四話 ―7
『鬼』。
人であり、人から疎外され、人に恨みを懐いた――いや、人により、
社会により、怨み懐くよう仕向けられたモノ。
気性の激しい人間が、その嚇怒の果て、『鬼』となることはな
く、『鬼』は、常に受動的でなければならない。
今、鬼を「受け入れた」と、そういいなさったか、お春ちゃん……?
*************!!
振り下ろされた車輪は桃太郎の右側と左側の地面を同時に断ち割っ
ていた。
距離感が掴めなかったわけではない。完全におこまと松金さんを狙
った攻撃だ。
つまり、桃太郎など相手にされてもいない。邪魔なふたりを片付け
た後で、いつでも殺すことができる、とそいうことだ。
ちょうど桃太郎の後ろで蹲っていた雪路も無事だったのは、運がよかっただけである。
「おこまさん!」
桃太郎は声をかけ、同時に駆け出していた。
それは、おこまさん助けてください、という意味だ。
車輪は枝で桜木とつながっており、攻撃後は引き戻される。その間を
縫い、おこまは迷わず駆け寄った。恐怖に固まる雪路のもとへ。
「ほら、ぼーっとしてたら轢き殺されちまうよ! 歩けない
ならそこの植木にでも隠れていとくれ……っ!」
桃太郎の掛け声は、雪路さんを助けてください、という意味であっ
た。おこまはそれを理解し、動けない雪路を引き摺って少し離れた植
木の陰へと移動する。
「自分なんかより、も、桃太郎さまを……っ!?」
「大丈夫……ほっときゃしないわ」
駆け出した桃太郎は桜木の根元へともぐり込んでいた。おこまが離
脱したことでお留守になった右の車輪も、ここまで近づかれては気軽
に振り回せない。
桃太郎は走りこむ勢いをそのまま腕の振りに加え、『色斬』を打ち
下ろした。
「っくぅ……!?」
ごつっという鈍い音がして、『色斬』は思いがけない抵抗と共に桜
木を支える幹へと食い込んだ。手首にも不意を衝かれた圧迫を感じ、
表情を険しくするも、それでも『色斬』を手放さなかったのは凄いと
思う。
桃太郎は咄嗟に足を突き出し、自分の体重を使って刀身を幹から引
き抜くが、勢い余ってよろめいてしまった。
そこを待ち構えていたのか、狙い、叩き落される桜木の右車輪。
桃太郎は、またしても咄嗟に、飛び込み前転。車輪の一撃を寸での
ところで回避してみせた。
「なかなか動きがよくなってきたな」
「なんか、もうつべこべいうより先に、やらなきゃ、って感じ
で……って松金さん?」
「ん? ああ、あっちは分身だ。それにしても、今日鬼となったば
かりの鬼女がこれ程の力を発揮するとは驚きだ。彦九郎でさえ、冷気
を使いこなすにはそうとうな訓練を必要としたというに」
冷静で、もっともな意見なのだが、素直に頷けないのはなぜだろう。
桃太郎は、上空で桜木の枝を引っ掻き、噛み付き、次々と掻き消え
てゆく分身の猿達を見上げ、同情半分苦笑した。
「なんとも凄まじい、執念と怨みだな」
「執念でも怨みでもかまいません。植物部分じゃ駄目なんです!
なんとか桜木の身体まで昇る方法はありませんか!?」
桃太郎と松金さんは分身の猿相手に注意が逸れ、散漫となった車輪
の攻撃を躱しながら桜木と距離をおく。
桜木は振り回していた左の車輪を幾本もの枝にばらけさせ、うっと
おしく纏わりつく猿の悉くを薙ぎ払った。
「なんとかあの鬼の注意を逸らすことができればあるいは……」
「おこまさーんっ!」
策ありながら、あの数の分身を瞬殺されるとは思ってもいなかった
のだろう、驚嘆を隠せずに呟く松金さん。
ここですかさず桃太郎は、再び彼女の名を呼んだ。
「はいはい、困ったときのおこまさんですよぉ」
前線へと復帰してきたおこまは手首足首の間接をぽきぽき鳴らしな
がらに桃太郎達と合流する。なんとも素敵なタイミングである。
「おこまさん、実は――」
「はいはい大丈夫よ。あたいがあいつの注意を逸らす。その間に松
金さんがお武家様を鬼の本体まで移動させる、でしょ?」
「あ、あい。お願いできますか!?」
緊迫した表情の桃太郎の頭をぽんぽんと撫で、おこまはふらふら桜
木へと向かい合った。
「お武家様にそこまで頼られちゃあ、期待に応えないわけにはゆか
ないよね。でも、今回はお猿さんのサポートも受けられそうにない
し――」
最後に首の間接を柔らかくし、軽く前傾姿勢をとるおこま。
対する桜木は、両袖から伸びる枝を分け、これまでよりもひとまわ
りちいさな車輪を左右に二枚づつ生み出すと、隙のない迎撃体制をと
っていた。その気になれば車輪を使って高速移動することも出来た桜
木が、敢えて今の位置から動かなかったのは、より高い勝算を選んで
のこと。
鬼となっても、怨みを成就せんとする判断力は衰えていない。
相手にとって不足なし。
おこまはそこから大きく前後に脚を開いて更に身を低くし、地に手
がついてしまうのではないかというくらいに屈みこんだ。
「おこまさん。ちょびっと本気だしちゃおっか――なっ!」
微かに、爪の先が地面を引っ掻くのを合図に、おこまはここまで路
地を走って来たときとは比べ物にもならない速度で駆け出した。
駆けながら、速度を増してゆく獣の走りともまた違う、スタートの
時点で、彼女の姿は目にも止まらぬものとなっていた。
*! *! *! *! *!
桜木はただ身構えていたわけではない。突如おこまの進行方向を狙
い、地面から鋭い棘の並んだ根がうねり飛び出す。周囲の広い範囲、
どこにいても攻撃が出来るように根を張り巡らせていたのである。
顎の下から突き上げられる根のうねりに合わせ、おこまは身を
くねらせ紙一重で回避してゆく。根が、どこから飛び出すのかをすで
に予測しているかの如き反応であった。
駆ける速度は緩まない。桃太郎はおこまの動きを固唾を呑んで
見守った。
「こちらもそろそろ仕掛けるぞ、準備はいいか?」
「あ、あい! お願いします!」
そう。おこまの動きがどれだけすばらしくても、彼女は飽くまで陽
動。縦横無尽に鬼の力を揮う桜木を止められるのは、なにを隠そ
う桃太郎だけなのだ。気を引き締め直し、再度『色斬』を構える。
その時、おこまの前方に出現する根の壁。多少の体術で躱せる範囲
ではない。おこまはその壁へ、減速なしで突っ込んでゆく。
「――おこまさん!?」
地面から突き立つ根の壁に腹部を突き上げられ、おこまの身体がく
の字に打ち上げられた。
「いや。そう心配することはないようだ」
おこまは空中で半回転。壁の向こう側へ降り立つと、何事もなかっ
たかのように駆け出していた。
自分の突進速度を突き出す根に乗せ、勢いを利用して根の壁を跳び
越えたのである。
まったく、常識離れした身体能力、そして動体視力。あとは女の
勘、とでも、おこまなら云って退けそうな余裕さえ窺えるほどだった。
歯噛みし、桜木はとうとう両腕の車輪を振り下ろした。
一枚でも掠れば致命傷は免れない回転を有している。おこまの蹴り
が如何に強力でも、破壊できるのは精々一枚。それが合計四枚。
撓る枝の先で、不規則ながら正確におこまを狙う。
おこまは地面に手を着いて、走りながら唱えていた呪文を開放した。
********!!
おこまより少し先の地面が隆起し、吹き上がった土砂が瞬く間に障
壁となり、車輪を四枚同時に受け止める。
彦九郎の吹雪を相手に使用した大地の防御壁である。障壁となる土
砂は噴出を続けているので車輪に削られてもすぐに新しい壁面を構築
する。
申し分ない防御力を発揮するこの術の弱点は、その持続時間がほと
んどないこと。
目の前に立ち塞がった土壁に驚愕する桜木だったが、その壁
はすぐにもとの地面へと戻ってゆく。
今度こそと枝を撓らせる桜木の目の前に、『色斬』を振り上げた桃太郎がいた。
「――桃ちゃん!?」
土砂が治まるにつれ、桜木にも状況が明良かになってくる。
桃太郎は階段のよう、徐々に高く、重なり合った猿達を足場に立っ
ていた。
そこで全てを理解する。おこまの単独突進も土の壁も、桃太郎をこ
こまで押し上げるための伏線であったこと。
「お春ちゃん――いえ、桜木姉女郎さん。姉女郎さん
も遊女なら、廓の怨みは自分を磨いて見返しなんせ!」
「――うっ……うるさいっ!?」
桃太郎の振り下ろした『色斬』を上体を反らすことで避ける。
「あく……っ、松金さん達!」
追撃を試みようにも足場がない。桃太郎が足下の猿達に声をかけた。
「――させへん!」
身体を無理矢理に反らしたその体勢から、桜木は腕を振るい、車輪
で桃太郎の足下を薙ぎ払った。何匹かの猿が掻き消え、構成していた
足場が崩れる。
「あ、うわ!?」
「お武家様っ!」
「邪魔をしはりまんなぁぁぁああ!!」
それは、バランスを崩し落下する桃太郎を助けに向かうおこまを足
止めするため。
そして時同じく落ちる桃太郎に止めをあたえるため。
桜木の怒鳴りつける雄叫びに呼応して、周囲の路地を覆い尽
くすほどの根が一度に噴出した。
*************!!
「――っ!?」
根には鋭利な棘が満遍なく並び、分身の猿を貫き消して、躱し切れ
なかったおこまの全身を何度も浅く切り裂いた。これが、あの高さか
ら落下した桃太郎に及ぼす被害は想像するに耐えない。
――『色斬』! せめて『色斬』をお春ちゃんに……っ!!
決死の覚悟で右腕を振りかぶる桃太郎。桜木へと『色斬』を投げつ
ける。『色斬』は命中する。確信があった。
姉女郎さんの想いが宿る『色斬』なら、必ずお春ちゃんを救っ
てくれる! たとえ――っ!
たとえ。桃太郎自身が串刺しになろうとも。
「お、お武家様ぁ……っ!」
桃太郎はためらわず、『色斬』を投げ放った。桃太郎の手を離れた
『色斬』は桜木目掛けて真っ直ぐに飛んでゆき、桃太郎の身体は下
へ、鋭い刃と化した根へと落ちてゆく。
自分の傷など顧みず、おこまは生い茂る根を掻き分けた。それ
はとても落下に間に合う動きではなかった。それでも、助けたか
った。桃太郎を死なせたくはなかった。
まさにその刹那である。桃太郎の身体が、空中でその軌道を変えた。
唐突に、落下する桃太郎目掛け、何かが横からぶち当たったのだ。
わりと強引なその衝撃に、桃太郎自身「ぐえ!」っと声をもらす。
「桃太郎さま! ご無事じゃったとね!?」
寸の間、桃太郎は誰何する。
「――雪路さん!?」
桃太郎を抱え、滑らかに夜空を移動する雪路は、腰の荒縄にてつな
がれていた。縄の先は案に違わず、中天にかかるお月様へと真っ直ぐ
伸びているかにみえた。
その姿、翼をひろげ滑空するキジの如し。路地を挟む杉並木に荒縄
を這わせ、そこに鉤縄を引っ掛けての空中遊泳である。
一介の瓦職人が見せるとはおもえない芸当に、桃太郎も思わず頬を
綻ばせた。
「桃太郎さま、その、自分……男色なんかじゃあらんですから!」
「い、今はどーでもいいですからっ! 雪路さん、『色斬』を!
わたしの太刀を追えますか!?」
桃太郎はこんな危機的な状況にあっても『色斬』から眼を離さなか
った。
しかし、願い虚しく、ふたたび上体を反らし、桜木は飛来する『色
斬』を鼻先で躱していたのである。
桃太郎が串刺しになっていないことに気がついた桜木は車輪を振り
回し、宙吊りに揺れている桃太郎と雪路を切り裂かんとする。
「大死一番!! 任しちょってください!」
雪路は荒縄を手繰り寄せ、ときに伸ばし、反動をつけることで車輪
を見事に回避しつつ、桜木の後方へと回りこんだ。
桃太郎に投げられた推力が失われ、失速落下してゆく『色斬』を、
期待に応え、受け止めてみせたのであった。
「雪路さん、ありがとうございます――大丈夫ですよ。わたしは、
最初からちゃんと女の人が好きな人だと判っていましたから」
機を逸さず。桃太郎は雪路から『色斬』を受け取ると、雪路
の膝を借りての跳躍。
「桃太郎さまぁ〜っ!」
桃太郎に蹴られたことで反動をつけられた雪路は嬉しさとときめき
に涙を流しながら揺られてゆく。
桃太郎はそんな雪路をくすりと笑い、三度身を仰け反
らせ、車輪を振るう桜木へと向き合った。
「これで死んだらええ! お桃ちゃんんんっっっ!!」
八双……そして上段へと振りかぶり――
「お桃ちゃんではあらせんよ――桜木」
月光が閃き、光背が、桃太郎の姿を神々しくも朧げに包み
込む。
確実に桃太郎の身体を切り裂いたかにおもえた車輪は、虚しくすり
抜け、雪路につながれた荒縄を切るに過ぎなかった。
「――お前さんを負かしたのは、花魁・絹月が名代――桃太郎!
憶えときなんし!」
「――――――!?」
光背が弾け、一転『色斬』の稲妻が打ち落とされた。
今度こそ、抵抗もほとんどなく、『色斬』は桜木の顔面からその身
体を一刀両断にする。
ちいさく拍動し、桜木を覆っていた植物も角も、枯葉が待って散る
かのようにその役目を終える。
気を失い、ぐらり崩れる桜木を、桃太郎は抱きかかえた。
とはいえ、翼を失った桃太郎も落下していることに変わりはな
く。
棘もないし、この高さなら落ちても死ぬことはなさそうでありんす
が……痛そうでありんす。
目を瞑り、お尻に力を入れ、衝撃に備える桃太郎ではあったが、身
体はおもったよりも軟らかいものに受け止められ、きょとんとした。
目をひらくと、地面に折り重なるようにしてある多くの猿達。
「これは……猿団子! 松金さん、助かりましたぁ……」
「俺様の分身は、強引に消されるとこっちに疲労として返って来る
んだ。今夜は流石に疲れた。もういいか?」
桃太郎に押し潰され、衝撃を和らげては掻き消えてゆく猿達を
げんなりと眺め、松金さんは猿団子を解除した。
「お武家様……いつもながら、お見事でございました」
「お、おこまさん……! お、お手前こそ。目にも止まらぬ疾走
術。感服いたしました」
全身に幾つもの切り傷を負い、唐草の小袖も袴も赤く染めるおこ
ま。今回ばかりは桃太郎よりも怪我をしてしまい、面目なさそうにに
かっと苦笑する。
桃太郎もそれが分かり、怪我を心配している意味も込め、真似てに
かっと歯をみせた。
「そういえば、今夜一番の功労者のあいつは……」
「もし……」
おこまが言いながら暗い丸太町通に視線を漂わせた。
卒然、すぐ近くよりかけられた呼び声に、おこまは怪我を負った身
体に鞭打って、反射的に警戒態勢をとる。
闇夜に、月の光を浴びて白く輝き浮かび上がるひとりの舞妓が佇ん
でいた。
「そちら、うっとこの舞妓どすさかい、引き受けに上がりました」
煌びやかで上品。着物も打ち掛けも、帯も白を基調として揃えら
れ、髪だけがどこまでも黒く、白塗りの整い過ぎた顔から下が、浮か
んでいるかにみえた。
それは幽艶な美。追求の果て、人を超えた美しさがそこには
あった。
おこまは彼女の姿を目の当たりにし、言葉を失い、居竦んでしま
った。話しかけられているのに返事が出来ない。完全に飲まれ、見惚
れてしまっていたのである。
「夕凪太夫……あの……桜木姉女郎さんは……無事でありんす」
桃太郎は桜木を支えつつ立ち上がり、現われた夕凪へと歩み寄った。
召し物、簪、櫛、化粧。それらは違えど、桃太郎
は、夕凪に負けずとも劣らない完成された美を見たことがあったので
ある。
いや、その美しさの前では、如何に夕凪であっても決して勝り
はしない。
「夕凪太夫。どうか、このことは、太夫の胸の中だけに、仕舞いお
いてはくだされせんか……」
頭を下げる桃太郎へ、夕凪は差し出した手で、桜木を支える桃太郎
の手に触れ、撫でるように滑らせた。
「なにを? 桃太郎はん。うちはただ、妖怪に攫われた桜木を取
り返しに来ただけどすえ。妖怪退治、ご苦労さんどした」
夕凪の手は桃太郎の手から、桜木の背中から肩に回されると、もう
片方の手を膝の裏に入れ、気絶したままの彼女をひょいっと抱き上げ
てしまった。これにはおこまもぎょっとする。
痩せ型の桜木であっても体重はそれなりにあるはずだ。加えて帯か
ら打ち掛けまで、一式着込んだ重さを持ち上げることは、不可能では
ないが簡単なことではない芸当である。
しかもそれを、夕凪のような華奢にしか見えない女性がやってのけ
ている。自分も他人のことは云えないながら、正直驚いてしまった。
夕凪は桜木を抱きかかえ、しゃなりと歩き始め「ほな、おおきに」。
その一言を残し、通りの暗がりへと消えてゆく。
「あ――ああ。肩凝ったぁ……なにあの人? このあたいが、そば
で声かけられるまで気づかないだなんて……あたい、鬼より怖かった
んだけど……」
夕凪がまったく姿を消すのを確認してから、空気は冷たいのに酷い
汗をかいた気分でへたり込むおこまに、桃太郎は苦笑を浮かべてしま
う。
「そういわないでください、おこまさん。上級遊女が、ましてや太
夫の夕凪姉女郎さんが、こんな夜中にひとりで出歩くことなんか
ありません。近くに、若い衆を待たせてあるんだとおもいます」
「そうかい? あのさ……お武家様の姉女郎さんも、あん
な感じだったのかい……?」
「まさか! でも、少しは似ているところもありましたけど。『苦
界にありて、住むは鬼か物の怪か』……わたしや姉さんば
かりが菩薩だった、というわけじゃありませんけど、廓は、そういう
場所ですから」
住むは鬼か物の怪か……では、わたしはどちらでありん
しょう。
桃太郎は『色斬』を一振り。
今斬ったモノは、たぶん――
ぱちん、と鞘に収め、白く溜息をこぼした。