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             五話 -


 まったく同じ建物を目の前にし、桃太郎は若干の既視感を否めなか
った。


 遠江(とおとうみ)
で桃太郎が会った保土ヶ谷誠次郎と、ここにいる『保土ヶ
谷誠次郎』は同一人物なのか。では、
遠江(とおとうみ)でなにも言わず、絹月
の太刀を突き返したのは、全て桃太郎をここへ呼び込むためだったとい
うか。


 桃太郎なら、ここまで辿り着けると信じて……?




 「そういやぁ、蟻助とかいうあの男、とうとうあれきり顔を見せなか
ったね」




 おこまが期待ハズレだ、とばかりに右の拳を左の手のひらへ叩きつ
け、火傷に響きでもしたのだろう。左手をぱたぱたとさせていた。



 あんな奴はどーでも――と言い掛けて、やっぱりやめた。桃太郎にと
って蟻助などは本当にどうでもよかったのだ。現われないに越したこと
はないが、いちいち悪態で答えるのも面倒だ。


 その代わり、意識をこの先の『保土ヶ谷誠次郎』へとシフトさせる。
まずは、なにはなくとも鬼退治である。




 「あれ……」




 「どうした?」




 見覚えのある門構え。
(すん)()(たが)わぬとおもわれたその造り
に、明良かな不足を見つけて桃太郎は声を漏らした。釣られて松金さん
が首を桃太郎を見上げるようにする。




 「この門には表札がかかってません」




 桃太郎は遠江で見上げた薬医門に掲げられた立派な表札を思い出しな
がら言った。通常表札は、その屋敷の完成を以て玄関に掲げるものであ
る。




 「この屋敷はまだ完成とはいえない?」




 「もしくはここに住んでるのが『保土ヶ谷』じゃない」




 「あるいは、そいつは『保土ヶ谷』の表札を掛けることができない」




 「じゃあ。はじめから保土ヶ谷誠次郎と同じ屋敷を建てる必要がない
じゃないですか」




 思い思いの意見。桃太郎は苦笑した。


 さっきから何度となくおもっていることである。ここで、あれこれ考
えても仕方がない。



 桃太郎は歩み出て門に手を触れた。それだけで、堅牢な門は木の擦れ
合う音を重く響かせながら完全にひらいていった。




 「頼もぉおおっ!」




 桃太郎はありったけの大声で叫ぶ。今回は献上で参ったわけではない
ので遠慮は要らない。


 それに、今回はひとりではない。遠江で謁見したときより落ち着いて
いる気がする。



 門内、飛び石の先。書院造りの玄関がかたりと揺れ、
(なめ)らかに開い
たのが見えた。果たして。対応に現われた小男にまずこぼしたのはおこ
まであった。




 「――ここで出てきたよ……」




 屋敷から出てきた蟻助は玄関を離れ、飛び石の上をひょいひょいと歩
くと中ほどで立ち止まった。




 「お待ちしておりやしたよ。えー……」




 にやにやと笑っている、そんなふうに見えるだらしのない顔。桃太郎
は嫌悪感を堪え、正面から蟻助を見据えた。




 「あなたが、なぜここにいるかなどは聞きません。案内してくれます
ね、『保土ヶ谷誠次郎』のもとへ」




 「『保土ヶ谷』様のところへね。えーえー。きっちり案内致しやすよ。
『保土ヶ谷』様まで」




 あのときも、こいつはそんなことを言っていたな、なんてことを思い
出す。そうして連れてゆかれたのは吉原だったわけだ。


 嘘ではないけど言葉通りの意味ではない。今回もまともに案内すると
は思えないながら、桃太郎は門をくぐった。




 「さあ、それでは遅れずについてきなさい」




 これもそうだ。


 桃太郎をイラつかせるためにやっているのかともおもったが、そうで
はないことに気がついた。これは蟻助の職業病のようなものなのだ。女
衒という商売をつづけてきた間、この男は何度となく「ついてきなさ
い」と繰り返してきたのだろう。


 束縛し、離れることを許さない。どうせお前には、俺から離れて生き
のびる力はない。そう、売られた女達へ言い聞かせる呪いの言葉だ。



 玄関も同じ。
()がり(かまち)の幅も高さも、奥に見える畳の青さも同
じ。


 だが。桃太郎は迷わず、この旅で四足目となる
草鞋(わらじ)のままで上が
り込んだ。


 つっかけ
草履(ぞうり)を脱いで上がった蟻助は怪訝な顔で見上げ「ま。構
いやせんがね」と
(せん)(だっ)て廊下を歩いていった。



 蟻助のあとについて艶の出された廊下を進み、通り過ぎた座敷の数三
つか四つか。縁側を渡り、案内された奥座敷――から蟻助は先へと歩み
をつづける。




 「どうしたんだい?」




 桃太郎が足を止めたものだから後ろのおこまも
(とど)まってしまう。




 「あ、いえ……」




 言いよどむ桃太郎に代わっておこまはそっと隣の襖を引き開けた。そ
して顔を戻す。




 「誰もいないようだよ?」




 「あ、あい。そうですか……」




 桃太郎が知っている『保土ヶ谷』邸はここまでだ。蟻助がまた余計な
場所へと案内しようとしているのではないかと勘繰ってみたものの、こ
こではないなら桃太郎に見当はない。やはり蟻助についてゆくしかなか
った。



 桃太郎が視線を前へ戻すとそこに蟻助の姿がなくなっている。



 桃太郎は慌てて廊下を駆け出した。廊下の突き当たりは左右へ分かれ
ていた。それぞれの通路を急ぎ確認すれば、左の通路の先、窓のない暗
がりを越えた先にひとつだけある明り取りの窓の前で、蟻助はちいさな
灯明を手にしていた。




 「ほら。余計なことをしてるとおいてゆきやすよ」




 「く……」




 桃太郎はまた駆け出した。


 通路に入ると一瞬自分の手足さえ見えない闇に包まれた。


 視線の先では蟻助が桃太郎に構わず背を向け、すぐ後ろの階段を降り
てゆく。先には青白い有明の光陰差し込む窓。蟻助の右側で輪郭を照ら
し出し揺れる灯明の光。



 * * * * * * * * !




 「――っ!?」




 桃太郎は肩を掴まれ足を止められた。


 息を呑み振り返ればそこにいたおこまの、目を丸くした表情に、自分
の顔が酷く強張っていたことに気がついた。




 「お武家様!」




 「そんなにも簡単に心を乱されてどうする。ただでさえここは敵の陣
地なのだぞ」




 つづく松金さんの叱咤激励。




 「…………すいません。つい」




 いつの間にか暗がりの通路は過ぎ、右側の窓から冷たい外の風が吹き
込んできて、桃太郎の長い髪を
(なび)かせた。



 下りで屋敷の地下へでもつながっているのか、階段の奥で蟻助の足音
が聞こえる。一瞬脳裏に持ち上がる「おいてゆかれてはならない」とい
う不安を桃太郎は頭を振り回すことで強引に振り払った。




 「ああああああっ! あ! あ! ああ! よし! 御心配お掛けし
ました! もう大丈夫でありんす!」




 頭では理解していた蟻助からの呪い。


 しかし桃太郎の心はいつの間にか掌握されていた。おこまや松金さん
がいなければ、まんまと敵の術中である。最後に左右の手のひらを両頬
へと張り叩いた。思わず飛び出した廓詞。その方が、普通に話すより気
合が入るのだ。




 「あ痛っ……いたたたぁ……」




 「っちょと、しっかりしとくれよ。ここからが正念場なんだろ?」




 叩きつけた頬より左手の方が痛くて、手をぱたぱたさせる桃太郎。


 『保土ヶ谷』邸に入る前のおこまを真似したつもりであったが伝わら
なかったようだ。しれっと受け流されてしまってちょっと寂しくなる。



 ま、まぁ、確かにいまはそれどこではありせんか。



 桃太郎は自重自重と言い聞かせ、意を決して地下への階段を降りてい
った。



 階段は暗かったながら、下から
()れてくる明かりで足下の位置は見
落とすことはなかった。


 階段を降りきるとそこは右側一面は石組みの壁。左側には幾つかの部
屋が並ぶ。通路側、部屋の入り口は太い角材を格子状に組み合わせた造
りになっていた。


 格子の隙間から内部は丸見えであり、扉には冷たい南京錠が掛けられ
ている。


 室内であるにも関わらず、吐く息も凍え、白く染まった。




 「こりゃあ、地下牢だね。わざわざ案内なんてしてもらいたくない場
所だけど……」




 「注意しろ。俺様達をここへ閉じ込めるつもりなのかもしれん」




 閉じ込めるにしろ、この二人を取り押さえるにはそうとうな労力を必
要とするだろうけど。


 桃太郎は松金さんの警戒だけを受け取り地下牢の通路を進んだ。通路
の先、灯明を手にした蟻助が待っている。




 「えーえー。こんなところへまで来てもらってすいやせん。こちらの
奥で
(あるじ)がお待ちになっておりやす」




 「わざわざ自分から牢屋に入ってくれてるなんて酔狂だねぇ」




 「いやいや。この先は牢ではございません。主があなたをお待ちする
ための部屋ですよ、桃太郎?」




 まるで芝居本でも読んでいるかのような言い草だ。それに今、蟻助は
『保土ヶ谷』様、から
呼名(よびな)(あるじ)、と変えた。やはり、この先に
待つのは、ただの『保土ヶ谷誠次郎』ではないようだ。


 桃太郎はもう二度と飲まれまいと『色斬絹月』の柄を左手で握り締め
た。じん、とした痛みと熱が頭と視界を呼び覚ましてくれる。




 「ならばゆきます。扉を開けてください!」




 えーえーえーと頷き、蟻助が重たそうに石の扉を引き開けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 空間は岩盤を
()()いただけのような、剥き出しの岩肌を晒して
いた。


 半球形の部屋は足下の地面すらも岩肌そのままである。踏み出す場所
を間違えると草鞋の底が岩に突き上げられ、足の裏に痛みを促した。


 若干の風があるのか、
(とも)された松明(たいまつ)が揺れる度、岩盤の黒い
断面を時折ぬめりと光らせる。完全に密閉された空間ではないようだ。




 「こりゃあ、鉱脈だね。これだけのもんなら優にひと財産だよ」




 おこまが感嘆の声を漏らすのも尤もであった。岩に含まれているのは
鉄鉱石。それもその輝き具合から、かなりの良質であると判断できる。



 桃太郎は理解した。『保土ヶ谷誠次郎』はこれを発見したからこそ、
絹月の身請け金を用意することができたのだ、と。



 そんな鉱脈に穿たれた空間に――『保土ヶ谷誠次郎』はいた。




 「やあ。よくきたね。待っていたよ」




 待っていた。桃太郎を。


 絹月の使いとしてではない。桃太郎自身を待っていた、と『保土ヶ谷
誠次郎』は言った。



 遠江で桃太郎が会ったものと同じ顔、同じ
(かく)(えり)(そで)(くく)
り、
胸紐(むねひも)、無紋の直垂(ひたたれ)


 ひとつだけ違っていたのは、その男の額に、これまで出会ってきたど
の鬼よりも均衡のとれた象牙のような角が二本、すらりと生えていたこ
とである。



 『保土ヶ谷誠次郎』は桃太郎の姿を確認すると立ち上がった。二つの

篝火
(かがりび)
が彼の凛とした姿を浮かび上がらせる。


 背後には虎王の横断幕。鎧兜こそ身につけていないが、戦場の本陣

()
くあらん装用であった。




 「足下は悪いがじきに慣れる。長旅で疲れたであろう。こちらへ来な
さい。歓迎致そうぞ」




 桃太郎は蟻助のあとに続いて歩いた。『保土ヶ谷誠次郎』もゆったり
とした歩みながら、本陣前の篝火から数歩出たところで止まった。光源
を背にしたため、その顔にはさっと影が射す。



 そこで、桃太郎も足を止める。『保土ヶ谷誠次郎』までの距離は目方
でまだ六間ほど。ここから近づくには、どちらかが歩み寄らなければな
らない。


 桃太郎が
(とど)まったものだから、蟻助ひとりが『保土ヶ谷誠次郎』ま
で辿り着く。




 「あなたが、本当の『保土ヶ谷誠次郎』ですね。江戸吉原は花魁・絹
月の名代を
(うけたまわ)りまして参上致しました桃太郎でございます。ご無
礼を承知で申し上げます。まずは一太刀。なにも言わずに斬らせていた
だきたい!」




 抜剣。桃太郎は足を開き、すっかり様になった動きで八双に構える『
色斬絹月』。


 見据える先、『保土ヶ谷誠次郎』は袖内に腕を曲げているのか構える
そぶりもなく、そばで控えるような蟻助にも動きはなかった。


 この『保土ヶ谷誠次郎』も、蟻助の手によって鬼へと変えられたのだ
ろうか。『保土ヶ谷誠次郎』の鬼を祓い、ここにいる以上、蟻助も捨て
置くことは出来ない。


 蟻助は鬼ではないので斬るわけにはゆかないが、おこまや松金さんの
協力があれば捕らえることくらいは可能なはずだ。



 そこまで考えていた桃太郎の
杞憂(きゆう)は、次の瞬間、まさかの無駄骨
で終わった。




 「……少し混乱しているようだ。話を、一番短絡にしよう。だから私
の話をそなたには聞いてもらわなければならない」




 『保土ヶ谷誠次郎』は直垂の袖内から右の腕を突き出した。


 袖内から伸びた腕は、真っ黒であった。


 その、鬼の力を持った黒い腕を
(かざ)しただけで、蟻助は消えたのであ
る。


 そこにはもとから岩盤の影が射していただけだったのだ。影は落ち着
きを取り戻し、そこに影があることすらも視認が困難となる。




 「な、なにを……――」




 「配役・蟻助は役目を終えたのだ。だから退場してもらった」




 配役? 退場? 桃太郎の前に現われた蟻助という男は、最初から『
保土ヶ谷誠次郎』の手駒――それが『保土ヶ谷誠次郎』の持つ鬼の力な
のか?


 桃太郎が幾つもの疑問符に戸惑っている間に、『保土ヶ谷誠次郎』は
右手を桃太郎の方へと突き出した。




 「――っ!?」




 『保土ヶ谷誠次郎』の顔は人間そのものであり、角も象牙のような乳
白色。唯一突き出された腕も黒では、色味が増したかどうかも判断でき
ない。


 桃太郎は咄嗟に『色斬絹月』を正面に構えた。が、変化はなにも起き
なかった――?



 桃太郎には――


 ――振り返る。そこにいたおこまの姿が暗い影に融け、消える。彼女
の口は、確かに桃太郎を呼んでいた。




 「――――――――」




 「配役・おこまも役目を終えた。それからそれも、すでに不要だ」




 桃太郎の手の中には岩肌が
(もたら)す影が射しているだけだった。


 桃太郎は、はじめから『色斬絹月』などを持ってはいなかった。




 「そしてその金糸猴は影法師ではないが、そなたをここへ導くため、
使わした私の手の者だ」




 桃太郎が、今、自分がどんな顔をしているのかも分からぬ状態で首を
動かし、辛うじて松金さんまで視線を移動させた。


 松金さんは『保土ヶ谷誠次郎』の言葉を肯定するかのように、桃太郎
からゆっくりと距離をとった。




 「――――――――」




 「それはまぁ、そういうことだ。澄まんな」




 桃太郎の膝が折れた。


 硬い岩盤にどさりと腰を落とす。痛みはあったのか。


 分からなかった。そしてそのまま、
(あお)()けに背中から倒れ込ん
だ。痛みは、頭と視界が少し揺れたと感じたくらいだった。


 どうせ、もうなにも見えてなどいない。




 「――――――――」




 口の中だけが異様に乾燥し、吐息が
(せつ)(せつ)と吐き出された。


 おそらく、水分は全て眼底へ回されているのだ。涙だけは、四方八方
恐ろしい程に溢れ続けていた。



 歪む視界に、桃太郎を覗き込む誰かの顔が入り込んだ。




 「これまでよくがんばったね。だが全部そなたのために仕組んだこと
だったのだ。許せ私の妹よ――」




 黒い、ただただ黒い顔をした鬼が、笑ってその黒い、黒い、どこまで
も黒い手を差し出してきた気がした。



 まるで、穴に落ちてゆくよう。