疲れ様にありん
した……」




 溢れかえる鬼の声を振り払い、桃太郎は『色斬』を膝の前に寝か
せ、深く、ただ深く、座敷に額をつけた。



 ようやっと、何度も口から出ようとするのを押し込めていたこれき
りの台詞が言えた。


 絹月の
気位(きぐらい)を受け継いだ桃太郎が、単なるお礼の言葉を言う
のでは相応しくない。『灸なり』を旅立つ絹月が、悔いなく去れるよ
(ねぎら)いの意味を()しだした永遠の、別れとなる言葉である。



 桃太郎は顔を上げた。


 たとえ、絹月が叶わぬ年明きを
()い、桃太郎を怨んでいても、
それはそれで構わないと思えた。


 心を掻き乱す鬼の声より、絹月は桃太郎に最後の名代を託した。ど
んな巧妙なかどわかしも、その
真摯(しんし)な願いには勝りはしないと
思えたから。



 桃太郎は『色斬』を手にし、巻いてあった長布で刀身の血糊を拭き
取ると、鞘へと収めた。続いて、血を吐き、
(よご)れた絹月の口元を
長布で
(ぬぐ)った。




 「おいらん……
(かんざし)一本、形見に頂戴してもいいでありんす
か?」




 ちょっと待ってみても絹月からの返事はない。桃太郎は袖口に気を
つけるよう腕を伸ばし、絹月の伊達兵庫から、鼈甲の簪を一本だけ引
き抜いた。


 そうして腕を戻すと、絹月の口元には笑みが浮かんでいた。


 桃太郎は、絹月がまるでそうしてくれるのを待っていてくれていた
ような気がして、くしゃりと
微笑(ほほえ)み返した。




 「おいらん……本当に死んでありんすか?」




 桃太郎は簪を胸元へと仕舞い、絹月の血を拭き取った長布を丸め、
『色斬』と一緒に抱きかかえると、その場を立ち去った。目頭の熱い
ものは、これ以上ここにいては、堪えることができそうにない。



 こうしている間にも、火の勢いは増し、妓楼全体がみしみしと啼い
ている。



 半分以上が天井によって押し潰されている座敷入り口の残骸を

(また)
ぎ、今度は襖から突き出た枠木に気をつけながら、廊下へ出た。


 廊下の熱気は中庭と通じている所為か、まだそれほどでもなかった。


 桃太郎は
(すみ)で倒れた行灯(あんどん)に目を奪われた。滴っている油
には、運よく火が燃え移らなかったようだ。そして視線を戻した廊下
の先、中庭へと通じる階段が都合よく燃えていた。



 桃太郎はあと少しだけ歩いて歩みを止めた。焔の熱と凍える空気
が、空虚な曖昧さを際立たせていた。




 「あ。桃太郎ちゃん! やっとみつけた!」




 般若――っと、角があるから、もう――鬼の方か。




 桃太郎は焔羅の向こう、陽炎に歪んで立つ、
蘿蔔(すずしろ)を見つける。


 蘿蔔が、場違いなほどの高い奇声を発するより先に、少なくとも、
桃太郎には人ではない何かの姿が見えていた。



 桃太郎は燃える階段を迂回し、手摺から雪の中庭へと飛び降りた。




 「痛っ……」




 今、切ったばかりの指先を思い出し、桃太郎は僅かに眉をひそめた。
赤く滲んだ
足袋(たび)が、白い雪に雫を落とす。




 「怪我してるのね? 大丈夫?」




 蘿蔔の顔は歪んでいた。歪んだ怨みに笑っていた。


 赤い肌はまるで焔に
()(ただ)れたかのようであり、(ひたい)
ら、ちょうど眉毛の上辺りから二本の不恰好な角が生えている。その
所為でまぶたが押し下げられ、歪みの原因となっているようだ。同
じ、笑うという仕草でも、絹月とはまったく別物であった。




 「す――蘿蔔。本当に、あなたが、起こしたことなの……?」




 「そうよ? なんだ。ちゃんと聞こえていたんじゃない!」




 桃太郎は立ち上がり、辺りをぐるりと見遣り、赤く染まった星のな
い空を見上げるようにして訊ねた。燃える『灸なり』を眼に焼き付け
るかのように訊ねた。夢の声が幻でなかったことを確認するために、
訊ねた。



 ――そうだ。




 「ちゃんと聞こえていたんなら、なんで桃太郎ちゃんは死んでな
いの!」




 カッ、と蘿蔔の身体から紅い火花が散った気がした。


 蘿蔔の抱える、怒りや辛みを具現化したような赤だった。けれど、
蘿蔔は気づいていない。桃太郎が、蘿蔔の言葉など、最初から意に

(かい)
していない、ということを。




 「桃太郎ちゃんにも見せてあげる! こうやって――っ!」




 蘿蔔は右の腕を突き出した。赤い皮膚が一瞬鮮やかに発光したかと
思うと、発光が突き出した手のひらへと集まり、火縄銃の発破を連想
させる火花を散らした。



 ********!!



 蘿蔔の手のひらと火花の先、桃太郎が歩いてきた、絹月の座敷へ続
く廊下の壁が爆ぜ、ぼっと火の手が上がる。とても、人間の所業では
なかった。




 「でもアタシがやったのはほんの少しだけよ。あとはみんなで勝手
に火事を拡げて……当然よね。あれだけ提燈だの行灯だの、派手に掲
げていれば。あっという間にこの様だったわ!」




 火事は『灸なり』だけでなく、吉原全体に拡がっているのだろう。
山谷掘を渡り、お
歯黒(はぐろ)(どぶ)に囲まれた吉原の火事は、市中へ
救助を頼んでも、火消しが来るまで待ってはいられない。


 吉原大炎上。果たして、幾人の遊女がこんな日を待ち望んでいただ
ろう。


 こんな町などなくなってしまえばいいと願っただろう。


 蘿蔔の
(うら)みなどは、そんな、桃太郎が仕方がないと受け止めて
きた情念の、ほんの一部にしか過ぎないのだ。



 それでも、なにも今日でなくてもよかったはずだ――



 桃太郎は『色斬』を抜いた。




 「桃太郎ちゃん……?」




 『色斬』を八双に構えると、駆け出した。といっても中庭は十畳ほ
どの広さしかない。お互いの距離もすでにほんの僅かだ。




 「そんな危ない物、遊女風情が持ってるんじゃないわよ!」




 蘿蔔は右腕を突き出した。赤い肌が発光を始める。


 間に合う。


 どんなに急いでも、着物での一歩は高が知れたもの。


 この一発は桃太郎の身体を貫き、背後の雪を融かし、妓楼にまた新たな火の手を生むことになる。そう確信した蘿蔔は、狙いを付けるべく桃太郎を捉え、彼女が手にした太刀に、目が行った。




 「あんた――それ――」




 一寸の戸惑い。しかし時間は事足りた。




 「ためらわず――っ!」




 桃太郎が袈裟懸けに振り下ろした刃は、ほとんどなんの抵抗もな
く、蘿蔔の身体を通過した。


 弾けて散る全身の赤色と同時に、蘿蔔の額から生えていた角も、自
らの熱に耐え切れなくなり焼け消えた。




 「アタシは――」




 ――そう……いうことなのかな……




 ばたりと、背面から倒れる蘿蔔は眠っているようであった。


 蘿蔔を斬ったはずの『色斬』には、一滴の血もついてはいなかった。


 はじめは、「ためらわず」人を斬れるように絹月がその身を挺した
のだと思った。


 でも、『色斬』を構えた瞬間、そうではないのだと知った。




 「空も、時も、越えてゆける……そうでありんすなぁ。。。お姉
さん?」




 『色斬』――人の
情念(い ろ)を斬る刀。情念(い ろ)だけを斬る刀。


 時を巻き戻すことはできないけれど、絹月は年明き目前に命を落と
したことを最後まで悔いもせず、恨み言も口にしないで、刀で自害し
たときも、迷いひとつない笑顔でこの世を去った。



 起こってしまったこと、
(いだ)いてしまった念は仕方がないこと。
全てを受け止め、情念を断ち、空も、時も、越えてゆく。



 絹月は自らの命を捧げることに依り、『色斬』に相応しい力とした
のではないだろうか。


 「罪」を「罰」で征するのではない。大いに騒ぎ、愛撫を交わし、

一夜
(ひとよ)
限りの夢だとしても怨み、辛み、(そね)み、苦しみ、
(ねた)
み、(しがらみ)重圧(じゅうあつ)、悲しみ、孤独な淋しさ、全てを
忘れ、明日を生きる力となれる。そんな、苦界にありて輝き色褪せな
い、吉原遊郭の誇り高き御女郎のような力を、この刃に込めたかった
のではないだろうか。



 桃太郎になら、それが分かると、信じたのではないだろうか。



――――――――――――――――――――――――――――――


 「ありがとう。惣吉さん。なにからなにまでしてもらって」




 「そ、そんな、なにからなにまでって、俺はたいしたことしてない
ぜ……本当に、こんなもんで良かったのかい?」




 明暦三年一月二十日。


 吉原のみならず江戸市中へも拡がり、のちに「明暦の大火」とし
て、歴史に載るほどの大火事がようやくの沈静をみせた二日後、まだ
日も明けやらぬ早朝、桃太郎はあの晩、転がり込むように身を寄せた
札差・志村屋惣吉と、短く言葉を交わしていた。



 あれから、『灸なり』周辺の火の手が治まるのを中庭でやり過ごし
た桃太郎は、気絶したままの蘿蔔を伴い、隙をみて表通りへと飛び出
した。そこで避難誘導に当たっていた険番を見つけると蘿蔔を預け、
自分はさっさと待機していた猪牙舟へと飛び乗った。


 もしも利兵衛や『灸なり』の者に見つかったとき、自身に起こった
ことといい手にした『色斬』といいを、どう説明するべきかが分から
なかったからだ。


 もしも自分が死んだものと思われているのなら、今はその方が

肯綮
(こうけい)
と判断した。



 舟を降り、火事に色めき立つ市中を
()(まよ)い、目的の札差を
見つけたことは、吉原の外をほとんど歩いたことのない桃太郎にと
って、運がよかったとしか言いようがない。




 「他に頼れる人も思いつかなくて、どうか、一晩身体を休ませては
もらえませんか?」




 髪は乱れ、汗と
(すす)(まみ)れた桃太郎が息つきつつ、
襤褸
(らんる)
さながらの姿で訪ねると、惣吉は鼻血を流しながら快く
母屋
(おもや)
を開いたのだった。



 助けを求めておいてだんまりというのも気が引けたので、桃太郎が
自身に起こった出来事を掻い摘んで(蘿蔔のことや『色斬』の力はお
いておき)話そうとしたところ、惣吉は断固として聞こうとしなかっ た。


 そればかりか桃太郎のために自ら風呂を沸かし、絹月の代理で太刀
を届けにゆかなければならない、という桃太郎へ、武士が身につけそ
うな上等な袴と陣羽織を用意してくれた。なぜ男装かというと、




 「設定は、
元服(げんぷく)前の武家の息子、ということにしよう」




 「でも、なぜに男を装う必要がありんすかぁ?」




 「当たり前だろ! 町の外は危険なんだ。特に桃太郎ちゃんみたい
なか……かわいい娘は、ひとりで旅をするなんてもっての他なん
だよ!」




 とのことで。



 どこか、それはそれで強引な気もしなくもないが、そうはいっても
桃太郎。世間の事情にはまるきり疎い。親身になってくれる惣吉の顔
を立てる意味も含めて、元服前の武士、という設定を了承する。刀を
運ぶのだし、ちょうどいいようにも思えたのだ。



 風呂を借りた際、髪を
(くしけず)り、島田潰しではなく、(びん)を整
え前髪をつくり、髷を結うように高く髪を結んだ。


 元服前の武士の子供が結う、
前髪(まえがみ)、という髪型に近い。た
だ、頭頂部を
月代(さかやき)に剃るのは勘弁してもらった。


 化粧はせず、代わりに、墨をもっていつもより太い眉を書いた。


 肌身離さず持ち歩きたい、という意味を込め、絹月の鮮血を拭った
長布をさらし代わりとして身体に巻きつけはしたものの、華奢な胴回
りは陣羽織を着ることで誤魔化すしかなかった。


 桃太郎がもともと身につけていた簪、小袖、帯などは、一様に惣吉
が預かってくれることとなった。




 「あ。そうだ桃太郎ちゃん。これ……」




 暗い空に明星が瞬く中、札差・志村屋の軒先で、惣吉が差し出した
のは一本の
鉢巻(はちまき)だった。中央に、これ見よがしな桃の刺繍がさ
れている。




 「かわいい――けど、この格好では似合わないのではありせんか?」




 「そんなことないよ! 絶対に似合うからつけてみなって!」




 実はこの鉢巻、今回用意したものではない。桃太郎と芸子遊びをす
る日を夢見て、こっそり準備していたものなのだ。本来の使い道は、
鉢巻ではなく、♪鬼さんこちら〜っ、と惣吉が目隠しをするために使
用する。



 惣吉からのプレゼントとあっては
無碍(むげ)に断ることも出来ず、桃
太郎は、桃の鉢巻を締めると、なかなかどうして気が
()(しぼ)
られた感じがして、感じは良かったのだ。




 「惣吉さん、本当にありがとう。無事に帰ってこれたら、その時
は、また改めてお礼に参りんす……」




 「うん。桃太郎ちゃん。俺、いつまででも待ってっから。気をつ
けて。

  ――あ。それから、ちょくちょく出てっから、ありんす(ことば)
も気をつけて!」




 こうして、桃太郎は江戸の町を発つ。
 目指すはここより西に約五十里(約200キロ)
遠江(とおとうみ)
(くに)
、保土ヶ谷誠次郎の武家屋敷である。



 女の足で歩ききることが出来るのか、そんな不安は一切なかった。


 吉原炎上の知らせは、
()えて保土ヶ谷誠次郎まで届けられるこ
とはないはずだ。待ち人来たらず。来るはずのない身請け相手を待ち
続ける保土ヶ谷誠次郎に、絹月のことをしっかり伝えなければなら
ない。それこそが、桃太郎が
(たまわ)った最後の名代なのだから。



 桃太郎の前に現われた鬼、そして情念を斬る刀『色斬』。


 この世に生まれてこの方、平穏という言葉には縁遠い、波瀾万丈奇
々怪々摩訶不思議な桃太郎ちゃん伝説が、今まさに、幕を開けたので
あった。