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 むかしむかし。あるところに、お爺さんとお婆さんがおりました。



 お爺さんは山へ
(しば)刈りに。お婆さんは川へと洗濯に行くのが変化のない毎日の日課となっており
ました。ところがある日を境に、お爺さんとお婆さんの暮らす家には、ひとりのかわいらしい女の子が
一緒に住むようになりました。



 芝刈りに行ったお爺さんが、光る竹の中から見つけてきたのか、洗濯をしているお婆さんの目の前を、
どんぶらこと大きな桃が流れてきたのかは定かではありません。それでも女の子は、お
(もも)、と名づ
けられ、貧しいながらも大切に、大切に育てられました。



 そんな幸せな日々は、お桃が七歳を迎えた冬に、一度目の終止符が打たれることとなります。




 「お桃や、よくお聞き」




 お爺さんはお桃を
囲炉裏(いろり)(ばた)へ座らせると神妙に口を(ひら)きました。




 「あちこちへと工面はしたのだが、今年の冬を三人で越えることはどうしても出来そうにない。そこ
でわしらはお前を、都へ
奉公(ほうこう)に出すことに決めた。寂しいおもいをさせてしまうかもしれないけ
れど、わしらと暮らすよりも温かいお
ご飯(まんま)だって食べさせて貰えるだろう。分かってくれるね?」




 「はい。お爺さん。しばらく離れて暮らすことになっても、お桃は大丈夫です」




 
(ひざ)を抱きかかえるようにして座るお桃は、しっかりと頷きました。もちろん奉公に出ること、住
み慣れた家を離れることは嫌だった。それでもこの家の貧しさはよく分かっていたし、お爺さんもとて
も辛い決断をしたのだということは察することが出来たので、ここで自分が、
()(まま)に駄々を
()
ねるようなまねはするべきではないと判断したのです。七歳という年齢には不釣合いな分別(ふんべつ)
を、お桃はすでに備えていました。




 「婆さんや」




 お桃の承諾を受けて、お爺さんは土間の向こうの扉へと声をかけました。扉が引き開けられると、家
の外にいたらしいお婆さんが、男の人を連れて入ってきました。




 「お桃や。この人が奉公先まで案内してくれる蟻助さんだよ」




 「奉公先ですね? えーえーえー。きっちりと案内いたしやすよ。奉公先まで」




 
蟻助(ぎすけ)と紹介された男は笑っていました。頭に被った雪の乗ったままのあみ傘を持ち上げ、お桃
をじろじろと
()めるように見詰めます。矢鱈(やたら)と「奉公先」を強調して言うこの男を、お桃はあ
まり好きにはなれそうにありませんでした。




 「それじゃあこれを持ってお行き。お前の着替えと、必要そうなものをそろえておきましたからね」




 こうして、お桃は旅立ちました。不安はありましたが怖くはありませんでした。自分が家を出ること
で少しでもお爺さん、お婆さんの暮らしが楽になるのであれば、このくらいの苦労は仕方がないと感じ
てもいたのです。



 それから、蟻助のあとについて、しんしんと雪の降り積もる山里を歩き続けました。途中なん軒かの
民家へ立ち寄り、蟻助はお桃の他に、お
(はる)、お(すず)、という娘を引き受けておりました。



 蟻助の用意する宿はいつも貧相でした。四人は当然
相部屋(あいべや)で、お桃たち三人も車座になって
眠りましたので、年齢はそれぞれ離れておりましたが、いつしかとても仲良しになりました。



 歩いて励ましあい、歩いて支えあい、歩いて手を取りあい越えて、迎えた五日目の朝。お桃たちは奉
公先があるという都へと到着したのです。



 柳橋というところから
猪牙(ちょき)舟に乗せられ、川を渡った先にある、また渡った川だと思ったもの
が、五間(約9メートル)はある広いお堀だと知ったのはしばらくあとのこと。屋根のない黒塗り堅牢
冠木(かぶき)(もん)をくぐり、お桃たちは慶安(けいあん)三(1650)年、江戸日本橋は葺屋(ふきや)(ちょう)
吉原(よしわら)遊郭(ゆうかく)へと連れられて参りました。



 お桃は、
(おお)(もん)の内側にまた町がある光景にきょとんとしておりました。まずお春、お鈴が大
門をくぐって間もなくの『大国屋』という店に預けられ、そこから少し歩いた、吉原でも仲町と呼ばれ
る中央区で、蟻助は『
(やいと)なり』という妓楼(ぎろう)へお桃を連れてゆきました。



 お桃は、これまでに見たこともないような煌びやかな店構えを前にし、どこか足下がふわふわしたよ
うな気分で、蟻助のあとをただ追いかけました。奉公、と聞いていた普通のお屋敷仕事ではなさそうだ
とは気がついていましたが、実際になにをすることになるのかは、幼いお桃にはまだ分からなかったの
です。



 通された奥座敷で『灸なり』の店主である
利兵衛(りへい)は、蟻助と言葉少なに話を交わすと、お桃へ
と視線を遣りました。




 「おう。お桃、長旅だったな。疲れただろ?」




 利兵衛は、いつもしまりなくへらへらとしている蟻助と違い、眉間と口の端に深く
(しわ)の刻まれた
厳しい顔つきで、一見すると恐ろしい
形相(ぎょうそう)をしておりました。それでもお桃に語りかける口端に
(かす)かな笑みが浮かびます。お桃は、利兵衛に首を横に振って答えました。もちろん疲労(ひろう)
困憊
(こんぱい)
であったことは言うまでもありません。それでもお桃の不安は別のところにあり、疲れたと
口にすることで、その緊張が切れることを恐れたのです。




 「旦那さま。お桃は、ここでなにをいたしたらよいのですか?」




 ここでそんなことを訊ねてくる者はこれまでにひとりとしておりませんでしたから、利兵衛は思わず
声を呑みました。その厳しい顔に浮かぶ笑みが大きくなります。




 「蟻助が言うだけの
気丈(きじょう)()だなぁ。よし、お桃。お前はこれから「桃太郎(ももたろう)」と名
乗れ」




 「も、桃太――?」




 「おう。
(きぬ)(つき)を呼んでくれ」




 太郎、とは一般的に男子名に使われる名前です。それよりその名前をこれから名乗る、とはどういう
ことなのか。お桃がそんな疑問を口にするのを遮って、利兵衛は
(そば)に控えていた(わか)()
呼びかけました。




 「お桃。お前はこれから色んなことを学ばなきゃならねぇ。そうして少しでも早く、自分の借金を返
せるようにしないとな」




 「自分の、借金――?」




 「――おう、絹月。これからこの桃太郎をお前さんの
禿(かむろ)として預ける。しっかりと面倒見てや
んな」




 「あ、あの! 借金っていうのは――」




 「桃太郎。お前の
姉女郎(ね え)さんになる絹月だ」




 お桃の問い掛けなどまるで耳に入っていないかのような利兵衛は、座敷の
(ふすま)(くち)に立つそち
らを指して、呼ばれてやってきたお女郎さんを紹介しました。その強引な目配せに釣られて振り向いた
お桃は、疑問も疲労も不安も、一瞬の内に忘れ、お女郎さんの姿に眼を奪われてしまいました。



 豊な黒髪は絢爛豪華な
島田(しまだ)(くず)し、伊達(だて)兵庫(ひょうご)に高く結い上げられ、透き通るよう
(つや)(つや)鼈甲(べっこう)(かんざし)珊瑚(さんご)大玉で飾り付けられております。さらに眼にも鮮や
かな着物に打ち掛けは夢をみているようでありました。そしてなにより、上品な
白粉(おしろい)と、対照的
に嫣然と
(べに)の引かれた気品漂うのは、初めて目にした最上級の美。



 「――絹月にありんす」




 それが、お桃と
花魁(おいらん)・絹月の最初の出会いでありました。



 これは、今から生まれる物語でございます。