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          四話 



 ――おいらん。おいらんは、わたしになにをさせたかったのであり
んすか。



 ――桃太郎。この太刀に銘を入れ、保土ヶ谷誠次郎様のもとへ――
届けておくれでないかい?



 ――おいらん。おいらんの
色客(い ろ)は素敵な御仁にありんした。
誠実で、おいらんの死を悼み、悔いてくださいました。故に、『色
斬』は受け取れぬと仰られておりました。



 ――この太刀に銘を入れ、保土ヶ谷誠次郎様のもとへ――届けてお
くれでないかい?



 ――おいらん。『色斬』とはなんなのでありんすか。保土ヶ谷様
は、そのような銘は知らぬ、と
(おっしゃ)られておりました。おいらん
は、なんして『色斬』などという銘を――そしてなんして、わたしに
それを――



 ――お前以外に誰がやってくれますか?



 ――………………



 ――頼みましたよ。桃太郎。



 ――おいらん。また、からかってありんすか……?



 薄暗い部屋で、
行灯(あんどん)の灯りがちらちらと揺れていた。時刻は
どのくらいだろうか。まだ昼間であることは分かる明るさだ。そうい
えば、朝から天気はよくなかったな、と桃太郎は身体を左右に捻った。


 右の窓際に松金さんがいなせに腰を下ろしている。左の火鉢を

(いじ)
くっているおこまがいた。




 「おや。目が覚めたかい」




 桃太郎は重たく頭を吊り上げるふうに半身を持ち上げた。




 「ちょっと、大丈夫かい? いきなり起き上がったりして」




 「あい。とくに、身体を痛めていたわけではありませんから……」




 「……怪我、おでこと肩は治療しておいたからね」




 「あ、あい。その、ありがとうございます」




 桃太郎は
肌蹴(はだけ)た肩口の包帯と額の絆創膏(ばんそうこう)に気がつい
て、今回ばかりは素直に感謝を述べた。そして蒲団を押し
退()け立
ち上がる。




 「それで、桃太郎。お前はこれからどうするのだ。刀は、渡してい
ないようだが?」




 「――おこまさん。着替えます。わたしの荷物を」




 桃太郎は松金さんの質問には答えず、火鉢に当たりすぎたか頬が赤
いおこまから荷物を受けとると、畳まれた陣羽織、袴などを取り出
す。そして帯をほどき、小袖を脱ぎ捨てた。




 「――摂津へ」




 背景は冷たい雨。前歯を剥き出しに松金さんは閻魔のように笑った。




 「ほう。行って如何とする?」




 桃太郎は髪の
(かんざし)をはずし、結わえていた鉢巻を取ると、ぱっ
と黒髪が背中に散った。




 「決まってありんす。鬼退治!」




 桃太郎は決めたのだ。


 見極めると決めた。


 絹月が、嘘をついているとはどうしても思えなかった。しかし、保
土ヶ谷誠次郎が偽りを語る必要はない。


 ならば、もうひとりの『保土ヶ谷誠次郎』に会って見極める。


 『色斬』の意味を。絹月に与えられた、本当の名代の意味を。




 「だが俺様の向かう先は京の都であったはずだ。船を襲った鬼の目
的も京にあったのかもしれん。まずは京へ向かった方がいいだろう」




 「ああ、それならちょうどいいよ。あたいのご先祖様が遣唐使に行
く前に仕えていた都は京の
摂関(せっかん)政治(せいじ)が中心だったから
ね、藤原道長
所縁(しょえん)の御所でも探せば「犬神」の御神体が見つか
るかもしれないよ」




 なにも問わず桃太郎の意を汲み取り、松金さん、おこまと旅の指針
に的確なアドヴァイスをしてくれる。



 なんして――なんしてでも構いんせん。



 心地いい。


 この二人といることが、なにより心地よいと思えた。保土ヶ谷誠次
郎の前で味わったような希薄な背景ではない。自分を感じることが出
来る。


 陣羽織に腕をとおし、鉢巻を結ぶと、「やっぱり、その方がお武家
様らしくっていいや」とおこまが含羞みを浮かべた。




 「よし。目指すは古都
京洛(きょうらく)! お(ふた)方とも、ご尽力、お
頼み申し上げます!」




 こうして、桃太郎一行の京都入りが決まったのであった。


 実は、『保土ヶ谷』の屋敷で卒倒した桃太郎は、そのまま日を跨い
でしまっている。出発の際、時刻が昼前なのを知り、流石にそれはお
かしかろうと訊ねたところ、そういうことのようであった。


 おこまにはかなりの心配をかけていたらしい。教えてくれたのは松
金さんだ。そんな松金さんは、桃太郎のために夜通しおこまを探し回
ってくれていたようだった。


 桃太郎は二人に深く感謝し、二人がいたからここまで来れた。二人
と一緒なら、この先の道も無事に越えることができると信じられた。



――――――――――――――――――――――――――――――――


 さっそく、おこまの提案で東海道を外れ、「本坂通り」を進むこと
となる。遠江の語源でもある「
(とお)()(うみ)」を意味する汽
水湖・
浜名湖(はまなこ)の、北側を越えてゆく脇往還であり、この道はの
ちに「姫街道」と呼ばれることになるのは、見目麗しい若侍とその一
行が、道中
引佐(いなさ)峠の鬼を退治したことに由る、かどうかは定か
ではない。



 おこまがこの脇往還を推奨したのは、東海道筋にある浜名湖南、新
居宿の関所と
(いま)(きれ)(わた)しの船賃を敬遠したためだとおも
ったが、途中、この「本坂通り」にも
気賀(きが)宿という宿場町に関所
があることが分かった。


 今回は念の為先にどうするのか、と訊ねたところ、




 「『犬くぐり』?」




 「そう。関所が閉まっている時間や夜間でも行き来ができるよう
に、って、本来は地元民のために作られた背の低い門でさ、こうやっ
て、四つん這いでくぐればそいつは犬と見なされ関所を通らなくって
済むって仕組みさ。
  「
()(おんな)」を企てる大名や武家の子女様は、そんなみっと
もない真似しないだろう、ってさ。でも、お武家様は手形を持ってい
るんだから、明日の朝、関所が開くのを待ってもいいけど、どうしま
す?」




 「いえ。京まではまだ先があります。少しでも道中急ぎましょう」




 「では、お武家様にもひとたび、犬となっていただきます。でも、
お前さんはどー見ても猿だから、『犬くぐり』はとおれないねぇ。松
金さん」




 「
(たわ)け。俺様に人間の法を当てはめるな」




 といった遣り取りを経て、無事に道中を続けるに至。


 雨は途中から雪に変わり、翌翌日。
御油(ごゆ)宿(しゅく)から東海道と合
流し、池鯉鮒宿を越えると
尾張(おわり)の国に入る頃にはやんだ。


 そう。その前に御油の飯処にて、桃太郎は初めてうなぎを食べた。


 東海道の名物といえばとろろ汁が定番だが、ここだけの話、桃太郎
はとろろがあまり得意ではない。そこで、在り来たりな定食を注文し
ようとする桃太郎に、おこまが勧めたのが浜名湖名物うなぎの蒲焼で
あった。


 少々値は張ったが、折角の旅の空。名物のひとつも食わないなんて
粋ではないと強く推され、桃太郎はうなぎを食べたのである。これを
記しておかないわけにはゆかない。



 尾張の宮宿からは船旅になる。


 ここにも「佐屋街道」という
(わき)往還(おうかん)があったながら、か
なりの遠回りになることに加え、東海道沿いに関所が設けられている
こともない。船賃は桃太郎が支払うという提案もあって、そのまま

(しち)()
(わた)しをゆくこととなった。東海道唯一の海上路であ
り、渡った先は伊勢神宮、一の鳥居が建てられた
伊勢(いせ)の国の東側
玄関口、桑名宿である。


 伊勢といえば伊勢海老! と騒ぎ立てるおこまを、桃太郎も今度ば
かりは押し止めた。うなぎと比べても、伊勢海老の贅沢度合いはまさ
に一桁違っていたからである。


 そこで、桑名名物の
(はまぐり)を食べることにした。


 軟らかく煮込まれた伊勢うどんも食べた。


 旅のお供はもちろん天むすに決まっている。


 東海道の伊勢周辺は、盛んな
()()()(まい)りに対応して、
駿府周辺に次ぐ宿場町の密集地帯であった。


 桃太郎一行はさくさくと宿場を経由し、伊勢に入ったその日には、

近江
(おうみ)
の国、土山宿へと抜けていた。


 その日の宿にて、御伊勢参りもせずにこんな贅沢ばかり、罰が当た
るのではないかと不安がる桃太郎ではあったが、松坂牛のすき焼き鍋
へと伸びる箸が止まることはなかったのである。



 伊勢から伊賀を通って
和泉(いずみ)(くに)、難波湊へ直進する、
竹内(たけのうち)街道(かいどう)」という古来からの道もあったが、桃太郎達
は当初の目的に従い、京を目指す。


 近江に入ると途端に宿場同士の間隔が開いてしまう。


 そうはいっても京の都と伊勢神宮を結ぶ道。整備の行き届いた美し
い里山のひろがる雪深い内地をのんびりと歩き、日本最大の淡水湖・

琵琶湖
(びわこ)
が見えてくると、おこまのテンションが最高潮に達した。


 日が暮れかけていたこともあったが、
草津(くさつ)宿に着くや否や旅
宿を決めてしまったのである。


 草津といえば、やはり温泉。旅といえば温泉、と結びつける人も多
いとおもうが、東海道沿線に温泉宿場は意外なほど少ない。


 その辺り、どうにも前々から楽しみにしていたようだった。



 桃太郎にも依存はなかった。これまで歩きどおしだったのだ。京都
入りの前に、ここらで旅の疲れを抜いておくことも必要であろう。


 桃太郎はこっそり男装を解くと、おこま、松金さんとの雪見露天風
呂を満喫したのであった。



 翌日。琵琶湖の南の端を渡ると
山城(やましろ)の国、京洛三条大橋へと
到達する。


 多少寄り道はしたものの、桃太郎が江戸を旅立ち、十七日後の東海
道中踏破であった。




 「……ここまで来ておいてなんなのでありんすけど」




 わたし、なにをしてありんしょう……っ。



 江戸を出て、むしろ『灸なり』焼失から数え半月過ぎ。当初の予定
であれば、江戸に戻っていてもおかしくない月日である。


 顔だけでなら鬼より恐ろしい利兵衛の姿が脳裏に過ぎり、桃太郎は
どんよりと肩を落とした。


 こんなことなら手紙など、惣吉に託すんじゃなかった。いっそのこ
と死んでいると誤解され、事が全部済んだのち、ひょっこり顔を出し
た方が、叱られなかったような気がする。


 月を跨ぎ、如月六日。立春を過ぎても春の気配を感じるにはまだま
だ早い。




 「ほら、お武家様! なにしてるの。京の都は広いからね、ぼんや
りしてるとはぐれっちまうよぉ!」




 通りの区画が江戸に比べても画然としており、立ち並ぶ民家、商家
も雪をかぶり、造りの古いものがよく目立つ。歴史ある京の都を見て
みると、江戸がどれだけ新しい町であるかが分かるというものだ。


 手を振るおこまに招かれて、桃太郎は駆け出した。自分には先見の
明が優れていることはない。そんな自分がここまで来たことも、別に
後悔しているわけでもない。


やるべきことは、見失っていない。



――――――――――――――――――――――――――――――――


 ここ京都に瓦職人を営む
()()()雪路(ゆきじ)という男がいた。


 京よりも遥か西の端、
長門(ながと)の国よりその腕前を磨くため十年
前より上京した、いわばこれから約二百五十年先に活躍をみせる、

長州藩(ちょうしゅうはん)志士(しし)
の先駆け的存在である。



 が、この時
長州(ちょうしゅう)並び周辺国を統治していた毛利(もうり)家が、
幕府
御前帳(ごぜんちょう)に提出した国高を不当であるとされ、公認は申請
高の七割(当初五十三万石を打ち出したが、関が原の戦いで敗北した
ことを理由に三十六万石が相当とされた)にされたこと。一国一城令
に伴い築城を命じられたのが、辺鄙な
(はぎ)の地であったことなどか
ら、藩に「倒幕思想」が内々に盛り上がっていたことなどを、雪路は
知るところになかった。



 また、彼の
()()()という変わった姓は、今から百年ほど
昔、西国で大勢を
(ふる)っていた大内一門に由来することも、彼には
さほど意味を有してはいなかった。



 そんな雪路が今、なにより気にかけていること、それは、




 「雪路はん。結婚はまだどすか?」




 ことある毎に
老輩(ろうはい)となった瓦職人の親方が口にする言葉だ
った。さらに親方の口添えであろうが、雪路の請け負った仕事先の旦
那やご隠居までが、挨拶代わりとばかりに「結婚はそろそろかな」「
もう結婚も近いですか」と言って来る。


 正直うんざりしたいところであっても、そうは
卑下(ひげ)に出来ない
理由もよく分かっていた。親方は雪路の誠実さと職人としての腕前を

(いた)
く気に入ってくれ、親方には子供もいなかったことから、家督
を譲りたいと云ってくれたのだ。


 しかしそのための唯一の条件が「妻をとること」だったのである。



 雪路は女性が苦手、ということはない。女性と会話をすることは楽
しいし、多少の女遊びだって経験済みだ。


 としても、それが結婚し、ひとつ屋根の下で一生を共に過ごす、と
なると勝手が違ってくる。


 正直な話、女性と遊ぶのは楽しいが、職人同士で騒ぐのだって同じ
くらい楽しい。知り合いの女子から誰かひとりを選ぶとしても、その
基準が雪路にはなかったのである。



 雪路の
系譜(けいふ)である大内(おおうち)一門は、戦国時代も終わりを見
せる弘治元年から三年(1555〜1557)、謀反や毛利軍との交
戦に敗北する
(かたち)ですでに滅亡している。


 永禄十二(1569)年にはその一門から大内輝弘が乱を起こし、
一度は長門の隣、
周防(すおう)の国奪回に成功するも、これも毛利軍に
よって制圧されてしまった。


 今は大内一門の分家が譜代大名として当たっているが、出会いがな
いから、といっていまさら家名に頼ろうともおもわない。




 「自分は、まだ職人としての腕を磨いていたいんじゃが……」




 それは強がりでも負け惜しみでもなかったが、正確でもなかった。
妻がいるならいるに越したことはないし、なにより世話になった親方
への恩返しの方法はそれしかないのだ。相手さえいれば今日明日にだ
って結婚したっていい気構えはできている。


 ただ、相手が問題なのであった。親方の家督を継ぎたいがためなら
誰でもいい、なんて自分は軽薄な男ではない、とおもっているし、一
生を
()()げるのであればそれなりの器量良しで、なにより自
分の心が跳ね上がるくらいのときめきが欲しい、とか考えていた。



 つまり、あれも欲しい、これは嫌だと優柔不断な
()(まま)
()
ね回していたのだ。それでもこうも毎日「結婚、結婚」といわ
れると、雪路は思うのである。




 「どこかに、自分の運命の相手はおらんもんじゃろか……」




 と。



 今日も今日とて、親方の計らいがひしひしと感じる京花街・宮前町
の遊郭の
(かわら)()きを任された雪路は、早々に仕事を終え、葺い
たばかりの真新しい
(いらか)に腰を下ろし、運命の相手との出会いを
夢見ていた。



 夢の瓦と書いて甍。



 甍
(いらか)
とは屋根瓦の中でも主に軒へ使用する物をいう。


 ふとするとロマンチックである。だからといって、もちろん雪路に
しても、こんな屋根の上に出会いが転がっているなど本気で夢見てい
たわけではない。こうして仕事を終え、ほんのり暖かい屋根の上です
日向(ひなた)ぼっこが、単純に好きだったのである。




 「夏場はこうもいけんけどなぁ」




 
然様(さ い)ですか。



 京都には
(ろく)花街(かがい)(嶋原を抜いて五花街ともいう)と呼ば
れる公的遊郭街が点在し、江戸吉原の起源はこの京六花街であると
か、京の花街が富士吉原となり、それから江戸に移ったなどの俗説が
飛来するくらいの年月を経た重い歴史を刻んでいた。


 京花街は遊戯の殿堂である。それは吉原のように娼妓を揚げて泡沫
の夢を買う遊郭から始まり、茶屋、芸子屋、
歌舞伎(かぶき)
浄瑠璃(じょうるり)
阿国(おくに)歌舞伎などなど、その域は文芸であり、文
化である。



 中でも宮前町は阿国歌舞伎や
若衆(わかしゅう)歌舞伎(かぶき)が盛んで、昼
前であることから、♪チントンテン〜チントンテンツク、と練習だろ
うか、太鼓や
拍子木(ひょうしぎ)の音色が瓦を伝って聞こえていた。



 こんな昼間から花街に来たところで、芸子さんのひとり出歩いてい
ることもなし。雪路はあくびをしながら甍に渡した台木へ手を伸ばし
た。


 竹水筒に入ったお茶を飲むためだ。



 今日はよほど呆けていたのだろうか。高所の作業中、普段は目を瞑
っていても物を取り逃すことなど考えられなかった雪路の手が、竹水
筒の側面を撫でつける。



 バランスを崩し、台木から落ちる竹水筒。


 雪路は仕方なく身体を起こし、カンコロカン、と切り妻の側面を小
気味良く転がり落ちてゆく竹水筒を眺めた。途中で栓が抜けたため、
回りながら中身のお茶が飛び散り出す。




 「それ、♪チントンカラコン〜カラチントンツク〜」




 どうせ落ちたところで誰に当たりもしまい。


 かやしたお茶は勿体無いが、一仕事終わったところである。次の仕
事場に行く前に、昼飯がてら補充すればいいだけだ、と水筒は、傍観
する雪路の目と鼻の先で♪コン、と跳ねると屋根から見えなくなった。



 ***!!?




 「ありゃ……?」




 水筒の落下する音と、それに被せるようにちいさな悲鳴。雪路はが
しゃがしゃと瓦を鳴らし軒先から下を覗いてみた。




 「――す、すまん! 大丈…………っ」




 軽く視界が揺らぎ、誰かを探す。


 ひととおり妓楼と妓楼の間を往復し、気がついたのは、自分が自然
と探していたのは「女性」であったこと。



 ふらつく視線が止まった。


 この辺では見かけることもない白の陣羽織と、対照的なぬれたよう
に輝く黒髪。


 いや、実際に濡れていた。鉢巻を巻いた若い侍は頭を押さえながら
足下の竹水筒を拾い上げ、涙目でむっと屋根の上の雪路を睨みつけて
いた。




 「――あっ!?」




 雪路も若い侍を見詰めていた。見詰めてしまっていた。


 眼球に神経が集中するあまり自重を支えること疎かにする程に。



 気がついた時には空中にいた。見上げた空は青く綺麗で、吹きつけ
る風が冷たかった。ほんの僅かな空中遊泳。
逆蜻蛉(さかとんぼ)を切ると
はまさにこのことだ。



 ****!!




 「っ痛っっっぇええっ!」




 背中から全身に走る激しい振動が寸の間遅れて痛覚を刺激する。蜻
蛉から
逆海老(ぎゃくえび)に反って悶絶する雪路にそっと影が差した。




 「だ、大丈夫ですか……?」




 目を開けるとそこには、今までに見たことがないほど愛らしい

菩薩
(ぼさつ)
様が、蓮の花などを背景に、心配そうな顔を覗き込んでい
たのである。




 「じ、自分、ずいぶん身勝手に生きて参りましたけど、極楽に来れ
たんじゃね……」




 「そういう冗談が言えるくらいなら大丈夫そうですね。はい、水
筒。自分から罰当たってくれたみたいですから今回は許してあげま
す。次からは気をつけてくださいね」




 若い侍は水筒を雪路に握らせると、前髪からお茶を滴らせつつ歩き
出した。その振り向きざまの横顔、後ろ姿をぼんやり見送る雪路は背
中の痛みも忘れ、若い侍が残した鈴のような今の声を
反芻(はんすう)して
いた。



 なんて、綺麗な人なのだろう。やさしく、自分の非を責めようとも
しないで、その上心配して声をかけてくれるだなんて、とおもった。


 そして、今まで自分が女性にそこまでの興味を懐かなかった理由が
分かった気がした、とか納得したふりをした。



 運命の相手との、待ちに待った出会いであった、という勘違いは、
あながち間違っていなかったりもして。



 京花街・宮前町。「
陰間(かげま)」と囁かれるこの街のもうひとつの
特徴が、十代の若い少年給仕を雇い入れての「男色」であったこと
を、雪路が知っていた、ということも特になかったのだが。